エモーショナル Title 5@無限混色 Choice Title

鼓動

 足音がする。階上で動く音がこんな風に響くのは、とても耳に新鮮だ。
 ウェザーが目を開け、暗い中、天井を見つめた。
 眠りが浅いのは、刑務所の中で学んでしまった習慣だった。何が起こるか、何をされるか、眠っていても神経を張りつめていなければならない。あそこは、そんなところだった。
 ここは違うのに、ウェザーはいまだごく普通の神経に戻ることはできず、それには恐らく、あの中に閉じこめられていたと同じだけの時間が必要なのだろう。
 闇の中に目を凝らして、足音が動くのに、視線の動きを合わせた。
 部屋を出て、階段へ向かい、階段を降りて来る、ひそやかな足音。気配を殺そうとしているのがわかる。これは、ウェザーのためなのか、それとも、ウェザーのそれと同じ習い性なのか。
 昼間の、隙のない姿など想像もできない、寝乱れた髪に肩のずれかけたアンダーシャツ。眠れずに寝返りを打ち続けた夜の後に、人はこんなだらしのない姿になる。
 ウェザーがはっきりと目を開けて、自分の傍にやって来た彼を見上げていた。
 「起こしたか。」
 彼──承太郎の声は、気配と同じにひそやかだった。
 この広い家の中には、他に誰もいないと言うのに、夜の暗さと静かさが、ごく自然に声をひそめさせる。
 ウェザーは横になって、枕代わりのクッションに横顔を埋めたまま、いいや、と承太郎に向かって首を振って見せた。
 それきり、承太郎は何も言わず、ただウェザーを見下ろしている。両手をだらりと体の脇に下げて、一体こんな夜中に、どんな用で部屋から出て来たのか、それを推測させるような所作も視線の動きも何もなく、承太郎はただ黙ってウェザーを見ていた。
 ウェザーは、体は起こさないまま、けれど軽く寝返りを打つ形に、承太郎に正面に向き合うように体の向きを少し変えて、柔らかいクッションに後ろ頭を乗せる。
 ソファが、ウェザーの重みに、ぎしっと軽く音を立てた。
 「こんなところで寝る必要はない。」
 その音に眉をひそめてから、承太郎がやっとそう言った。
 承太郎の住むこの家へ皆で押し掛けて、とりあえずは寝る場所を与えられた最初から、ウェザーはずっとここで寝ている。
 今では皆自分の住む場所を見つけ、まだ承太郎やSPWの庇護の元にあるにせよ、それぞれが新しい人生を踏み出していると言うのに、ウェザーは相変わらず承太郎のこの家に居候のまま、このソファを寝場所にしている。
 とは言え、ここに住んでいるのと引き換えに、家事を引き受け、承太郎のためにコーヒーを淹れて食事を作り、庭の芝生もまめに刈って、おかげで承太郎は、以前は週に2度頼んでいたメイドのサービスを、月に1度に切り替えている。
 家政夫と言うのか突然の同居人と言うのか、あるいは、もうちょっと正確に、恋人とでも言うべきなのか。
 それにはまだ、承太郎の覚悟が足りない。いや、覚悟はできている。ただ、まだきちんと前に足を踏み出せないだけだ。
 長い長い間、恋はおろか、人との交わりからすら遠ざかっていた──それは実のところ、ウェザーもまったく同じだ──承太郎には、この突然に降って湧いたような関係を、真っ直ぐに見つめて受け入れる心の準備がなく、完全に人生を分け合うのだと心を決めるのに、その決心をウェザーに黙って委ねているずるさが、時々こうして心を疼かせるのだ。
 それを知っているウェザーは、だからと言うわけではなかったけれど、この家の中に、他にもあるベッドで眠ろうとはせず、居候の立場は弁えていると言う態度で、この家の中で肩を縮めて存在している。
 ウェザーの心は、もうとっくに決まっていた。徐倫に出会って、その最初から感じていた承太郎の存在を、現実に出逢った瞬間には、すべて受け入れていた。
 奪ったと言う言い方の方が正確なほど、出逢った瞬間に、恋に落ちてしまっていたふたりだった。
 前の恋が辛ければ辛いほど、次の恋に臆病になる。どこか似た空気をまとったふたり──だから徐倫は、ウェザーにとても懐いている──は、その臆病さもとてもよく似ていて、互いに語る言葉数は少なくても、どんな経験をして来たのかと、訊かずに互いのことがよくわかる。
 明日もないように抱き合うような稚ない情熱は、とっくに失せているふたりには、突然事故のように始まったにせよ、どこかぬるま湯のようなこの恋が奇妙に心地良く、周囲に秘めておけるのも、何となくちょうど良かった。
 それでも、時間が経てば、少しずつ互いに踏み込む機会が増えてゆく。互いに置いていた距離が自然に縮まり、心が常に触れ合っているような、そんな距離が今はもう目の前だった。
 指先を触れ合わせ、絡めて、体だけで抱き合うのではなくて、心の端から、輪郭を重ねて、そこから融け合うように、自分が自分でなくなる感覚。ひとりきりが長ければ、自分ではなくなってしまう恐怖に抗えずに、心がまた固く閉じ掛ける。
 口づけを深くするのさえ、ひどく勇気のいることだった。
 だから、とウェザーは思う。
 こうやって、真夜中に、ウェザーのところへやって来るのも、ずいぶんと決心のいったことだろう。
 ウェザーが承太郎の部屋へ忍び込むよりは、もう少し軽く、キッチンに水を飲みに来たついでの振りをすることもできる。承太郎はそうはせずに、部屋から真っ直ぐ、ウェザーが寝ているソファへやって来た。
 承太郎にとってはきっと、ウェザーがこの家の中の、きちんとしたベッドに寝るようになることが、承太郎に対して心を開いている証になるのだろう。
 違うんだ、とウェザーは心の中で呟く。
 頑なに、それを、承太郎とのことに重ね合わせて拒んでいるわけではない。
 刑務所の、固くて小さな寝台に慣れ切った体には、普通のベッドは柔らか過ぎて、ウェザーはまだあれに馴染めないだけだった。そう言っても、この育ちは日本人の男は、それを遠慮と受け取ってしまう。
 承太郎のそんなところに慣れるのにも、実のところずいぶんと時間が掛かった。
 魅かれ合っていて、恐らくこれは正しいことなのだとふたりで一緒に理解はしていても、小さなすれ違いがないわけでは決してなく、傷つくことに極端に怯えているふたりは、互いを傷つけることで自分が傷つくことが恐ろしくて、手足を絡めて抱き合いながら、それでも重なる皮膚の間に風が必ず通るように、わずかに肩を引いている。それを知っていて、互いに気づかない振りをしている。
 ウェザーは、ソファの上で体をずらして、端にスペースを作った。そこを掌で叩き、承太郎を見上げる。承太郎はそれを見て、濃い眉を寄せて、明らかに無理だと言う表情をかすかに浮かべる。
 ウェザーは、辛抱強くもう一度ソファの表面を叩いて、そして承太郎に向かってその手を伸ばした。
 手を引かれ、そうして、承太郎はやっと観念したように、まずはウェザーの腹の辺りへ浅く腰を下ろして、それからさらに腕を引かれて、やっとウェザーの胸に背中を合わせて、ソファに横たわった。
 「ソファがつぶれそうだな。」
 「これは3人掛けだ。」
 ウェザーが、ぎりぎりに収まるそこへ、承太郎の手足は少しだけ余る。ウェザーは、ソファの背にもっと体を寄せ、同時に、承太郎の腰に腕を回して自分の方へ引き寄せた。
 とてもくつろぐような体勢ではないけれど、それでも、重なった体は確かに温かかったし、そして狭い──そうしているふたりには──ソファは、ぴたりと体を触れ合わせている良い口実だった。
 どちらかと言えば、これは少年のような振る舞いで、無茶も楽しめる無邪気が、自分の中に残っていたことに、承太郎はひそかに驚いている。
 自分の腰に回ったウェザーの腕に、承太郎は掌を重ねた。
 「このままで寝る気か。」
 わざと咎めるように、承太郎は言った。
 3拍の間の間に、ウェザーは承太郎のうなじに顔を埋め、そこで胸いっぱいに息を吸い込む。
 「いや、そういうわけじゃない。」
 言いながら、ウェザーはそこで目を閉じた。
 刑務所にいた頃は、あの閉じられた空間の、息の詰まるような狭さが大嫌いだったのに、今はこうして、わざと狭いソファの上に承太郎とふたりで、無理に体を寄せ合って、こんな風になら、窮屈さはひどく愉しいものなのだと、ウェザーは初めて知ったように驚いている。
 「もう少しだけ・・・。」
 心臓の位置が重なる。自分の心臓の音は、伝わっているだろうかと、ウェザーはいっそう近く、承太郎へ体を寄せた。
 誰かの心臓の音を、こんな近くに感じるのは久しぶりだ。久しぶり過ぎて、鼓動のタイミングが、わずかにずれることを一瞬不思議に思ってしまう。ひとりひとり違う。ウェザーは承太郎ではないし、承太郎はウェザーではない。それでも、ひとつになれるふたりだった。
 「・・・今夜は、アンタのベッドで寝よう。」
 寝てもいいかと、訊くことはしなかった。決定事項のように、思い切ってそう言って、承太郎が異を唱えないのに、ウェザーは重ねていいのかと問うことはせず、ただ黙って承太郎を抱いた腕に力をこめる。
 わずかな体重の移動で、ソファがまた鳴った。承太郎のベッドも、今夜同じように音を立てるだろう。
 承太郎のうなじに唇を押し当てて、ウェザーは音を立てずに口づけた。ふたりの心臓の音だけが、闇の中で静かに響いている。

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