あなたの手

 毎日ではない、たまに、彼がふらりと店にやって来る。
 訪れは気まぐれで、たいていは、相棒──彼はそれを称してツレと言うことがある──である仗助が何かの用でいない放課後と決まっていた。
 ひとりの時の彼は、どこかしょぼくれて淋しそうに見えて、つやつやとポマードで固めた髪もどこか乱れて、それはまさしく、迷子になった犬と言った風情だ。
 彼──億泰のやって来る時間は、昼食はとうに終わり、夕食に客が訪れるにはまだまだ時間のある頃で、夕方の始まりの頃、トニオもちょうど、そろそろ腰を上げて休めた頭と手足を店の方へ再び集中させなければと思い始める頃だ。だから、億泰が来ると、それをいい口実にしてトニオは厨房へ戻り、まずは彼のためにカプチーノを一杯淹れる。
 濃いコーヒーの香りと、泡立つミルクの匂い、そして両方を優しく交ぜた──億泰のためには、特別の優しさを込めて──薄茶の表面に、ふわりと盛った泡で笑顔やハートを描いたりする。今日はハートにした。
 トニオがカプチーノを運んでゆくと、厨房にいちばん近いテーブルに陣取った億泰は、鼻を鳴らしてうれしそうな表情を浮かべる。ほんとうに、犬のような人だと、もう何度思ったか知れないことを、トニオはまた思った。男が持つ、一生の親友、それが犬だと言うのは、一体どこから来た表現なのだろう。
 丸いテーブルの、億泰のすぐ隣りの椅子に自分も腰を下ろし、億泰がいかにも美味そうに、カップを両手で持ち上げて、最初のひと口をそっとすするのを眺める。組んだ両手を口元へ添えて、そうして億泰を眺める時には、トニオはいつも知らずに微笑んでいた。
 「ウメーッ! トニオさんのカプチーノはいつも絶品だぜぇッ!」
 大袈裟に言いながら、それでも言葉それ自体は本気らしく、億泰は次のひと口にもうちょっと長く唇を寄せて、うっとりを目を細めた。カップから少しだけ顔を離し、上唇に残るミルクの泡を、それも美味そうに舐め取って、億泰はひとまずカップを皿に戻した。
 「タルトでも出しましょうカ。」
 トニオのカプチーノには、一切砂糖を入れずに飲む億泰へ、トニオはそう声を掛ける。夜のためのデザートだけれど、億泰のためには特別だった。
 トニオがそう言うと、途端に億泰の目が輝くけれど、すぐに口元へ申し訳なさそうな表情を浮かべて、いやいらないと小さく首を振る。
 「今日は親父にメシ作るからさー、ちゃんと腹減らしとかないと、料理するのがメンドくせェことになっから。」
 それなら、いくらでもここの料理を持たせるのにやぶさかではないのだけれど、日本人の遠慮と、そして本気の断りの声のトーンの違いを、近頃何となく聞き分けられるようになった──気がする──トニオは、億泰の本気を感じて、この場はソウですカとうなずくだけにしておいた。
 自分をあまり甘やかし過ぎるのを良しとしないのも日本人の美徳だ。ここに来たばかりの頃は、日本人はなぜ我慢ばかりするのだろうと、それを無駄だと感じていたのに、最近ようやく、自分を律することに重きを置くことは、それはそれで人として大事なことなのだと、ストレートに受け止められるようになっていた。
 正直なところ、イタリア人のトニオには、億泰の日本語はとても分かりにくい。億泰や仗助のような言葉遣いをする日本人と付き合ったことがなく、彼らの、やたらと語尾を伸ばす喋り方や、イギリス人が特に西海岸辺りのアメリカ人の英語を、怠け者のしゃべり方と皮肉を込めて描写するのと同じような印象の、どこかだらしのない発音の仕方は、きちんと本で最初に日本語を習ったトニオには、ほとんど外国語のように聞こえる。そして、これは後で知ったことだったけれど、教科書で習う日本語は、"方言"なる訛りや地方独特の言い回しなどはほとんど含まない。日本人同士でさえ、その方言が違えば"通訳"が必要と知って、国が広かろうと狭かろうと、世界は広いのだとトニオは思い知った。
 億泰のしゃべる日本語が、正確にはどういう日本語なのか、知識のないトニオにはよく分からないけれど、今ではこの億泰のしまりのないしゃべり方を、とても可愛らしいと感じている。16だか17だかのはずなのに、そもそも若く見える東洋人はせいぜい13、4にしか見えず、さらにこのしゃべり方は億泰をいっそう幼く見せて、それなのにやたらといからせた肩や大人ぶった所作や、そんなものが、自分も同じように通り過ぎて来た10代を思い出させて、トニオは自分自身に苦笑して、そして億泰に向かって、何て愛らしい人だろうと、胸の中でだけ日本語でつぶやいている。
 カプチーノをいかにも美味そうに飲んで、その合間に、学校であったことをあれこれと話す億泰に相槌を打って、トニオはにこにこと億泰の話を聞いていた。相槌を打ちながら、時々、ポマードでがっちり固めた頭を撫でたくなるのに、それを耐えるのにこっそり苦労している。
 「でよー隣りのクラスの奴で──」
 身振り手振りを交えて、億泰が話を続ける。トニオには誰が誰だかわからない億泰の学校の生徒たちの話は、けれど億泰が語ると言うだけで十分興味深かったし、いっそ本音を吐いてしまえば、億泰が楽しそうに、億泰の声で語るなら、たとえフィンランド訛りのスワヒリ語で聞く、水深千メートルでの生き残り方と言う講義だって楽しく聞けるだろう。
 億泰の、よく動く唇を眺めて、トニオは、億泰が紫色の肌をした土星人でも、きっとこう感じる自分の気持ちは変わらないのだろうとふと思った。
 言葉や肌の色の違いは些細なことだ。人が通じ合えるのは、もっと別の何かのはずだった。
 皿の傍らへ、億泰がうつ伏せに掌を休めて置く。もう一方の手は相変わらず元気に動き続けている。トニオはちょっとだけ悪戯心を起こして、億泰のその手──右手で、トニオの目の前だった──へ、自分の掌をそっと伸ばして重ねた。
 視線はまったく動かさず、にこにこと億泰を見つめたまま、掌の下の億泰の手が動揺の様子をないのを数秒確かめてから、指先と指先が重なるように滑らせ、料理をする時と同じ仕草で、トニオは億泰の指先をまとめてつまんだ。
 「なに?」
 さすがに億泰がしゃべるのを止め、トニオと自分の手へ視線を移す。
 「ナンでもありまセン。」
 指先には触れたまま、トニオはにっこり笑い返す。
 「トニオさんさァー案外手でかいよなァ。」
 「そうデスか?」
 億泰は手の位置を入れ替えて、するりとトニオの手を取った。くるりと裏返して、しげしげと指先や掌を眺める。
 「なんか、傷跡いっぱいだぜェ。」
 「ナイフや火を使いますカラ。」
 「美味い料理作るのも大変だよなァ。」
 水を使う分、荒れてもいる自分の手をちょっとだけ恥じて微妙な表情を浮かべたトニオには気づかず、億泰は、自分の方はと言えばいかにも少年らしいまだ柔らかな掌と指先で、親身にいたわるように、トニオのその掌をそっと撫でた。
 億泰の仕草に、トニオはどきりとして、うっかり一瞬手を引っ込めかけたけれど、何とかそれを押し留めて、億泰に取られた手はそのままにしておいた。
 「こんなにしねーと美味い料理とか作れねェんだなあ。人のために何かするってそういうことだよなァ。」
 何かしみじみと、まるでトニオの掌に語りかけるように、億泰の声音が低くなった。
 実際に億泰が何を思っているのか、トニオには分からなかったけれど、取られた掌と指先から、何となく億泰の思念が伝わって来るような気がして、どちらかと言えばがさつに見える振る舞いや外見に見合わず、とても思いやりの深いこの少年が、料理だけではなく、それを作り出すトニオの手に何か感謝の意のようなものを示してくれているのだと感じながら、こんな時には何をどう言っていいのかわからない、自分の日本語のつたなさを少しの間恨んだ。
 そう言えば、人前での体の接触をあまり良しとしない日本人の習慣に従って、いちばん最近誰かの手をこんな風に握ったのはいつだろうかと、トニオは思い出そうとした。そうして、トニオの手を取ったまま、億泰も同じようなことを考えているのだと、何の根拠もなく思った。
 トニオがそう期待した通り、億泰はそのままトニオの手を離さず、何となくふたりは掌を重ねたり指先をつまみ合ったりしながら、それぞれの手はテーブルのそこへ置いたままだった。
 手が触れ合った分、言葉の数が少し減って、そうしてその日は、視線を交わす回数が少し増える。
 家族でも何でもないふたりは、突然ここへ現れた親しみを少しだけ持て余して、そうして、それを一緒に楽しんでもいる。
 カプチーノのカップの底には、もう消え掛けている泡だけがわずかに残り、窓の外が、いつの間にか暗くなり始めていたけれど、ふたりはまだ、テーブルの上で触れ合った手を外さずにいる。

☆ にゅーこ。さまへ。ハピバ!
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