徐倫が、迎えにやって来たアナスイと出て行くと、途端に家の中が広くなる。
 承太郎の前では、徐倫に触れようともしないアナスイも、車に乗り込む前には、すでに徐倫の肩を抱き寄せていた。
 車までの距離がスタープラチナの射程外であることを、少しばかり残念に思うことを、心の中で自嘲して、車が見えなくなるまで、玄関でふたりを見送る。
 今日は映画を見て、それからエルメェスの店で食事をして、あまり遅くならずに戻ると、徐倫は笑顔でそう言った。
 承太郎は、ひとつため息をこぼして、ようやく家の中へ戻る。
 キッチンとひと続きのリビングで、ウェザーがコーヒーを片手に、裏庭を眺めているところだった。
 徐倫に会いにやって来るアナスイと一緒にここへやって来て、アナスイはたいていそのまま徐倫と出掛け、ウェザーはここに承太郎と残る。徐倫もアナスイも、承太郎とウェザーの友人関係を奇妙だと思っていて、けれどそれを面と向かって口にすることはない。
 ウェザーとのことを、誰よりも奇妙だと思っているのは、他でもない承太郎自身だ。
 徐倫よりもかさばる見かけのくせに、徐倫のように騒々しく動かないウェザーは、一緒にいても空気のようで、徐倫が、アナスイと出掛けてしまった後の静けさを壊しもせず、けれどひとり取り残された父親の淋しさを埋めてくれる程度には、承太郎にとってはありがたい存在ではあった。
 ここへ来いとも、一緒にいてくれとも、言った覚えはない。
 出会った最初から、やけに強い視線で承太郎を見つめていて、言葉を発する前に、承太郎はその視線にとらわれていた。当たり前のように、ふたりきりになったキッチンで、気がつけば唇が触れていて、神父の双子の弟であるウェザーの肩にも、あの星のアザがあると聞いてから、何もかもが必然であったように、魅かれ合ってしまったふたりだった。
 物静かで、よけいなことをしゃべらないウェザーは、どこか厭世的な、人を寄せつけない空気を身にまとっている承太郎の世界を乱しもせず、スタンドの必要ない日常に戻ってしまえば、徐倫の父親であるという、数歩後ろに引いた態度で、徐倫の仲間たちに接するのが常となった承太郎に、唯一近々と踏み込んでくる。
 ウェザーは、承太郎を徐倫の父親ときちんと認識して、けれど同時に、承太郎をただの承太郎として扱う。一部の人間には博士と呼ばれ、別の場所ではスタンド使いと言われ、あるいはジョースターの人間という扱いを受け、そんなことのひとつびとつを剥ぎ取って、ウェザーの前では、承太郎はただのひとりの男だった。
 「また論文か。」
 裏庭へ面した大きな窓から、ウェザーが振り返りながら承太郎に訊いた。
 ああ、と短く答えてから、キッチンカウンターに徐倫が置いて行った、コーヒーを飲み終わった後のマグを、承太郎は水で軽く流してから、食器洗い機の中に放り込む。
 コーヒーメーカーには、まだもう少しコーヒーが残っていて、もう少しで空になるところだった自分のマグに、承太郎は残っていたコーヒーを全部ついだ。
 少し味の変わってしまっているコーヒーを、それでも顔もしかめもせずに一口飲んで、ガラスのポットも、食器洗い機に入れた。
 リビングへ戻ると、ウェザーはソファに坐って、すぐそばに置いてあるマガジンラックから、TVガイドを取り出しているところだった。
 形だけは整えてあるリビングに、長い間自分以外の誰かがいたということがなく、承太郎は、今もまだ、ウェザーがここにいることに、たまに驚くことがある。
 徐倫は、いれば常に騒々しく何かしていたり、喋っていたりするから、そこにいると確かにわかるけれど、物音をあまり立てないウェザーは、いることすら忘れてしまうことがあって、承太郎を抱きしめるそのやり方さえ、ひどく穏やかだ。
 3人掛けのソファに、いつもそうするように長々と寝そべって、目の前に開いているTVガイドは、3週間ほど前のものだ。
 ウェザーの伸びた足の、腿の辺りに、腰を軽く引っ掛けるように坐って、承太郎はまたコーヒーに口をつけた。
 「夕方までに、アウトラインは全部すませたい。」
 そうかと、ウェザーはTVガイドを少しずらして、承太郎に向かって相槌を打つ。
 2階にある、仕事の時にはそこに閉じこもる部屋へ、けれどすぐに向かう気にはならず、承太郎はウェザーのそばから離れようとしない。
 あの部屋の大きな机の上は、資料と紙の束でいっぱいだ。あちこちに付箋の貼られた本の山は、ひとまず目的ごとに分けられて、机の隅や床の上に積み上げられている。大学院の頃から、していることはまったく変わらない。研究は好きだけれど、それを他人にわかるように解説するための作業は、いまだに苦手だ。
 「雷の音でも聞きたくなったら言ってくれ。」
 承太郎の気分を察したウェザーが、TVガイドを胸の上に置いて、笑顔も浮かべずに言う。
 「・・・学会の日に、ぜひトカゲでも降らせてくれ。」
 「トカゲはまだ降らせたことがないな。今度、どんなのがいるか調べてみよう。」
 ふたり以外の誰にも理解されないけれど、これはお互いをいたわり合っている冗談だ。
 こんな会話を交わす場にたまたま徐倫がいると、鼻の上にしわを寄せて、ふたりをまるで宇宙人のように眺める。ウェザーはそんな徐倫を見てにっこりと笑い、承太郎はちょっと憮然と唇を引き結ぶ。
 承太郎は、ウェザーの平たい腹の上に掌を乗せた。
 黒い、少し厚手のシャツを撫でるように、掌を丸く動かして、それにウェザーが手を重ねてくるまで、動きを止めない。
 ウェザーのざらりとした掌の感触に、承太郎はうっすらと微笑んだ。
 「あのふたりが、どこの映画館に行ったか、知っているか。」
 知らないと、ウェザーが首を振る。
 そうかと、気にもしてないふうを装いながら、けれど声に、わずかに苛立ちが交じるのを、ウェザーは聞き逃さない。
 「アンタも過保護だな。そんなに心配なら、今度徐倫について行ってやればいい。ただし、オレは親子ゲンカの仲裁はしない。ケンカの前に、スタンドは使わないっていうルールを決めておいた方がいい。」
 「親として、当然の心配だ。」
 早口にそう言って、手を引こうとしたけれど、ウェザーがそれを引き止めた。
 承太郎は無理には手を引かずに、ただ肩をすくめて、またコーヒーを飲んだ。
 「徐倫がどんな男を連れて来たって、アンタはきっとどれも気に入らない。イライラするだけ無駄だ。」
 「ちゃんとしたまともな男なら、いちいち文句を言う気はない。」
 殺人鬼で脱獄囚で、スタンド使いで、殺されそうな時に、徐倫と結婚させろと承太郎に迫るイカレた男だ。まともなわけがない。それでも、徐倫に対する気持ちだけはとても真摯だと、それだけは確かにわかる。だから、口では何も言わない。不愉快で不満だと態度に表れているにせよ、承太郎にとっては、最大限の譲歩だ。
 「まともに見えなくても、徐倫が選んだ男だ、きっと何か取り柄がある。アンタは徐倫よりも、自分のことを心配した方がいい。」
 親ばかを、素直に丸出しにした承太郎の繰言に付き合って、けれどウェザーは、いつも忠告するように最後に同じことを言う。
 徐倫のことをむやみに心配するのは、つまりは承太郎自身の問題に、承太郎が目を向けたくないからだと、ウェザーには気づかれている。それが忌々しくて、ウェザーの忠告の向かう先に心当たりがあっても、承太郎は、それを深刻に受け取ろうとは決してしない。
 いずれ、向き合わなくてはならなくなる問題にせよ、今はあまりそれに心をとらわれたくはなかった。
 しばらく見つめ合った後で、途切れたままの会話を承太郎が続ける気がないと悟ったウェザーは、また目の前にTVガイドを開いた。
 手は、握り合ったままだ。
 自分の掌を包むウェザーの手をじっと見て、承太郎は、徐倫が生まれた日のことを思い出していた。
 真っ赤な顔をした、自分の子でなければ、とても可愛いとも思えない、まだ人の姿には程遠い赤ん坊だった。それでも、腕に抱えたあまりの小ささと軽さに、思わず目の奥が熱くなった。
 女の子だと告げられ、少しだけそれを残念に思ったけれど、ジョースターの血を引くなら、男でなくて何よりだと、すぐに安堵した。
 よく開いてもいない目で、けれど顔を動かして、周囲の気配を探ろうとしている小さな赤ん坊の肩には、確かにあの星のアザがあった。
 ああ、自分と同じ血の流れる子だと、そう思って、握りしめた小さな手に、指先を伸ばした。
 触れただけで砕けてしまいそうな小さな手指は、けれどしっかりと爪までついていて、こんなに小さくても人の形をしていることに、深い感動を覚えながら、承太郎は、その場で徐倫と名付けた自分の娘の、この世に出てきたばかりのやわらかな頬に、思わず唇を押し当てていた。
 赤ん坊の徐倫は、泣き出しもせずに、承太郎の指をしっかりとつかんで、その接吻に応えるように、強く握りしめてきた。
 あの小さなこぶしの中に、星を握り込んでいるのだと思ったのは、なぜだったのだろうか。
 際限もなくやわらかい小さな手を、おそるおそる開かせて、手の中が空だったことを確かめた時に、抗うようにか細い指が動いた。
 血が繋がっていても、こんなに小さくてか弱くても、自分ではない別の何かなのだと、腕の中の赤ん坊が主張しているような気がして、承太郎はひとりうろたえた。父親である実感はまだ湧かず、ただ、赤ん坊という不思議な物体に魅せられたように、徐倫と名付けた自分の娘の、握りしめた小さな手から、承太郎は目が離せなかった。
 あれから20年近くが経って、徐倫はその手で、糸のスタンドを操る。徐倫に救われた自分の命のことを思って、それから、承太郎は、もう一度ウェザーの方を見た。
 徐倫が繋いでくれたのは、承太郎の命だけではなかった。
 大事にしたいと、そう思える何かに、承太郎は今確かに繋がれている。そのことに対する感謝を、いつか徐倫に向かって口にできるだろうかと、承太郎は、ウェザーの手を一度強く握った。
 失い続けることに怯えて、人と繋がることを拒んでいた承太郎には、誰かを受け入れることは、おそろしく時間のかかることだ。踏み込まれて、受け入れて、それでも、疑いの心が消えずに、失う日のための準備にだけ心を割くことは、とても卑怯なことだと、やっと頭の中の自分の声に耳を傾ければ、卑小な自分の姿を直視することに耐えられずに、また心の殻が厚くなる。
 その殻を削り、あるいは叩いて割って、承太郎の生のままを剥き出しにしようと、ウェザーは静かに戦っている。
 ただ穏やかに向き合って、ふたりは、時間の長さに心が疲弊することだけを恐れながら、これから一緒に歩いてゆく最初の一歩を、とりあえず踏み出したばかりだ。
 ウェザーの手を握ったまま、承太郎はようやくソファから立ち上がった。
 「そろそろ、上に行く。」
 ウェザーが、ちょっと残念そうにまばたきして、承太郎の指先を強く握った。
 伸びた腕を、ふたりとも名残り惜しげに眺めて、重なっていた掌が滑って、指先だけが触れ合って、それから、そこで10秒ほどとどまってから、ついに手がほどけた。
 「後で、コーヒーを持って行こう。エルメェスが、うまいコーヒーをいれるコツを教えてくれた。」
 TVガイドに顔の下半分を隠したままのウェザーを、ちょっとまぶしそうに見下ろして、承太郎は2階へ向かうために、カーペットの上に爪先を滑らせた。
 徐倫はもう、暗闇の中でアナスイと肩を並べて、映画を楽しんでいる頃だろうかと思って、階段を上がりながら口元がわずかにほころんでいることに、承太郎は気づかなかった。


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