雨の日々

 雨ばかり1週間も降り続いた後、制服の襟にカビでも生えそうに、傘の中で縮めていた肩を戻さないまま、今日はやけにカバンを膨らませて、億泰が今週は3度目、トニオの店にやって来る。
 椅子に手を掛ける前に、トニオは、カプチーノですネとにっこり声を掛けて来て、そのままキッチンへ戻って行った。
 トニオによれば、カプチーノはイタリアでは朝の飲み物らしく、それを日夜問わず飲む日本人は最初にはとても奇妙に思えたらしかったけれど、
 「コーヒーの味にこだわるのは、多分日本人がイチバンですネ。」
と、それほどコーヒーが好きと言うことだろうと納得して、今では何時に億泰が店に来ようと、まず最初に出されるのはカプチーノだ。
 郷に入っては郷に従えと言う、ほとんどそのままのことわざがイタリアにもあるそうで、
 「つまりソウいうことデス。」
 億泰には、トニオが日本語ですべて説明してくれない部分はよくわからなかったけど、それは言葉の問題よりも、むしろ自分の頭の悪さなのだろうと納得して、今はキッチンから流れて来るコーヒーの香りに鼻を鳴らし、テーブルに置いたカバンを開けて、膨らみの原因の中身を取り出す。
 取り出したのは、つぶれかけたトイレットペーパーと、束ねた白いビニール紐で、億泰はトイレットペーパーをくるくると本体から剥ぎ取るように胸の前に伸ばし、両手を広げた分の長さを切り取った。
 ちょうどそこへ、淹れ立てのカプチーノを持ってトニオがやって来て、テーブルの上に広がったトイレットペーパーにちょっと目を丸くする。
 「何ですカそれ、億泰サン。」
 「トニオさん、悪ィんだけどよォーハサミ貸してくんねェかなァ。」
 「はさみデスか?」
 カプチーノを、とりあえずトイレットペーパーを避けてそっと置き、トニオはまたキッチンへ戻ってゆく。それから、奇妙に真剣な仕草で、恭しくはさみを両手で持って戻って来ると、もちろん刃先は自分の方へ向けて、それを億泰へ差し出す。
 「あんがとさん。」
 「ソレは何デスか、億泰サン。」
 受け取ったはさみで、すぐさまトイレットペーパーを切り始めた億泰に、トニオが辛抱強くまた尋ねる。
 はさみの手を取め、ちょっときょとんとした表情を浮かべ、数秒掛かってやっとスイッチでも入ったように、億泰は合点が入ったとトニオに向かって小さく何度もうなずいた。
 「ああああああ、これかァ、大したことじゃねェんだけどよォーてるてる坊主作ろうと思ってよォー。」
 「てるてるぼーず?」
 「トニオさん知らね? 晴れになるおまじないなんだぜェー。」
 「初めて聞きマス。」
 トニオはそのままキッチンに戻らず、億泰の隣りの椅子に腰を下ろした。
 「雨が降るとさー兄貴がよく作ってたんだよなァー。遠足の前の日とかさ、後、雨降ると買い物大変じゃん? だからさァーオレん家用と、トニオさん用かなァって思って。」
 「ワタシ用ですカ?」
 「雨降ると客足悪ィじゃん? オレ来るたび他に誰もいねェからさァ。」
 億泰の、やたらと語尾を伸ばす、外国人のトニオにもわかる、美しいとか正しいとかとは程遠いしゃべり方は、正直なところ理解するのに相当集中力を必要とする。トニオは眉間にしわを見せないように、知らずに億泰の方へ身を乗り出していた。
 「コレを何かするト、雨が止むのデスか?」
 「そうそう。ま、気休めだろっけどよォー。」
 言いながら、億泰の手は、お世辞にも器用とは言いかねる動きで、ある程度の大きさに切ったトイレットペーパーを丸め、別の切れ端は平たいままで何枚かずらして重ね、その真ん中へ丸めたトイレットペーパーを置くと、後はそれを包んで丸みの終わりをひねり、けれど重ねたトイレットペーパーがうまくまとまらず、あちこちが浮いて、何だかさっぱりわからない代物に仕上がった。
 「ああああああああ、やっぱ小さ過ぎるかなァ。」
 「チョット待って下サイ。」
 言うが早いかトニオは飛び上がるように椅子から立ち上がり、小走りに──ほんとうに、走って行った──キッチンへ向かい、戻って来た時には、トイレットペーパーの2倍の高さがあるキッチンペーパーを抱えていた。
 使い勝手がいいように、ちょうど正方形になるくらいに切り取り線の入っているそれは、ふかふかと柔らかくて厚みがあって、紙よりも布に近い感じが、確かにちょうど良さそうだった。
 「おおおおおお、イイじゃんイイじゃん!」
 1枚、早速切り取って、億泰がちょっと感動したような声を上げる。
 きちんと広げた真ん中に、その大きさに合わせて新たにまるめたトイレットペーパーを置き、さっきと同じようにすると、今度はきれいにまとまって、億泰は満足そうに小さくガッツポーズをする。
 それから、一緒に持参していたビニール紐を適当な長さに切り、丸みの、ひねったところへ巻いて、ぎゅっと結んでから、残った紐からぶら下がった形に、トニオの目の前に差し出した。
 「これをよォー軒先とかにぶら下げんだよォー。」
 「のきさき?」
 トニオが、聞き返すと、億泰は、えーとと天井の方へ目玉をぐるりと上げて、
 「あー玄関とか、そういうところかな!」
 説明にはあまりならず、けれどトニオはそれ以上質問はせず、億泰の手の中にぶら下がっている、初めて見るてるてる坊主にそっと手を伸ばした。
 「何だか、ヒトの形みたいに見えますガ。」
 「みたいじゃなくて、人なんじゃね?」
 トニオの指がすっと引っ込む。
 「・・・ヒトなんですか・・・?」
 文化の違い、特に日本という国に深く敬意を抱くトニオは、様々なことをたいていは笑顔で受け入れているけれど、宗教観の違いと言うのか、これが人なら、どう見ても首吊りの姿にしか見えず、それをどこかにつるして晴れを祈ると言うのは、ようするに生贄を模したものかと思って、それを無邪気に作って喜ぶと言う感覚が理解できなかった。
 「よくわかんねえけど、何かまあ、これが天気の神さまみたいなもんじゃね? で、玄関にいてもらって祈ってもらうみたいなもんかなァ。」
 神さま。いっそうわからなくなる。カソリックを身近に置いて育ったトニオには、いまだ多神教の観念は理解できているとは言い難く、基本的には、"ありとあらゆるものに霊的なものが宿っていて、それに対して敬意の気持ちを抱いて暮らすこと"程度に認識して受け入れているけれど、丸めたトイレットペーパーで作った人形らしきものまで敬う日本人と言うのは、いつまで経ってもトニオには不思議な存在だ。
 ただ、日本のことを知り始めた最初の頃に感じた嫌悪のようなものはすでになく、今もまた、ちょこんと億泰が指先につまんでいるその人形もどきののっぺらぼうの顔らしき部分を眺めていて、そこにうっすらと浮かんで見えるのは、自分のためにこんなものをわざわざ作りに来た億泰の、ちょっとはにかんだような笑顔だ。
 これはようするに、大切な人のことをいつも考えている──その人のために、晴れの日が欲しい──ということの表れのひとつなのだろう。極めて日本人的な、とてもとても控え目な思いやりの表現だ。生贄、という考えは、とりあえず頭から消すことにした。
 億泰は作ったばかりのてるてる坊主をテーブルの片隅に置き、次に取り掛かった。
 「マダ作るのデスか。」
 「トニオさんにふたつと、オレん家にふたつかなァ。仗助ん家にも作ってもいいんだけどよォ、ウチ近所だし、そっちはいっか。」
 話しながら自分で解決してしまい、億泰は楽しそうに、それでもやや真剣な手つきと目つきで、トイレットペーパーを両手の間で丸める。
 カプチーノは手を着けられないままだったけれど、トニオは微笑んで億泰の手元を眺めて、そのことは何も言わなかった。
 「兄貴がよォ、オレの遠足とかあると、前の晩によく作ってくれたんだよなァ。雨で延期とか中止になると弁当作るのめんどくせェからなって言いながら、オレこういうの苦手で、兄貴に頭はたかれながら一緒に作って、でも結局うまくできなくて、兄貴が全部作ってたんだよなァ。」
 手と口を一緒に動かしながら、億泰の指先へこもる真剣さがどんどん増してゆく。トニオは、先にできたてるてる坊主にそっと手を伸ばし、両手の上に乗せて眺める。
 「とても上手デスよ億泰サン。お兄サンも喜んでマスね。」
 「・・・ならいいんだけどよォー。」
 はにかみがいっそう深くなって、そこにさらに、悲しみもひと色重なる。
 形兆のことを口にする時はいつもそうなるように、億泰は突然無口になって、そうして手の動きも止めた。一重の目が、少しばかりうるんで来るのに気づいていない振りで、トニオはさもたった今気づいて慌てた調子で、
 「あ、カプチーノが冷めてしまいますネ。」
 カップにトニオが手を伸ばすより先に、億泰がそこへ右手を伸ばし、
 「ヤベヤベッ、てるてる坊主に夢中になりすぎちまったぜェー。」
 持ち上げたカップを、熱さも確かめずに口元へ運び、酒でもあおるようにひと口、幸いにやけどをするような温度ではなかったのか、そのままカップの陰に億泰の表情は隠れてしまった。
 カップを置くと、案の定白い泡が唇の上に残り、白いひげでも突然生えたように、まだ幼い億泰の顔立ちに添えればまるで仮装のようで、トニオは思わずくすりと笑う。
 「泡が、億泰サン。」
 「え? やべッ!」
 慌てて手の甲で拭おうとするのに、トニオはテーブルのナプキンを軽く広げて手渡した。
 何もかもが不器用に見える、何とも要領の悪い億泰の所作に、トニオは微笑ましい気分を抑えられず、だからこそこの少年の示す優しさにはとても価値があるのだと、もう何度思ったかしれないことをまた考える。
 「今度一緒に、お兄サンのお墓参りに行きまショウ。前の日にてるてるボーズを作って、晴れるようにノキサキにつるしましょう。」
 「え、ナニ? 一緒に?」
 トニオの突然の申し出に、億泰が鳩が豆鉄砲食らった──日本語の表現はとても難解だ──ような表情で、口元にナプキンを当てたまま、ちょっと呆然とトニオを見つめ返して来る。
 「億泰サンにはお世話になってマスから、お兄サンに、お礼をしニ。」
 お世話、と言うところで、億泰がちょっと疑わしげに目を細め、けれど生来物事の裏を深く探ろうとするタイプではないから、トニオの言葉をそのまま受け取って、とりあえず納得したような表情がその後に浮かんだ。
 「だから、今度は一緒に作らせて下サイ、てるてるボーズ。」
 「オレがトニオさんに作り方教えんのォ? マジでェ?」
 途端に、億泰の顔が、照れくさそうに真っ赤になった。仗助によれば成績は学年でも下から数えた方が早いし、本人も自分を馬鹿だと言って憚らない億泰にとって、誰かに何かを教えると言うのは、何か身に着かない、そして気恥ずかしいことなのかもしれない。可愛い人だと、トニオはまた思った。
 「じゃあさ、オレがてるてる坊主教えるから、トニオさん、オレに美味いカプチーノの作り方教えてくれよッ!」
 こういうのは、エビでタイをつると言っただろうかと、トニオは頭の中で文章を組み立てながら、どちらがエビでタイかわかったものではないとも、ちらりと考えた。
 「いいデスよ。キビしくシゴいてあげますネ。」
 にっこりと、慈愛の微笑みを浮かべると、億泰が怯えたように肩を引いた。真意が伝わったらしい。トニオはいっそうにっこりして、料理人の修行はキビシイのデス、とさらに付け加えた。億泰が、ちぇーっと軽く舌を鳴らして、また手元へ目を落とす。唇をわずかに尖らせた横顔が、ひどく可愛らしく見えた。
 少しずつ形の整い方がきれいになってゆくてるてる坊主が3つ、4つ目はまだ億泰の手の中で進行中だ。外の雨はまだ続いていたけれど、空の灰色は、少しだけ薄くなり始めている。

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