案内人


(4)

 最初に気づいたのは、承太郎の方だった。
 花京院は、それより一瞬遅れて、視界に入っているのが誰なのかと、わずかに訝しんだ表情で、まさかと、そのかすかに開いた唇が言っていた。
 承太郎は、まだコートのポケットから両手を出さずに、いつだってそうだったように、胸を張って、あごを引いて、知らずに相手を威圧するような態度を漂わせながら、声が震えないことを祈りながら、ようやく、呼んだ。
 「花京院。」
 呼んだ瞬間に、止まっていた花京院の足がこちらへ滑ってきて、あっという間に、懐かしい姿が目の前にやってくる。
 「・・・承太郎。」
 下から見上げる、懐かしい角度と、その瞳と、線の鋭い顔立ちを縁取る、柔らかそうな茶色がかった髪と、何も変わっていない、変わっていなくて当然だと、承太郎は、ようやくコートのポケットから手を取り出す。
 抱き寄せようとする承太郎の腕よりも早く、花京院が飛びついてきて、首にしがみつく。
 「ほんとうに君だ、信じられない。」
 懐かしい声だった。
 記憶の通りの、通りの良い声。間違いなく花京院だと、承太郎は、その背に腕を回す。回してから、背中に空いた穴に気がついて、少しだけ狼狽たえた。
 花京院は承太郎の腕が迷ったことには気づかないまま、やっと承太郎から少し離れて、今度は承太郎を仔細に観察するためか、上から下まで、じろじろと眺め上げて、視線をまた下ろしてゆく。
 その花京院を見つめて、腹に空いたままの大きな穴に---背中の穴と、繋がっている---、どうしても視線を当てずにはいられなくて、承太郎の視線の行方に気がついた花京院が、自分の腹を見てから、苦笑いをこぼした。
 「痛むのか。」
 承太郎の間抜けた質問を、花京院が笑う。
 「まさか、何年前だと思ってるんだよ。大体、ここで痛みなんか、感じるわけがないじゃないか。」
 「・・・そうか。」
 花京院が、承太郎の手を取って、それを証明するように、自分の腹の穴に当てさせる。傷口は乾いていて、血で黒ずんでいて、妙に頼りないくせに、がさがさと固い。
 「君の腕だって通るよ。でも、もうじきにふさがるよ。君が、ここに来てくれたから。」
 承太郎の手を取ったまま、花京院の声が沈む。やっと会えた嬉しさと、けれど承太郎がここへ現れた事情を解して、複雑な表情を浮かべる。
 「僕は、はしゃぎすぎているかな。」
 目を伏せた花京院に、いや、と承太郎は応えた。
 「・・・案外と、時間がかかった。」
 今度は、承太郎から、花京院を抱き寄せる。目を閉じて、花京院の首筋に顔を埋めて、その髪の匂いをかぎながら、背中の穴を撫でる。そうすれば、その穴がふさがるとでも言うように、承太郎は、大きな掌で、がさがさとしたその傷口を飽きずに撫でる。
 「あんまり早く来られても、僕がいい気分じゃない。」
 「てめーの都合なんざ知るか。」
 口調が、あの頃へ戻る。あの頃に比べると、声の稚なさが消え、深みの増したその声は間違いなく大人の男のもので、そんな承太郎の変化に、花京院が少しばかり戸惑っているのに、承太郎は気づかない。
 抱きしめる承太郎の肩や背中が、少し変わっているように思えるのも、過ぎてしまった時間の長さのせいなのか、それとも、自分の、薄れてあやふやになってしまった記憶のせいなのかと、花京院は、ほんの少しだけ、泣きたい気分になっている。
 それでも、これは間違いなく承太郎で、花京院だった。
 承太郎の頬に手を伸ばして、額や眉の辺りを触る。あの頃、飽かずに見つめた、濃い深緑の瞳を見上げて、その中に映る自分の姿を、懐かしく眺めている。あの頃、切れそうに張りつめていた頬の線が、今は指の腹に、わずかに柔らかい。かすかに見えるしわや乾いた唇は、あの頃の承太郎にはなかったものだ。時間を止められてしまった自分と、その中を歩いて行った承太郎と、同じはずもなかったけれど、承太郎と同じように過ぎる時間の中を駆けてゆく自分の姿も、今はもう想像すらつかず、すっかり大人になってしまっている承太郎の目に、自分の姿が幼すぎずに映っていればいいがと、花京院は思う。
 承太郎の唇に、親指の腹を当てて、花京院は静かにつぶやいた。
 「会って、君だとわからなかったらどうしようかと、思ってたよ。」
 「あんまり老けてて、びっくりしたか。」
 承太郎が軽く笑う。
 「いや、むしろ、変わらなさすぎてびっくりしてるところだ。あの頃の僕の父親と、大して変わらない歳のはずなのにな、君。」
 「おまえのオヤジはあんまりだろう。」
 「はは、怒るなよ。全然変わってないって、言ってるだろう。」
 あの頃と変わらないように聞こえる軽口を叩きながら、けれどまだふたりは、おそるおそる指先を差し出すように、互いをうかがい合っている。懐かしさよりも、互いへの痛々しさを今は先に感じていて、互いをいたわる気持ちばかりが先に立つ。
 ひとり、先に逝かせてしまったことに、ひとり、生き延びることを強いてしまったことに、そして、こんなところで、再び出会ってしまったことに、互いに対する申し訳なさを、あの時伝え合えなかったからこそ、今ふたりは黙って胸を痛めていて、素直に、再会を手放しでは喜べない。
 自分が幼く思えるほど、自分の父親を思い出してしまうほど、承太郎は大人になってしまっていて、そんなにも長い間、ここで待ち続けていたのかと、花京院は、過ぎてしまえばあっというまだった時間の長さを、今痛いほど感じている。
 承太郎は、あの時のままの花京院の姿に、その傷のむごたらしさを改めて示されて、その痛みと苦しさを分け合えなかったことを、心の底から悔やんでいる。そして、行き交うことはできない場所でふたり、離れ離れだったその間の孤独を、こうならなければ癒やし合えなかった自分たちの運命とやらを、口汚く罵ってみたくなる。
 おれたちの時間を返しやがれと、けれど誰に向かって叫べばいいものか、おそらく誰にもわからない。
 ごめんよと、突然花京院が言った。
 「喜ぶなんて、不謹慎だけれど、僕は、君にこうしてまた会えて、うれしい。あの時、さよならもちゃんと言えなかった。君に、せめてありがとうと、そう伝えたかったのに。」
 承太郎の上着をつかんで、花京院の声が、わずかに震えている。その手を包むように、自分の手を重ねて、承太郎は、ゆっくりと瞬きする花京院の目元を見つめている。
 「・・・もう、どこにも行かせねえ。」
 「君だってもう、どこにも行かないよ。僕らはここで、ずっと一緒だ。」
 目には見えない、けれど花京院の腹の傷そっくりに開いていた胸の中の空洞が、ゆっくりとふさがってゆくのを感じる。ゆるゆると柔らかな熱に満たされて、痛いほど空っぽだった胸が、まるで血肉が再生するように、内側から盛り上がり、次第にそのすきまを埋めてゆく。傷は残るだろう。けれど、向こうの風景すら覗けたその大きな穴は、じきに跡形もなくなる。同じように、花京院の腹の傷も、承太郎によって癒やされるのだろう。
 風が吹き抜けてゆくのを感じる。承太郎の胸の空洞と、花京院の腹の傷と、まるでひとつに繋がったように、風が、そこを通り抜けてゆく。けれど今は、その風さえ心地良く、ふたりはようやく、薄い微笑みを口元に、一緒に浮かべていた。
 「ここでは、星は見えねえそうだな。」
 花京院の頬に掌を添えると、顔を傾けて、その掌にいっそう深く触れてくる。その花京院のぬくもりに、承太郎は、生きている時よりも確かなものを感じて、思わず苦笑をもらす。
 「・・・君とよく、砂漠で星を見上げたな、そう言えば。」
 遠ざかる風景を追い駆けるように、花京院の瞳が細くなる。承太郎も、同じ風景を追って、目を細めた。
 「空の星はなくても、君の星のアザがあれば、僕には充分だ。」
 承太郎の、頬に添えた掌を、自分の両手で包み込んで、花京院がつぶやくように言う。泣き出す直前のように、その声が湿って聞こえて、承太郎は、また少し胸が痛むのを感じた。
 行こう、と花京院が承太郎の手を取る。
 あの頃のように、遠慮がちにではなく、掌を重ねて、指を絡めて、もう決して容易に離れたりはしないように、しっかりと手を繋いで、ふたりは歩き出す。どちらへ向かうべきかは、きちんとわかっている。
 花京院が、まるでいとおしむように、自分の腹の傷を撫でていた。
 「君、さすがにもう、あの学生服は着てないんだな。似たような格好だけど。」
 隣りの承太郎を、上から下まで眺めて、花京院が笑う。
 「うるせぇ。」
 そう言って、承太郎は花京院の手を、いっそう強く握った。
 いつのまにか、霧のように雨が降り始めていて、気がついた花京院が足を止め、頭上を振り仰ぐ。前髪をかき上げながら、雨をよけるように、手をかざした。
 「珍しいな、ここで雨が降るなんて。」
 花京院につられたように、承太郎も上を見上げて、どこか遠くを見つめるように視線を漂わせる。何事か思い当たったような表情を浮かべて、そして、顔の位置を元に戻した後、ゆっくりと帽子--学生帽に、よく似ている---を脱いで、それを花京院の頭に乗せた。
 「なんだい、承太郎。」
 固いつばで覆われて、突然暗くなってしまった視界に慌てて、花京院が帽子を押さえながら承太郎を見上げる。
 少しずつ強くなる雨に、もう髪から雫を滴らせている承太郎の表情に、花京院は驚いて、続けて笑いかけた唇を止めた。
 「承太郎、君、泣いてるのか。」
 承太郎の、あの頃と変わらず色鮮やかな唇が、少しだけその線を硬くした。
 花京院は帽子のつばに指を添えて、承太郎を見上げたあごの角度を変えずに、雨粒が立てる音を、何かの音楽のように聞いている。
 「泣いてなんかいねえ。これは雨だ。」
 ゆっくりと答える承太郎の今の顔に、あの頃の承太郎の面影が重なって、花京院は細く息を吐くと、薄く笑って見せた。
 承太郎の手を引いて、先に足を滑り出す。降る雨は、一体どこへ行くのか、ふわふわと頼りない地面に音もなく吸い込まれ、消えてゆく先さえ定かでなく、花京院の爪先に消えてゆく。
 「・・・やれやれだぜ。」
 おどけた仕草で帽子のつばを深く下げ、承太郎の口癖を、花京院は低い声で真似た。声に、薄い笑いを交ぜて。
 怒ったようなふりで、自分の手を握ってきた承太郎の手をまた握り返して、降る雨を時折見上げながら、ふたりは並んで歩いてゆく。
 ふたつ並んだ背中が、雨の中に、音もなく消えて行った。


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