効用



 育ち盛りに、1日4食など、大したことではない。
 付き合いの悪い康一も、父親であるジョセフ・ジョースターと何やら約束があるという仗助も、今日は一緒ではなく、億泰はひとりでトラサルディーへ来ていた。
 億泰がひとりでも、おや珍しいという表情も見せず、トニオはいつもと変わらない態度で億泰の手を取って、舌足らずな日本語で、愛想のいい笑顔を浮かべた。
 ここで食事を終えて帰っても、また父親に何か食べさせるついでに、自分も食べてしまうのだろうけれど、10代の胃は底なしで、一体どこへ消えるのかと思うほど、その食欲は凄まじい。
 トニオも、それを悟ってしまっているのか、億泰へは少し多めに料理を盛り付けているような気がするのは、気のせいなのだろうか。
 取られた手を、少し照れながら自分の方へ引き戻して、億泰はちょっと申し訳なさそうに、
 「・・・今日はフツーのがいいなあ。」
と正直に言うと、トニオはにっこりと微笑んで、ワカリマシタと厨房へ引っ込んだ。
 まずはグラスに1杯の水、それをゆっくりと味わっている---まるで、上等のワインのように---と、例の薄切りトマトとチーズの前菜が出て来て、もうそれだけで、億泰はよだれを垂らさんばかりに、ぴかぴかに磨き上げられているフォークを取り上げる。
 真っ白でやわらかなテーブルクロス、つやつやの食器、透き通るグラス、しっかりと重いフォークやナイフ、ひとりで切り回しているこの店を、トニオは一体どんなふうに管理しているのかと、いつ来ても、何もかもが完璧に整えられている、小さな店の中を見回して、億泰は、もぐもぐと、トマトと白いチーズの絶妙なハーモニーを舌の上で味わいながら、思う。
 トニオが使うオリーブオイルの匂いにも味にも、すっかり慣れてしまった。
 朽ちる寸前の廃屋まがいの家に、肉の芽の暴走で心も体も崩壊してしまった父親とふたりきりで暮らす億泰の、ここはひそかな逃げ場所だ。
 親しい誰かと来てもいい。あるいは、今日のようにひとりきりで、トニオのにこやかな笑顔を見て、おそろしく美味な料理を味わうのもいい。
 視界が曇るほどの湯気を立てるパスタには、今日はトマトソースがかかっていて、トニオが目の前でおろしてくれた、クリーム色のチーズがたっぷりと乗っていた。
 脂身の少ない牛のひき肉は、口の中で甘くほどけて、ほどよい酸味のトマト味と、口の中で絡み合う。詳しいことはわからない、何やらスパイスやらハーブやら、そんなものの香りがまざり、細かく刻まれて、気の遠くなるほど長い時間炒められたらしいたまねぎの味くらいなら、かすかにわかるような気がする。
 ちゅるんと、1本長く伸びていたスパゲッティを、ソースをはね飛ばしながら、静かにすすり込んで、そう言えば、そんな子どもっぽい食べ方をするなと、兄の形兆によく叱られていたことを思い出した。
 たった3つしか違わないくせに、物心ついた時から、父親代わりだった兄の形兆は、躾けにはとても厳しかった。箸の持ち方から茶碗の置き方から、物覚えの悪い億泰に、短気を丸出しにしながらも、辛抱強く付き合ってくれたものだ。
 親がちゃんと揃ってねえからって、ヨソの連中にバカにされんのはごめんだからな。
 何もかもが、とてもきちんとしていた兄だった。
 殴られてばかりだったし、何かと言えば、怒鳴るしかしない兄だったけれど、何もかもが、不器用で要領の悪い弟の億泰を心配してのことだったのだと、あの頃だって、ちゃんとわかっていた。
 父親代わりという気負いのせいか、歳よりも老成して見えた形兆と、その形兆に守られて、歳のわりに子どもくささが抜けきらない億泰と、どこかバランスの悪い兄弟だったなと、トマトソースの奥深い味の絡まり具合に、ふと、億泰はフォークを口元に運ぶ手を止めた。
 トニオのこの店は、隅々までトニオの気遣いが行き届いて、何もかもが完璧に見える。けれどそこに、人を拒む気配はなく、小さくはあってもレストランらしく、誰もが足を踏み入れてほっとするような、そんなあたたかみが、これも隅々までしみ渡っている。
 几帳面という印象は同じでも、兄の形兆のそれとは、少しばかり向かう方向が違う。億泰は、フォークに巻いたままのスパゲッティを、ほんの数瞬目の前に眺めてから、ちょっと歯を食い縛った後で、ようやく口の中へ入れた。
 兄は、このトニオの店を気に入っただろうかと、ふと考えて、いや多分、寄りつきもしなかったろうと、そう思う。
 人と親しく付き合うことを忌み嫌っていた兄だったから、億泰が友人を作ることすら、想像もしなかったろう。
 形兆は、ずっと、億泰の兄であり父であり、少しばかり付き合うのに骨の折れる、友人でもあった。けれど、楽しく食事をする相手ではなかったなと、今思い出している。
 むっつりと黙り込んで、口を開けば小言ばかりで、それでも、形兆のことを嫌いだと思ったことはなく、ただひとりの家族として、みっともないほど慕って、まとわりついていた。
 兄貴。頭の中で、久しぶりに呼んでみた。まだ、どこかにいるような気がして、今この瞬間も、あの家で、自分の帰りが遅いのをいらいらと待っているような気がして、家に帰れば、どこで何をしていやがったと怒鳴られて、頭を小突かれるような気がして、また父親のことで愚痴をこぼすのを聞かされて、楽しいと言えるようなことは何一つないのに、それでも、形兆がいてくれたらと、何度も何度も思ったことを、また思う。
 殺されて当然の人間だったと、そう思って、けれど形兆は自分をかばって死んだのだと、むごたらしい姿を、また思い出していた。
 オレのこと、あんだけ足手まといでマヌケだって言ってたクセに、もう弟だって思っちゃいねえって言ったクセに、なんでかばったんだよ、兄貴。殺されても当然かもしれなかったけどよォー、なんでひとりで先に逝っちまったんだよ、兄貴。なんでオレひとりにしちまったんだよ、兄貴。
 パスタの皿は、まだ空になっていなかったけれど、フォークを動かす手は完全に止まって、膝に広げていた真っ白いナプキンを、気がついたら空いた方の手に握りしめていた。
 兄貴ィ、バカヤロ兄貴ィ・・・。
 トニオが、新しいグラスに水のお代わりを運んで来て、それから、笑顔を絶やさないまま、新しいナプキンをそっとテーブルに置いた。
 億泰は、ナプキンを顔に当てて泣いていたから、トニオの手しか見えず、彼がテーブルのそばに立って、自分を見つめている気配だけを感じている。
 「・・・あんまうますぎて、涙出て来ちまったじゃないスか・・・。」
 信じてくれるかどうかわからなかったけれど、そう言って、億泰はごしごしとナプキンで顔をこする。トニオがまた微笑んだ様子に、ようやく顔を上げて、目元だけを外に出すと、上目にトニオを見た。
 ぐすぐすを鼻をすすり上げながら、汚れてしまったナプキンを丸めて、泣き顔を隠すために無理に笑って、億泰はまたフォークを取り上げた。
 少しだけ顔を傾けて、億泰に微笑みかけると、トニオは、空のグラスと、億泰が置いたばかりのナプキンを取り上げて、足音もなく厨房へ去ってゆく。食事を再開して、その後姿を見送りながら、億泰は、そう言えば、そんな年頃の大人に、あんな笑顔を向けられたことはなかったなと、まだ赤い目元を指先でこすりながら思った。
 教師と相性の良いわけもなかったし、どう見ても不良にしか見えない---格好だけにせよ---億泰に、わざわざ好意を示して微笑む輩がいるはずもなく、兄の形兆も含めて、誰かが億泰に向かって笑うとすれば、それはいつだって蔑みや嘲りでしかなかった。トニオのように、こちらまでつられて微笑んでしまうような、あたたかな笑顔は初めて見たような気がする。
 料理人として、自分の出す料理を心の底から気に入っていると、全身で示す億泰を、トニオが嫌うわけもなければ、人の好さが丸出しの、案外と躾けの良い- --形兆の、おかげだ---その態度に、トニオが好感を持っているのだと、悟れるほど聡明でもない億泰の、けれどその素直こそ、彼の長所であり美徳であると、トニオが思っていることを、億泰が知るはずもない。
 気づかない億泰だからこそ、またトニオにひどく気に入られているのだと、知りもせずに億泰は、ようやくパスタの皿を空にしていた。
 厨房から覗いていたようなタイミングで、トニオが皿を下げにやって来る。
 「プディングとティラミス、どちらにしますカ?」
 んーと、あごに指先を当てて、にこにことトニオが待つ間、その笑顔を眺めながら、億泰は、まだ口の中に残るパスタの後味を味わっていて、そうして、どうしようかと、のろのろ考えた。
 考えて、それから、自分の帰りを待っているだろう、父親のことを思い出した。
 これから家に帰って、今夜の夕食の心配をしなければならない。あの父親のために。夕食の後に、デザートがあれば喜ぶだろうかと、そう思って、珍しく早い決断を下した。
 「・・・両方、持って帰るって、ダメ?」
 歳相応の甘えた声で、精一杯茶目っ気をこめて、こんな態度が自分に許されるだろうかと、形兆の苦々しげな表情を思い出しながら、トニオの笑顔を真似てみる。
 トニオは、一瞬驚いた顔をして、そして、億泰のちょっと硬張った笑顔に向かってお手本を見せるように、またさらににこやかに微笑んだ。
 「イイですヨ。すぐに包みまショウ。」
 何度見ても、輝くような笑みだと思いながら、それを自分の口元に写そうと、少しばかり無駄な努力をしている億泰を置いて、トニオがくるりと背中を見せる。けれどその場で足を止めて、肩越しに振り返ると、笑顔を変えずに、億泰に言った。
 「億泰サン、今度、お父サンも連れて、一緒に来て下サイ。」
 え、と聞き返そうとした時には、トニオはもう厨房に消えていた。
 思わず店の中を見回して、あれは間違いなく自分に言ったことだと、他に誰もいないことを確認して、億泰は、思わず椅子の中で体の力を抜いていた。
 この店だけではなく、この世のどこにも居場所のないだろうあの父親を、ここに連れて来いと、確かにあの笑顔は言ったのだと、けれどそれをそのまま素直には受け取りかねて、億泰はひとり戸惑う。
 兄貴ならなんて言うかなと、また考えた。
 食べたばかりのパスタソースの味を、思い出しながら、もしそうしたら、父親はきっと喜ぶだろうと、何を注文してやろうかと、もうそんなことまで考え始めていた。
 トニオが持って来てくれていた、2枚目のナプキンで、また目元をこすった。涙が止まらないのは、あの水のせいだ。トニオはまだ厨房から姿を現さず、億泰は、またしばらく、真っ白いナプキンを汚す羽目になった。


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