エモーショナル Title 5@無限混色 Choice Title

あなたの体温

 ウェザーの腕が腰に触れる。脇腹を、二の腕の内側が撫でて行った。体の中では、比較的薄くて柔らかなその部分の皮膚が、まるで子どもの掌のように、承太郎の肋骨の上をかすめてゆく。背中に重なるウェザーの胸に向かって、承太郎はゆっくりと肩を回した。
 向き合う形になると、ウェザーが承太郎の鎖骨の辺りへ額を埋めて来て、いっそう近く躯を寄せて来る。
 承太郎よりはやや厚みのあるウェザーの躯の下に、そうしてからじわじわと敷き込まれ、腰の辺りが重なると、すでに勃ち上がり始めたそれが、互いの腿の付け根や下腹の辺りへごつごつと当たる。
 次第に張りつめてゆく敏感な皮膚同士が、時折偶然のように重なりもして、ふたりの躯に挟まれる形になるその感触が気に入ったのか、ウェザーは、まるで一時(いっとき)憩うように、忙(せわ)しく動く手を、その時は承太郎の胸や肩の辺りへ縫い止める。
 触れ合うたびに、躯が馴染んでゆくのがわかる。最初の時よりは2度目の方が、2度目よりは3度目が、そんな風に、互いの感触に慣れ馴染み、どこをどうすればどうなると、少しずつ小さな特殊な情報が蓄積されてゆく。
 他の誰とも話し合う予定のない、ふたりの間だけの、互いについての知識。脳の中に、互いの名をつけた小さな領域があって、互いについての何もかもが、そこへ保存される。上書きされることはなく、削除されることもない、ただ溜まってゆく、小さなデータの断片。集まれば、いずれは完全な人型を現すはずの、保存された、互いについての記憶。
 日々空の部分を減らしてゆくその領域は、いずれ大きさが足りなくなるだろうと思われた。そんな風に感じるのは、ほんとうに久しぶりだ。
 承太郎はウェザーの頬に両手を当てて、そこから指を伸ばして、柔らかいまぶたに触れた。
 瞳の中に映る自分の姿が見えるほど、誰かに近づいたのも久しぶりだ。その瞳が、こうして口づける時には大抵閉じられているのを少しだけ残念だと思って、それでも、弾む息の通う唇を外すのには、今はもっと未練がある。
 もっと若い頃、ほとんど少年だった頃は、後ろから突き飛ばされるような衝動があった。そうせずにはいられずに、そうしたい理由はただそうしたいと言うだけで十分だった。
 時間が進んで──その表現を、承太郎は皮肉に感じる──分別が増え、そうして、衝動はある時きれいさっぱり消え失せた。背中を押されて腕を伸ばす、その先がなければ、足を前へ踏み出す意味もない。
 ある日突然、自分の内側が空っぽなことに気づき、そこへ通る風が激痛を呼ぶのに、耐えられるようになる頃には、もうほとんど研究以外のことから興味を失っていた。
 空の内側は縁が乾き、腐るものもないその虚空は永遠に無色で無臭で無意味なまま、その空間へ哲学を見出すほど承太郎はロマンチストでもなく、時々、自分の手を差し入れるようにしては、虚空がそこへ在ることと、自分がそれを抱えたまままだ生き続けていることを、まだ残る痛みとともに確認するだけだった。
 皮肉なことに、生き続ける間はその苦痛を感じ続け、苦痛があれば思い出が甦る。痛みが鮮やかであればあるほど、記憶もまた鮮明に、手に取れるほどの近さで、承太郎の眼前に現れる。記憶を生き生きと手繰り寄せるために、承太郎は生々しい痛みを保ち続けて来た。
 少年の自分。喪うには、17と言う年齢はあまりに若過ぎたのだと、悟った時もまだ若過ぎた。
 そして今、もう若いとは決して言えない辺りへ差し掛かって、永遠に起こらないだろうと思っていたのに、突然また恋に落ちた。
 衝動はない、ただひたすらに穏やかな、あの頃の恋が炎なら、この恋は陽射しにぬくめられた水のようだ。
 そう思って、その水温が、ちょうど人の体温のようだと、承太郎はウェザーを抱きしめた。
 陽に温められた水、蒼い潮水、水の中で呼吸する生きものたちのいる、海の中、塩辛いその水の中が、ずっと承太郎の世界だった。
 鱗に覆われた、ぬるりとした体。水温と同じ体温の、ひやりとした生きもの。正面にふたつ揃って見える目はなく、彼らの姿は人からかけ離れていて、だから承太郎は、彼らと向き合うとひどく安心する。
 固い鱗に覆われたあの体は、ただ柔らかな皮膚に覆われただけの人よりは丈夫そうに見え、触れれば見た目通りに冷たく固いのも、承太郎をまた安堵させる。
 彼らの棲む海水の中では、たとえそこで泣いても、誰にもわからない。涙を流せば塩水に混ざり、その一滴は永遠に消え失せる。人の涙が塩辛い理由を、その時悟ったと承太郎は思った。
 ウェザーが、耳元で何か言った。噛まれた耳朶の軽い痛みばかりを気にしていた承太郎は、ウェザーのそのささやきを聞き取り損ね、思わずそちらへ首を回して、偶然ウェザーの歯先から外れた耳朶に、唇の縁が触れて行って、承太郎は大きく首をすくめた。
 「何だ?」
 ウェザーのささやきに合わせて、声を低めると、思ったよりも近づいて来る薄い茶色の瞳が、何もかも見抜くように紫色をひと筋刷く。
 「なに考えてる?」
 幼い頃のそれに比べれば、ほんとうにかすかな、嫉妬──のようなもの──の気配が口調ににじんでいた。
 比べているのは人である誰かではなくて、海に棲む魚のような、そういう生きものだと説明する気にはならず、承太郎はうっすら笑ってそれを受け流し、代わりに、親指の先を添えてウェザーの唇を開かせ、そこへ自分の開いた唇をかぶせて行った。
 人の体はあたたかい。あたたかい血がめぐっているからだ。そのあたたかさに、極限まで近づくために、舌を絡めて、体液へ触れる。皮膚に隔てられた人の体の、内側の粘膜。そこもまた、融け合えるほど近くなるのは不可能だったけれど、触れ合わせれば、ひとつだと錯覚はできる。
 腿の内側へ触れるウェザーの掌のために、膝を開きながら、そうしなくても、と承太郎は先のことを考えた。
 そこへたどり着かなくても、ただ、たとえば指を絡めるとか、掌を重ねるとか、背中と胸を合わせるとか、そんなことでもよかった。充分だった。
 誰かの素肌に触れること。誰かに、自分の素肌に触れさせること。ただそれだけで、体温が上がる。心がぬくまる。自分以外の存在とは、ただそれだけで太陽のようなものなのだと、触れるあたたかさに、承太郎は目を細めた。
 焼き殺されることはない太陽。自分の肌と同じぬくもり。触れるだけで安心する、体温のある形。
 冷たい海の中でも、抱き合っていればきっと大丈夫だろう。水面をあたためる空の太陽と、そこで互いをあたためるふたつの人の体。次第にぬくまる、海の水。
 鱗では、互いを傷つけてしまう。だから人は、抱き合えるために鱗を持たないのだ。こすり合わせて、滑らせる平たい皮膚。
 躯を繋げるために姿勢を調えながら、そうして自分が得る、ウェザーへの、言葉にはできない親近感を期待して、承太郎はウェザーの肩を探して腕を伸ばす。触れ合わせるのは傷つきやすい粘膜だけではなくて、皮膚の表面の何もかも、髪に触れ、耳の流線をなぞり、自分ではない誰かの躯が、これ以上は絶対に無理な近さに、自分に近づいて寄り添って来る。
 血のぬくもり。肌のぬくもり。自分のものではないぬくもり。そんなものを、感じることが必要なのだと、生き続けて、今さら思い知る。生きている人間の体。自ら体温を放ち続けながら、同時に、与えられる体温を求め続けてもいる。
 ひとがひとりでは生きては行けない──生きていると信じているなら、それはただの傲慢だ──と言うのは、単純に、こうやって誰かの体温を求めてやまないからだ。求めていると言う自覚すらなく、与えられて初めて、自分がどれほどこのぬくもりと感触に飢えていたのか、承太郎は自分の内の渇きを、痛みと一緒に思い知った。
 躯が揺れる。押し寄せて返す、これも海と同じだと思った。
 誰かと魅かれ合うと言うこと。引力。自分の内に満ちて来る水音に耳を済ませて、承太郎はウェザーの背中を抱きしめ、肩甲骨に掌を乗せて、心臓の音を探ろうとする。
 血の巡る音。あたたかな血が、確かに流れている体。自分のものではない体。満たされながら、承太郎はもう一度唇を開いて、ウェザーを下から誘った。
 唇がこすれ、何か不様な音を立てる。無我夢中で引き込む舌先が、もっとあたたかい、喉の奥へ向かって伸びる。
 唇を塞がれたまま、まだこんな時には素直に呼べないウェザーの名を、承太郎は、喉の奥でだけ、小さくささやいた。

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