案内人


(2)

 珍しく、あまり高さの変わらない目線が、目の前にあった。
 承太郎はあごを引きかけて、けれどそれをやめて、目の前に顔を近づけてきた男の、不思議な色の瞳を、じっと見返す。
 薄い茶色に、わずかに紫の色のにじむその瞳の色から、角つきの白いボアの帽子に隠れた髪の色は、見当もつかなかった。
 「オレは、ウェザー・リポート。ウェザーと、みんなオレを呼ぶ。」
 ウェザーと名乗った、不思議な色の瞳の男は、言葉の終わりを自分の手ですくい取るように、指先を軽く動かしながら、承太郎のあごの辺りに手を伸ばしてくる。
 視線と同じように、それをよけることもせず、けれど承太郎は、ウェザーがなぜ自分にそんなふうに触れるのかわからず、唇の線を固くして、それから、やめろという意思を示して、軽く顔を振った。
 「変わった名前だな。」
 声に感情のにじまない言い方で、承太郎は、自分の胸の内に立った泡をウェザーに悟られないように、顔の皮膚を張りつかせる。
 「ほんとうの名前じゃない。」
 ウェザーが名乗ったにも関らず、承太郎はまだ自分の名を告げる気にならず、もしかすると、ウェザーはもう、自分の名などとっくに知っているのかもしれないと、そう思ってまた、みぞおちの辺りが重苦しくなった。
 「オレのスタンドも、同じ名だ。アンタは?」
 ようやく、ウェザーが訊いた。ウェザーの手は、承太郎がささやかに拒んだにも関らず、今は頬に伸びている。
 「承太郎。空条、承太郎。」
 「ジョウタロウ。難しい名前だな。ジョウタロウ。承太郎。」
 ウェザーの唇が動いて、息のかかる近さで自分の名を、ぎこちなく何度も呼ぶのに、古い傷をいきなり撫でられたような気分に、胸が騒ぐ。
 頬に触れたウェザーの掌は、思ったよりも柔らかくて、肉体労働をあまりしない類いの人間だとわかる。まだ、長いコートのポケットの中にしまわれたままの自分の両の掌を、そこで握りしめて、自分の体からは、海の潮の匂いがするのだろうか、それとも死臭だろうかと、暖かなウェザーの手に、承太郎は自分から頬を傾けてしまいそうになるのを、必死で止めていた。
 そうしないために、ずっと、ひとりで足元を踏みしめて、背を伸ばして生きてきたのだから。
 それでも、自分よりもわずかに背の低い、不思議な空気をまとっているウェザーの、何もかもを包み込むような瞳の色に、その中に小さく映り込んでいる自分の姿がひどく頼りなく見えて、もう、耐える必要はないのだと、そんな気もした。
 承太郎をそんな気にさせる、ウェザーの手の暖かさに、けれど頼るにはもう少しだけ、まだ承太郎の誇りが高すぎる。
 やれやれだぜと、承太郎は、久しぶりの口癖を、胸の中でこぼしてみた。
 ウェザーは、自分よりは若いように思えたけれど、ごつごつした手指の感触が、思ったほど若くはないことを伝えてきて、とらえどころのないこの雰囲気は、刑務所と言う特殊な閉鎖空間に、長い間閉じ込められていたせいなのかと、現実味の薄いウェザーの、けれど大きな体に視線を当てて、自分を救おうとした自分の娘を、この男が助けて、守ってくれたのだということを、改めて思い出す。
 こんな場所で、現実味もへったくれもあるかと、自分に向かってつぶやいてから、承太郎は、ウェザーの目的が知りたくて、自分から誘うように、うっすらと唇を開いた。
 常に、愛想のなさを吹聴するような、固く引き締められたままでいる唇の線が珍しくゆるむのに、ウェザーの瞳が動いて、そして、承太郎の頬に触れた指先に、わずかに力がこもる。そうして、そうなるだろうと予想した通りに、ウェザーの唇が、承太郎の唇に重なった。
 ウェザーが目を閉じたのを、最初の数秒眺めた後で、承太郎は、自分もゆっくりと目を閉じた。緊張しているような気がするのに、唇は慄えもせず、ただ、ポケットにある両手はそのまま、触れるのは唇だけだ。
 唇を離して、もう一度軽く触れて、ウェザーが、斜めに傾いていた顔の角度を、元に戻す。
 ふたりは、微笑みなどかけらもない表情のまま、まるでにらみ合うように見つめ合っていた。
 「なぜ、おれに、そんなふうに触れる。」
 ウェザーの手は、まだ承太郎の頬にあった。
 「アンタが、渇きすぎているからだ。乾いて、干からびて、アンタはひび割れそうになっている。」
 そうして、手を触れていなければ、そこから承太郎が崩れ始めてしまうのだとでも言うように、ウェザーの目が表情を険しくする。
 承太郎は、奥歯を噛んだ。
 「オレがアンタを潤さなければ、アンタは、ここからどこにも行けない。」
 まるで、承太郎の行きたがっている方向を知っているかのように、ウェザーは低い声で言った。
 「だからオレは、ここにいる。」
 ウェザーの、もう一方の手も、承太郎の頬に伸びる。
 「アンタはもう、限界だ。早くしないと、手遅れになる。」
 手遅れになったらどうなるのかと、その先を聞きたかったけれど、やめた。
 唇をまた重ねて、しっかりと抱きしめてくるウェザーの両腕の中で、背高い体を反らせながら、承太郎はようやく、重い決心をして、コートから両手を抜き出した。何度もためらった後で、ウェザーの背に両腕を回し、これまでに起こったことと、これから起こるだろうことと、その両方についての思考を、ゆっくりと停止させる。
 ふわりと傾いた体が、仰向けに倒れて、ウェザーが触れる端から、肌が剥き出しになった。不思議な場所では、不思議が不思議ではない。ウェザーの言う通り、滑る掌につれて、ぬくめられる膚の下に、潤いが流れてゆくのを感じ始める。長い間、体温を忘れ去っていた躯に、熱を持った血が流れるのを久しぶりに感じて、承太郎は、昔に比べればずいぶんと筋肉の落ちた、少しばかり薄くなった体を、ウェザーの胸にこすりつけてゆく。
 剥き出しの皮膚が、すれ合って、平たい胸の重なる感触に、ひどく懐かしい想いをかき立てられ、承太郎は、自分がまだ少年だった頃を思い出し始めていた。
 そうだ、自分は、あの時からずっと、乾き続けていたのだ。血を流して、流されて、誰かの腹にぽっかりと空いたあの大きな穴を、自分の身に写して、忘れないために、その穴をふさがずにいた。そうして、その血まみれの穴は、じくじくと血と体液を吐き出し続け、承太郎の内側は、ずっと乾き続けていた。
 あれはもう、一体どれほど前のことだ。少年の時代は、あの瞬間に終わり、否応もなく大人になった。大人になるということは、失い続けるということなのかと、血を流し続ける腹の穴を見下ろして、その痛みに、けれど流す涙すら、乾き切っていた。
 血を失う体は、体温を失くし、生きながら死んでいるのだと思っていたのは、やはり間違いではなかったのだ。自分の生気のなさを自覚しながら、流れ続ける血を止める気にならなかったのは、あれは、罪悪感だったのか、それとも執着だったのか。
 生き続ければ増えるだけのしがらみに縛られて、けれどそれからも、ようやく解放されたらしいと、自分を抱く男が、その唇で自分を湿らせるのに、承太郎は喉を伸ばして、体の力を抜く。
 いつのまにか、体を縮めるようにして生きていたのかと、今さらそんなことに気づきながら、柔らかく伸びる自分の体を、ようやく自分の手元に引き戻している。
 重なった唇から、呼吸が注ぎ込まれ、触れる手足と皮膚から、体温が流れ込んでくる。そして、熱を取り戻した躯が、久しくなかった感覚に満たされ、潤って、内側から溢れ始めていた。
 承太郎は、ウェザーにしがみつくようにその背に両腕を回して、上体を起こすと、そこにあるはずの、自分のそれとそっくりな星のアザを、長い指先に探る。
 昔そう言われたように、そこだけがもっと熱いように感じて、今の自分のそのアザもそうなのだろうかと、思った心を読んだように、ウェザーが承太郎の厚い肩に歯を立てた。
 繋がっているのだと、思った。長い因縁に、血の繋がりゆえに、あるいは、求めるものゆえに巻き込まれて、ふたりは、出逢ったこともない他人だったけれど、肉親よりもさらに親 (ちか)しい間柄だった。
 それを示す星のアザに、ふたりは互いに触れ合って、そして、熱い肌をこすり合わせる。
 承太郎の開いた下肢に指を滑らせて、ウェザーが、遠慮がちに触れた。
 馴染みのない感触に、厚い、今は紅く色づいた唇を噛んで、承太郎はウェザーを盗み見る。
 「どうするつもりだ。」
 わかってはいても、訊く。しゃべる間に、ウェザーの指が、様子をうかがいながら、内側へ滑り込んでくる。内臓にじかに触れられる奇妙な感覚に、皮膚の裏側が粟立ってゆく。けれど、それは決して不快ではなかった。
 深くもぐり込む指の数が増え、そして、開かせるために動いて、承太郎を静かに攻め立てる。
 開いてゆくのは躯だけではなくて、考え込むことを枷にしていた心が、今は一切の思考を停止して、自由にはばたき始めている。ようやく、欲しいものを求めてもよいのだと、承太郎は、何もない宙に腕を伸ばした。
 指が外れて、不意に冷たい空気にさらされた躯に、ウェザーの熱が添ってくる。
 そうして、また承太郎を胸の中に抱き込みながら、ウェザーが、唇の中にじかに注ぎ込むように、ささやきを伝えてくる。
 「オレが雨を降らせる。アンタはただ、黙ってそれを浴びて、オレの雨に濡れていればいい。」
 正面から繋がった躯が、下腹や胸をこすり上げる。全身を平たく開きながら、押し込まれるそれを受け入れて、相手の躯になるべく馴染もうと、粘膜が、馴れない動きで、熱を包み込み始める。
 深く、思ったよりもずっと深く、入り込まれて、背骨を無理矢理割り開かれるような窮屈さに、承太郎が小さく抗議の声をもらして、けれどウェザーは、一向に力をゆるめることもせず、静かに降り始めた雨の中で、濡れる躯を、承太郎に繋げている。
 雨と汗で、重なった胸や腹が滑る。筋肉や骨の線を伝い、雫が流れてゆく。びしょ濡れになるのは、あらわになった皮膚だけではなく、互いのもっと奥深くも、互いの熱に溶かされて、溢れきっていた。
 馴染みのない感覚に、声を耐えられないことを恥じたのか、承太郎が両腕で顔を覆った。それを許さずに、抗う力もない承太郎の腕を、ウェザーは地面に縫い止める。
 雨と汗に濡れた前髪の張りついた承太郎の額に、口づけを落として、そして、いたわりのつもりで、目元と頬に舌を滑らせる。そして、それが塩からいことに気づいて、ウェザーは、承太郎の手首を放してやった。
 もう少し、深く入り込んで、承太郎の上げる声を聞く。泣いていることに、自分で気づいてはいないのだろう、その濡れた顔を見下ろして、ウェザーは、降らせる雨の勢いを、もう少し増した。
 雨に濡れて、溢れきった自分を、何もかも解き放ってしまえばいい。
 そうすれば、行きたかった場所へ、たどり着くことができる。そこへ導く手助けをするために、ウェザーはここにいる。
 「・・・承太郎。」
 ぎこちない発音で、呼んだ。
 熱に浮かされた、濃い深緑の瞳がこちらを見返して、けれどそこに映るのは、自分ではないことを、ウェザーは知っている。
 そそのかすように動いて、切れ目なく声を上げ始めた承太郎の、目尻からこぼれた涙の跡を視線でだけ追っていると、不意に、ウェザーの肩の向こうを見上げて、承太郎が言った。
 「星が、見えない。」
 それが、空と呼ばれるところに浮かぶ、あの光る星のことか、それともふたりの肩の後ろにある星のアザのことなのか、どちらかはわかりかねたけれど、承太郎の視線の方向を追って、ウェザーは、雨の降り落ちてくる上をちらりと眺めて、
 「ここでは、星は見えない。」
と、はっきりと伝えてやった。
 雨のせいではない。ここには、空も星もないのだ。そんなところに、ふたりはいる。
 すっと細められた承太郎の瞳に浮かんだのが、小さな失望だったのかどうか、ウェザーにはわからなかった。
 それきり、承太郎はもう声さえ上げずに、おとなしくウェザーに躯を預けて、ウェザーが終わるのを待つ素振りを見せる。
 ウェザーは、躯の動きをゆるめて、承太郎の頬に手を掛けると、もう一度唇を重ねてから、頬骨の辺りを舌先で舐めた。舌に触れる涙はもうどこにもなく、雨だけが、ふたりを濡らし続けている。


戻る