揺れる瞳
足元も頭上も、ふわふわと薄い雲状の、何か霧のようなものにまかれていた。さっきまで確かどこかの海を上向いて漂っていたと思ったのに、今は地──らしきところ──に足がきちんと着いて、ウェザーは辻褄の合わなさにぐるりと頭を回す。
何が起こって自分は今ここへいるのだろうと、肩越しに辺りを見回したところで、近づいて来る人影に気づいた。
空気を大きく揺らして、ほとんど白い薄い雲を蹴散らすように、こちらへやって来る。大きな歩幅、いからせた肩、あるとも思えない風によそぐ、上着の長い裾。顔は、かぶっている帽子のつばのせいでよくは見えない。それでも背格好とまとっている雰囲気で、それは承太郎だとウェザーは即座に悟った。
ウェザーが声を掛ける前に、ウェザーが知っているよりももっと、長い足を持て余したような歩き方をふと止め、その承太郎はウェザーに気づいて顔を上げる。口元に、火の点いていない煙草をくわえていた。
確かに承太郎だ。けれどそれは、ウェザーの知っている承太郎ではなかった。承太郎は、自分を見て驚くウェザーに何の反応も示さず、肩を揺らしながらもう2歩近づいて来た。
「あんた、火ィ持ってるか。」
深さの少し足りない、稚なさを底に含んだ声。言葉の間がかすれるその発声には、ウェザーも覚えがあった。声変わりを終えたばかりの少年の声だ。これは16か17の承太郎だ。なぜかそう確信して、ウェザーは少年の承太郎へ完全に体の向きを変える。
「いや。悪いが。」
年齢が逆戻りしただけの、服装も今と大した違いはない承太郎だった。それでも今と比べれば、腹の辺りが幼く薄い。ウェザーの方がわずかに背は低くても、体の厚みと、そこから発する空気の重さが違う。この承太郎はまだ子どもだ。体はもう大人だけれど、内側はそれこそ12、3と大して変わらない、ほんとうの少年の承太郎だ。
ウェザーは、思わずしげしげと承太郎を眺める。恐らく無意識なのだろう、尖り切った空気、射抜くような視線、その色だけは決して変わらない、濃い深緑の瞳、世界のすべてを敵に回しているようなふてぶてしい態度、どれもこれも、思春期そのものだ。
不思議と、この承太郎の顔立ちにはぴったりと徐倫が重なる。年齢が近いせいだけではなく、恐らく、まだ大人になり切ってはいないこの承太郎に、完全な男性の匂いが薄いせいだ。
見た目には大した違いはないのに、また大人の男にはなり切っていない少年の承太郎。決して女性的と言うわけではなく、男と言う域に達するのに、もう少し時間が掛かると言うだけの話だ。
ウェザーは目を細めた。
「なんでおれをそうジロジロ見る。」
くわえていた煙草を指先に取って、少年の承太郎が訊く。凄むつもりはないようだけれど、声が自然に低くなる。それを子どもっぽさの現れだと思って、ウェザーは薄く、ごく薄く、唇の端を上げた。
「知り合いに、似ている。それだけだ。」
徐倫のことを思い浮かべ、それから、自分の知っている自分よりも少し年上の承太郎を思い浮かべながら、ウェザーはそう答えた。
「知り合い? あんたまさかジョースターの関係者じゃないだろうな。」
まさか承太郎の方からその名を持ち出すとは思わず、ウェザーは少しばかり面食らう。さて、どう答えたものかと、数秒思案した。考えながら、肩の後ろの星のアザが、熱くうずいたような気がした。
「いや、違う。」
決して嘘ではないけれど、ほんとうでもない。君より年上の、君の娘を知っているし、未来の君とは友人以上だと、まさか答えるわけにも行かない。
承太郎はまた煙草をくわえ直し、それから火がないことに改めて気づいたように、音のない舌打ちをした。
「火を探してるのか。」
素直に気持ちを表に出す承太郎が珍しく、ウェザーは大人の分別をきちんと込めて、静かに訊く。知っている承太郎が非喫煙者であること、ウェザー自身が刑務所暮らしのせいで喫煙にあまり縁がないこと、そして大人になると、未成年の飲酒や喫煙が滑稽に見えるせいで、うっかり笑いを浮かべないようにするのに実は苦労していた。
「知り合いに、いつも火を持ってるヤツがいるんだが、そいつが見つからねえ。探してここまで来たがどこにも見当たらねえ。」
ぞんざいな口調の、けれど語尾は時々細くかすれる。そう在りたいと思う大人の自分と、実際の子どもの自分自身の狭間で、少年の承太郎の戸惑いが手に取るようにわかるウェザーだった。
「少し、動かないでくれ。」
ウェザーは手を前に出し、掌を上に向けた。ウェザー・リポートが、湿った空気と一緒に背後に現れる。見る間に濃い雲が辺りに立ち込めて、そして小さな小さな雷が、スタンドの出現に目を見開いて肩を硬張らせた承太郎の口元へ向かって走る。小ささと同じほどかすかに鳴って、その雷は承太郎の煙草の先に落ち、そこへ火を点けた。
こんな使い方は初めてだったけれど、思ったよりもうまく行って、ウェザーは内心自画自賛しながら、ひとりわずかにうなずいていた。
「あんたも、スタンド使いか。」
煙草の先に目を凝らしていた承太郎が、ウェザーとウェザーのスタンドをじろりと見て、薄い敵意を隠さずに訊く。
「ああ、君と同じにな。」
無意識にウェザー・リポートを操作して、ウェザーは周囲に雨を降らせ始めていた。承太郎が空を見上げ、煙草を雨からかばおうとする。帽子のつばの中に完全には覆い切れず、承太郎がうつむいたと同時に、ウェザーは承太郎の頭上だけその雨を止めた。
自分だけが濡れながら、ウェザーは煙草を吸う承太郎を眺めていた。
「妙な能力(ちから)だな。天気を操れるのか。」
煙草には当たらなくても、承太郎の背中の辺りは少しずつ湿り始めている。指先に挟んで煙草を離すたびに、唇から白い煙が漏れる。ああ、と短く答えながら、ウェザーは無意識に承太郎の唇に視線を当てていた。
見つめ合うと無口になる。そして、瞳はもっと雄弁になる。こんなところは変わらない。煙草を吸う仕草が奇妙に板について、だからこそ少年くささと合わさって痛々しくなるのだと、気づかないのがこの承太郎の幼さだ。ウェザーはいつの間にか、包み込むような眼差しで承太郎を見つめている。
ウェザーの知っている承太郎は、ウェザーがこんな目つきになるたび、すっと視線をそらすのだ。そんなものは必要ないともあるいは欲しいのは別のものだとでも言いたげに、するりと視線を外して、代わりにウェザーの指先を取ったり、肩に額を乗せて来たりする。
もちろんこの承太郎にそんなことは期待もせず、ウェザーはただ煙草の煙の行方を見守っている。
「火ィ、助かったぜ。」
承太郎が煙草をくわえたまま、あまり明瞭ではない声で言った。親指の先で帽子のつばを押し上げ、顔をきちんと見せるのが礼儀だとでも思っているように、そうしてにっこりとウェザーに笑い掛け、肩をすくめて見せる。
その眼差しの真っ直ぐさで、ウェザーは、この承太郎はまだ恋の失うつらさを知る前だと突然悟る。この承太郎はまだ、あの悲しさを知らない。だからこそこんなに、真っ直ぐ幼いままなのだと、ウェザーはもう自分に向かって肩を回し始めている承太郎の、広いくせに儚く見える背中の線に向かって、思わず手を伸ばしそうになった。
ここにいれば、それを知らずにいられる。知らないままでいられる。そっちへ行かない方がいい。行くな承太郎。ここにいろ。ここにいれば、アンタは悲しい想いをしなくてすむ。
ウェザーが突然浮かべた表情に、承太郎はふと体の動きを止め、横顔に不審の色を浮かべた。煙草の煙が頬の線をなぞってゆく。
「なんだ、おれに何か用か。」
今度は帽子のつばをつまんで引き下げながら、承太郎が訊く。その横顔の、こちらへ向いた片方の瞳に映る自分の表情を、ウェザーははっきりと見た。
行くな、と声がする。そして喉は、別の言葉を発していた。
「いや、何でもない。」
承太郎の濃い眉が上がる。そして元に戻り、ふっと薄い笑みを刷いて、承太郎は今度こそウェザーに背中を向けようと動く。
「じゃあな。」
「ああ、元気で。」
「・・・友達みたいなこと言いやがる。あんたも元気でな。」
背中が向く最後の瞬間に、承太郎が唇の端でくっきりと笑ったのが見えた。ウェザーは、承太郎と呼び掛けそうになって、それを止(と)めた。
煙草の煙が薄くこちらへ漂って来る。承太郎の背中が去ってゆく。長い足を持て余す歩き方が、知っているそれよりももっと面倒くさそうに見えた。
承太郎を止めたいと思いながら、ウェザーはそれをすべきではないのだと知っている。自分に、承太郎の運命を変える権利はないのだと知っている。
そして、ウェザーと出逢った承太郎は、無残に失った恋の悲しみを背負った、あの承太郎でしか有り得なかった。
そうだ、オレは、そんなものも含めてアンタが好きなんだ。アンタが過去に好きだった誰かの面影も全部、何もかもだ。アンタ全部だ。
ひとつでも欠ければ、それはもう承太郎ではないのだ。
それはきっと、承太郎も同じことだろうと、ウェザーは思った。
雨が降り続けている。頭上に向かって掌を仰向け、湿る自分の掌を見つめてつかの間、ウェザーは両の掌を並べて合わせて、そこへ作ったくぼみに降る雨を溜める。覗き込み、自分とスタンドの顔が切れ切れに並んで映るのに、ここにはいない承太郎の面影も引き寄せた。
自分の知っている承太郎のその瞳に、少年の承太郎の眼差しの強さが宿る。
アンタが好きだ、承太郎。
いつの間にかひとつに交じり合った、年齢の違う承太郎のその面影に向かって、ウェザーは唇を動かしていた。