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エモーショナル Title 5@無限混色 Choice Title

もう一度、立ち止まる

 ウェザーの定位置に、今日は徐倫とアナスイも一緒にいる。
 徐倫を挟むように、ウェザーとアナスイが坐り、徐倫が話し掛けるのはもっぱらアナスイの方だ。
 ウェザーはコーヒーを片手に、もう一方の手にはTVガイドを持って、どこに耳を向けると言うわけでなく、ただそこにいた。
 承太郎は、アナスイたちから見れば右手にある、大きなダイニングテーブルの上に資料を広げて、相変わらず論文書きの作業だ。
 いつもなら書斎でやるのに、今日はそこにいるのは、気まぐれ──たまに起こらないでもない──ではなく、恐らくアナスイが来ているからだろうと、ウェザーは考えていた。
 こちらに背を向けているのに、アナスイが徐倫の肩へ頭をもたせ掛けるたび、バサバサと資料をかき回すような音が派手にする。
 アナスイはそれには気づいていないらしい鈍感さで、もちろん徐倫のことしか見ていないのだから当然あるのだけれど、未来の義父の不興を今からせっせと買い込んでいることにはまったく自覚がないようだ。
 さて、その辺りをいつどんな風に告げてやればいいかと、友人の気持ちを取り戻しながら、ウェザーはまたコーヒーをひと口すすった。
 不意に電話が鳴る。コードレスの子機を手元に置いていた承太郎が、ペンを置いて素早く応答し、誰からだと分かった途端に、声の端がリラックスしたのがウェザーに伝わる。
 英語で応え、その後も会話が英語のままなところを見ると、どうやらジョースターの人間かららしい。承太郎がこんなぞんざいな口を聞くのは、もう90を超えたとか超えないとか言う、承太郎の祖父のジョセフに違いない。
 耳が遠い祖父のために、承太郎がちょっと声を張り上げている。いやでも皆の耳に入るその声が、突然似合わない甘さに縁取られた。
 「ああ、今ウチの姫君がいる。」
 耳元で一緒に囁き交わしていた徐倫とアナスイが、ぴたりと話を止めた。
 「ああ、姫さまは元気だ、相変わらず。」
 アナスイが振り向いて、承太郎の丸まった背中を凝視して、それから、目を輝かせて同じように承太郎を見ている徐倫に、ちょっと絶望したような視線を投げた。
 「ねえ、今姫君って言った? 父さん間違いなく言ったわよね?」
 ウェザーの方へその輝く瞳──承太郎そっくりの色の──を向けて、徐倫が声を弾ませる。
 「ああ言ったな。確かにオレにもそう聞こえた。」
 ウェザーがTVガイドに視線を向けたまま、平坦な声で答えると、徐倫の表情がいっそう明るく輝き、対照的に、徐倫の肩越しに見えるアナスイの表情が、どしゃ降りの始まる前の曇り空のように暗くなる。
 いつになったら、娘と父の特別な結びつきの間には決して入れないのだと、アナスイは悟るのだろう。ただでさえ、普通の父娘(おやこ)の関係ですら、娘の恋人は父親にすれば己れの親の敵以上に憎いと相場が決まっていると言うのに、よりによって承太郎が、いつかは自分をすんなり受け入れてくれるだろうと信じている──それにすがるしかない──アナスイの、ある種の愚かな楽観は、結局は承太郎自身にいつか粉々にされるしかないのかもしれない。
 とは言え、父と娘の間に入れないにせよ、今度は父親が入り込むことはできない、徐倫と、彼女の特別な人と言う関係に、承太郎のことなど今は忘れて、アナスイはそちらへ集中すべきだと考えるのがウェザーだ。
 もちろん、承太郎にはそんなことはひと言も言わない。
 誰にも変わりはないと言うことを繰り返してから、承太郎が皆の方を振り向きながら受話器を差し出す。
 「徐倫、ジョースターのジィさんだ。」
 「ジョセフおじいちゃん?」
 弾むように、徐倫がアナスイとウェザーの間から立ち上がって、踊るような足取りで、アナスイの膝を邪魔にしながら、承太郎の方へゆく。
 受話器を取り、会話を始めると、もうまた論文の方へ向き直ってしまった承太郎の大きな背を、徐倫はとろけそうな笑顔で見つめている。
 「うんうん、みんな元気だから。うん、次の時はみんな一緒に行くから。」
 誰に向かう時とも違う、甘ったれた、そしてひどく優しげな徐倫の声だ。
 アナスイは当然面白くなさそうに、肩越しにこっそり、こちらに紅潮した横顔を見せている徐倫を眺めて、それからウェザーに向かって大袈裟なため息をこぼして見せた。
 「参るよなあ。あのジョースターのジィさんとやらもスタンド使いだろ?」
 「90の年寄りにまで負けるつもりかおまえ。」
 ぼそぼそ言うのに付き合ったわけではないけれど、ウェザーも声を低め、相変わらずTVガイドからは目は離さずにアナスイに応答する。
 「承太郎に徐倫を下さいって言った時にもう覚悟は決めてたんじゃないのか。」
 ウェザーはその時のことを直には知らない。承太郎は決して触れたがらず、アナスイも言葉を濁し、けれど徐倫はそのことを話す時には声も表情もやわらげるから、それほどは険悪な状況ではなかったようだ。
 「分が悪すぎるだろ、オレひとりじゃ。」
 ひとり、と言うところに、微妙なニュアンスがあった。暗に、ウェザーももっと積極的にアナスイの側に立て──何しろ、刑務所の中ではずっと友人だったのだから──と言いたいのだろうけれど、承太郎の傍で居候を決め込んでいるウェザーにその選択はなかった。
 積極的に応援をする味方ではない。けれど引き裂くような真似もしない。それが運命なら、どんな困難に直面しようと、徐倫とアナスイは結ばれるはずだ。そしてウェザーは、ふたりはそう在るふたりだと信じている。そのことを、誰に対しても口にはしないにせよ。
 徐倫がまだ電話を続けているのをちらりと見てから、アナスイがもっと近く、ウェザーに口元を寄せて来た。
 「・・・さっきの承太郎さんの姫君は、アレはオレへの牽制か?」
 ウェザーは、目の前の紙面から少し視線をずらし、ふた呼吸分、考えをまとめる時間の間、読むのを中断する。
 「いや、言うのは割りとしょっちゅうだ。徐倫の前で言うのは初めて聞いたがな。」
 ええええ、と、頭の上に活字が見え、擬音が聞こえるような驚き方を、アナスイがする。
 「じょ、承太郎さんが?」
 言ってから、自分の声の大きさに驚いたように、自分で自分の口元を覆い、慌てて振り返ると、これもまた、ちょっと静かにしてよ、と言うような徐倫の向こうに、ゴゴゴゴゴと言う擬音を背負った承太郎が、アナスイを睨んでいた。
 アナスイは首を振り、自分の唇の前に人差し指を立てて見せ、ごくりと喉を鳴らした。
 「おい、ほんとうなのか。」
 「おまえに今さらウソなんか言ってどうする。」
 黙り込んで、また絶望的な顔をして、アナスイはがっくりと肩を落とした。
 徐倫が電話を終わらせ、受話器を承太郎の傍らに置いて、また弾むような足取りでこちらへ戻って来た。
 「カプチーノ飲みたくなっちゃった。アナスイ、スターバックスに行こう!」
 アナスイの腕をもう引き上げながら、
 「ウェザーは何がいい? ソイミルクのチャイラテ? トール?グランデ?」
 「トール。」
 OK、とおどけて言ってから、立たせたアナスイの腕に自分の腕を絡め、今度は承太郎の背中へ声を掛ける。
 「父さんは? 普通のコーヒー? それともカフェラテにする? ホイップクリームは?」
 「おれは何もいらん。車で行くならおまえは運転するな。」
 さっき姫君と徐倫を呼んだ声はどこへ置いて来たのか、手元から顔も上げずぶっきらぼうに答えるのに、それでも徐倫は上機嫌の表情を崩さない。
 「行きましょアナスイ。」
 組んだ腕を引き、歩き出しながら、徐倫は肩を並べたアナスイの耳元に何か囁く。途端にアナスイが相好を崩し、溶ける寸前のアイスクリームのような顔で、こっそりとウェザーの方へ親指を立てて見せた。
 ふたりが騒がしく去ってゆくと、途端にリビングには静けさが落ちて来て、承太郎はちらりと玄関の方へ視線を投げてから、わざとらしく伸びをし、椅子から立ち上がった。
 「またジジィが、徐倫に小遣いをやる話でもしたな。」
 ウェザーの方へ来ながら、ぼやくように、けれど別に腹を立ててるようでもなく言う。
 ウェザーはTVガイドを閉じて膝に置き、自分の隣り、ついさっき徐倫が座っていた場所を、ぽんぽんと叩いて見せる。
 承太郎は素直にそこに腰を下ろし、これもまたさっき徐倫がそうしていたまま、ウェザーに肩が触れる近さなのも構わない素振りだった。
 承太郎もきっとわかっているのだろうけれど、あれは恐らく小遣いの話などではなく、多分アナスイを、恋人として婚約者として、ジョースターの身内へ見せに連れてゆくと言う内容だったのではないかと、去る時に見せたアナスイの文字通り喜びに溶け切った表情を思い出しながら、ウェザーは考えている。
 それを、他人の口から確認させられる必要はないだろうと、ウェザーはずるく口を閉じていることにした。
 「コーヒーを淹れてくれ。」
 ソファに座ったまま、ウェザーと肩を並べて承太郎が言う。
 「コーヒーはいらないんじゃなかったのか。」
 「スターバックスのコーヒーならいらん。」
 わずかの間、静かになった。
 「・・・そうだったな、アンタはマクドナルドのコーヒーの方が好きだったな。」
 ウェザーはどんなコーヒーもまずいと思ったことはないけれど、徐倫が大好きなスターバックスのコーヒーは、残念ながら承太郎の好みではないそうだ。
 けれど承太郎が今ここで、スターバックスの──しかも、大事な姫君のオファーを──断ったのは、スターバックスのコーヒーが好みではないと言う以上に、ウェザーの淹れたコーヒーがいちばんいいのだと言う、とんでもなく遠回しな表現だ。
 この承太郎の娘である徐倫も、いつかアナスイに対して、こんなわかりにくい愛情表現をするのだろうか。そしてまたアナスイは、それをうまく読み取ることができずに、半泣きでウェザーのところへ愚痴りにやって来るのだろうか。
 「カプチーノマシンでも買えばいい。そしたらいつでもカプチーノが飲める。徐倫がきっと喜ぶ。」
 「キッチンがごたごたするのは嫌なんだ。使わずに埃だらけになるのが目に見えてる。」
 「だったら直火式の、エスプレッソメーカーにすればいい。アレなら場所も取らないし手入れも簡単だ。」
 向かい合って、承太郎がウェザーを視線を合わせたまま、ちょっと唇を尖らせるようにして黙り込んだ。
 「・・・好きにすればいい。」
 徐倫が喜ぶと言えば、だめだとは言わない承太郎だ。
 「チョコレートシロップも買って来て、アンタの好きなカフェモカも作れる。」
 徐倫のことは口実で、そちらが本当の本音だと分かりやすいように、ウェザーは少し間を置いてからそう付け加えた。
 あまり大っぴらにはしないけれど、承太郎は甘いものが好きだ。マクドナルドのコーヒーが好きなのも、あそこのモカの甘さが他よりも好みで、気が向けばそれを注文できるからだ。
 徐倫もアナスイも、まだ知らないはずのことだった。
 「今は普通のコーヒーが飲みたい。」
 念を押すように言って、承太郎がウェザーの膝を軽く叩いた。そのまま、ウェザーの膝に腕を支えるようにして立ち上がり、もうまたダイニングテーブルの紙の束や本の方へ頭を巡らせている。
 ウェザーは承太郎のその背中を数秒見つめてから、TVガイドをソファの上に置いてそっと立ち上がった。
 目の前のキッチンへ向かいながら、清潔な壁際のカウンターの上に、エスプレッソメーカーが鎮座している幻を見ている。
 その鈍く光る銀色の姿は、まるでここにいるウェザー自身のようで、承太郎の傍らに、ウェザーが腰を据えることを確かに許されたのだと、その証拠のようにウェザーには思えていた。
 本のページを繰る音と、紙の上にペンを走らせる音を聞きながら、ウェザーはガラスのポットを取り上げ、そこに水を注ぎ始めた。
 大きさはどれにしようかと、エスプレッソメーカーのことを続けて考えている。徐倫のためなら、ふたり用は小さい。3人か4人用にして、承太郎とふたりの時は、大きなマグに分ければいい。
 ふたりで一緒に飲む、ウェザーの作ったカフェモカの、甘い香りがすでに鼻先に立ち始めていた。
 まだスペースのあるカウンターの上に視線を走らせ、ウェザーは知らずに微笑みを浮かべている。

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