エモーショナル Title 5@無限混色 Choice Title

からみつく視線

 ひとり暮らしだった承太郎のこの家には、いわゆる小さなテーブルと言うものがなく、代わりに、キッチンと居間のスペースを区切る形に、細長くカウンターがある。
 調理台にもなるし、キッチンと対面する形に椅子に腰を下ろせば、簡単に食事をする場所になる。承太郎ひとりなら、これで十分その用は足してくれる。
 承太郎がこの家を買ったのは、主には大きな書斎スペースになりそうな部屋があったからで、後は、たまに自分の許を訪れるはずの徐倫のために、きちんと部屋が欲しかったからだ。
 深く考えもせず、条件だけ伝えて、ジョセフ絡みの不動産屋が見つけて来たこの家を、承太郎はろくに見もせずに買った。
 家とは、承太郎にとっては、大事な本を置いて仕事をする場所で、後は寝て食べることができればいい、それだけだった。
 住んでみれば、むやみに広くて部屋数もあり、承太郎ひとりでは持て余すしかなく、徐倫の訪れもないまま、結局、生活臭のない家を動き回るのは、通いでやって来るメイドサービスの女性たちだけと言う羽目になった。
 家の広さにふさわしく、ダイニングのスペースは大きくて、8人は同時に一緒に食事のできそうなダイニングテーブルを、承太郎はそのスペースを埋めるだけだけに買った。
 まれに、気分を変えるためにそこで論文を書くこともある──本や資料を広げるので、大きな食卓はちょうどいい──だけで、本来の目的である、家族の食事に使われたことはない。
 徐倫たちが、刑務所をひそかに脱走した後で、SPWがあれこれと後始末をするまでの間、ごたごたと皆で雑魚寝のようにこの家にいたけれど、その彼らも、徐倫を含めて、ひとりひとり先行きを決めて出てゆくと、後に残ったのは、家主の承太郎と、その承太郎を気に入ったらしいウェザーだけだった。
 リビングのソファを寝場所に定めて、ベッドは柔らかすぎて落ち着かないと、そこから動かない。
 刑務所に、人生の半分を台無しにされると言うのは、そういうことなのかと、家主としては、幾つかある空のベッドを無視して、ウェザーがソファで寝続けることに、少々の居心地の悪さを感じてはいるけれど、基本的にはウェザーの意志を尊重している。
 いつの間にか、たまに自分のベッドでふたり一緒に朝を迎えるようになった成り行きについては、あまりにも陳腐過ぎて、承太郎はそれを誰に打ち明ける気もなかったし、そして同時に、この関係の不思議な心地よさに、自分の人生が、半ばを過ぎてこんなところへ落ち着いたのは、もうずっと以前から定められたことだったのだろうかと、時々考えた。
 ウェザーは、今も慣れた調子で朝食を作っている。このキッチンにもすっかり馴染んで、シンクの右手にある冷蔵庫へ手を伸ばす時も、正面から視線をずらさずに、中から正確に必要なものを取り出す。
 卵をいくつか、それから牛乳のカートンとバターの入れ物。
 コーヒーは朝一番に出来上がっていて、承太郎の手には、もう2杯目が半分空になりつつあるマグがある。
 焼いてバターを塗ったトーストが2枚ずつ、卵はたくさん割って、皿に盛る時にふたつに分ける。ベーコンを焼くのは週末と決まっている。
 ふわっと焼かれた卵は、牛乳とバターの香りがする。承太郎は、それを上品にフォークにすくい、大胆に咀嚼する。ウェザーは、承太郎の左側に座って、食べる承太郎の横顔をじっと眺めている。承太郎の表情で、まるで朝食の出来の点数が測れるとでも言うように、自分の分を食べながら、承太郎をじっと見ている。
 「うまいか。」
 「ああうまい。」
 毎朝交わされる、ほとんど呪文のような言葉たち。承太郎のそれは、そこそこ平坦だけれど、嘘の響きはなかったし、そして感謝の意がきちんとこもっている。
 ウェザーは承太郎の答えに満足すると、やっと自分の皿を正面に見て、トーストにかじりついた。
 誰かのために作る食事。誰かが自分のために作ってくれた食事。そうと話し合ったわけでもなく、いつの間にかふたりの利害は一致していて、それもつまり、他人との交わりとはそう言えばこういうものだったと、ふたりに淡く思い知らせて来る。
 人との関わりには練習と経験が必要で、承太郎は自らそれを避け、ウェザーは否応なく避ける羽目になり、だからふたりは不器用に、傷つくことと傷つけることを恐れながら、ほとんど手探りで互いに触れようとする。
 どんな風に、どんな強さで、どんな弱さで、どんなタイミングで、相手の視線の揺らめきで、受け入れられているのか拒まれそうなのかを、自信なく見分けようとしながら、そう言えば、こんな風に、真剣に誰かを見つめるのはほんとうに久しぶりだと、思い出したのはふたり同時だった。
 つい深くなった口づけがほどけた瞬間に、やり過ぎたかと見つめ合う羽目になった。同じことを、ほとんど同時に考えたのだと、互いの瞳の色に読んでいた。
 承太郎は、踏み込んでも大丈夫かもしれないと思った。ウェザーは、きちんと許しを請えばいいと考えた。
 人は間違いを犯す生き物だ。間違いを避けることは、今いるこの位置から、一歩も動かないと言うことだ。
 20数年の間に、初めて、足を前に踏み出そうと思った。誰かと、一緒に。肩を並べて、時には掌を重ねて。
 方向が違うなら、気づいた時に向きを変えればいい。進み方が早すぎるなら、歩調を緩めればいい。常に一緒に歩く必要すらない。待っても待たせてもいい。似てはいても何もかも違う人間がふたり、これからずっと同じ歩調で歩き続けるのは不可能だと、きちんと認めて受け入れればいい。
 それでもいいのだと、やっと思えるほど齢を重ねて、若さには若さの特権があり、それを振り返って笑えるようになったら、その稚なさをいとおしく感じてやればいい。
 若くはないと言う言い方は、決して否定的な意味合いではないのだと、もう一度恋をして思い知る。
 一瞬で世界の果てへ飛べるほど、自制の効かない情熱にあふれた、最初の恋。今は、穏やかに、地平線を一緒に眺めて、夕日の色に同じ感想を抱ける、そんな2度目の恋だ。
 承太郎は、卵をひと口だけ皿に残して、左手であごを支えてウェザーの方を向いた。
 それに気づいたウェザーが、まったく同じに左肘をテーブルの端に突き、承太郎を見返して来る。
 「それ。」
 持ったままのフォークの先で、ウェザーが、承太郎が少しだけ残している卵の小さな山を指し示す。
 承太郎はウェザーから視線を外さないまま、小さく唇を動かした。
 「好物は、最後に残しておく主義だ。」
 ひくりと、ウェザーの眉が動いた。
 「・・・それは知らなかった。」
 そうだろう。承太郎自身も知らなかった。
 卵なら何でもいいわけじゃない。
 ウェザーが作ってくれたからだと、そこはまだ素直に伝えられずに、承太郎は口づけを誘うために、顔を傾けてゆっくりと目を閉じた。
 承太郎へ肩を寄せながら、ウェザーが、冷蔵庫の方をちらりと見たのが見えた。
 明日から、卵の数をひとつ増やそう──承太郎のために──かどうか、考えているのだとわかる。それがわかることに、承太郎は胸の内で微笑んだ。
 ウェザーの視線を絡め取って、自分の方へ向かせる。まぶたが閉じる一瞬前に、紫色の影が、薄い茶色の瞳に走る。
 ウェザーの瞳に収まった小さな自分の姿が、その紫の影に覆われたのを確かめてから、承太郎も目を閉じた。

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