One Fine Day

 サンドイッチをふたり分、中の薄切りのハムは、近頃ウェザーがよく行くようになった、ドイツ系のデリのものだ。そこはチーズも種類が多くて、スイスチーズよりは柔らかくて、けれど他の何とか言うチーズよりは乳くさくない、オーストラリア産だと言う、これも名前が何度店に行っても思い出せないチーズが、近頃のウェザーのお気に入りだ。
 マスタードもバターもパンも、同じ店で買って来た。
 「チーズは溶けてもうまそうだな。」
 承太郎が、自分の分の皿とコーヒーを手渡されて、手元とウェザーを交互に見ながら言う。
 「何なら、今夜アンタの夜食用にトーストサンドイッチにしてもいい。」
 「・・・夕食を軽くした方がよさそうだな。」
 近頃、そろそろ論文の締め切りが近いという承太郎はほとんど1日書斎に閉じこもったままで、物を書くというのはそういうものなのか、どんな時も頭の中でああ書こうこう書こうと文章を組み立てていて、寝ている時も心が安まらないようだった。
 朝食の話題が、
 「キーボードのKとRが見つからなくて洞窟の中で野垂れ死にするところだった。」
 「・・・アンタ、今日はちょっと外に出た方がいい。」
 会話の最中も、やはり承太郎は、論文のための文章を休まず考え続けているようだった。
 「あのまま洞窟で野垂れ死にできればよかったのにって、アンタの顔に書いてある。」
 口元に持って行きかけたシリアルのスプーンを途中で止めて、承太郎が自分の頬を撫でた。苦悩する人間特有の、色の悪い、かさついた膚だった。
 「せめて庭に出るくらいの時間はあるだろう。」
 ウェザーが、珍しく諭すような口調で言う。アナスイや徐倫に向かっては使うけれど、承太郎に対しては発することなどまずない声音だ。
 「昼メシは庭で食べよう。陽に当たって、外の風に当たったらきっと論文もはかどる。」
 普段は、承太郎に対して意見するなどしないウェザーだけれど、今日だけは承太郎がどう思うかなどと訊く前にさっさとそうすることに決めてしまい、朝食の片づけが終わった後に、ひとりでその庭での昼食のために買い物に出掛けたと言うわけだ。
 この家の庭は、大型犬の飼い主なら涎を垂らしそうな造りになっていて、隣家との距離がかなりあると同時に、広い庭はしっかりとフェンスに囲まれて、たとえここで裸で踊っていても、誰にも見られる気遣いはなさそうに見える。
 芝生は常に青々と繁り、常緑樹の木々は1年中枝と葉を広げ、ここが住宅地でなければ、小さな公園かもと思う規模だった。
 この家を、承太郎が年の半分は研究に出掛けて放置している間、雇われた誰かが世話をしていたらしいけれど、今ではウェザーが、少なくとも水やりと芝生の手入れは引き受けている。
 ひときわ背の高い木の木陰に、もうピクニック用の毛布を敷いて、ウェザーはそこへ先に立って歩く。靴など気にもせず裸足のままだ。承太郎も同じように、よく手入れされた芝生の上をふわふわと歩いて、毛布の傍まで行った。
 今日はよく晴れている。長くいれば汗ばむ程度の気温に、木陰はちょうどよく涼しい。風も吹いて、いいタイミングで、かいた汗を冷やしてくれる。
 行儀悪く毛布の上に足を投げ出し、好きな姿勢に座り込んで、ウェザーはすぐサンドイッチにかぶりついた。
 「・・・いい天気だな。」
 まずはコーヒーに口をつけて、小さな声で承太郎が言う。
 ふた口目を、ひと口目よりはゆっくりと味わって咀嚼して、きちんと嚥下した後に、唇の端に残ったマスタードのついたパン屑を親指の先で払い落とす。それから、ウェザーは空を見上げた。
 「今日はオレじゃない。」
 承太郎が、やっとサンドイッチに手を伸ばす。
 「おとといの夜雨が降ったのは?」
 まだもぐもぐとサンドイッチを口の中に残して、
 「あれはオレだ。芝生の水やりだ。」
 そう答えてから、ウェザーはコーヒーを飲んだ。
 あまり味わっているようには見えないけれど、承太郎もサンドイッチをきちんと食べ、そうしてまた、空の青さを見上げて、濃い深緑の瞳を細める。
 「いい天気だ。」
 何度でも言いたくなるほど、ほんとうにいい天気だった。
 自分のために、ウェザーがスタンドを使ったのかと思ったけれど、そうではないと言うのならそうなのだろう。承太郎はほんの少しだけはウェザーの言葉を疑いながら、またひと口サンドイッチを食べて、今度はバターとマスタードの香りに目を細めた。
 日本でならさしずめ、花見か何か、そんなところだろうか。
 特にそう意識したわけではなく、花のなる木はこの庭には植えず、花壇もない。1年中、緑だけはたっぷりあるけれど、春や秋の訪れに鮮やかな色を振りこぼす花は、この庭にはない。
 常緑樹ばかりのこの庭では、紅葉を楽しむこともなく、自分の庭だと言うのに、そんなことを深く考えたこともなかったことに気づいて、承太郎は少しばかりうろたえた。
 或いは、無意識に、つい日本へ引きずられる気持ちを切り捨てようとしていたのだろうか。
 この庭の緑の鮮やかさは、乾いた空気とやわらかさのかけらもない剥き出しの日光に晒された、大陸特有のそれだ。湿気と海の気配になごめられた、どこか穏やかな、輪郭の滲んだような色合いではなく、ひたすらにくっきりと、目を突き通すほど強烈な、鮮やかさ。この激しさを少しばかりやわらげるために、庭の片隅に花があるのもいいかもしれないと、ふと思う。
 渡る風のゆく先へ視線を動かして、気がつけば、久しぶりに心が書斎から離れていた。
 今この瞬間も、言葉が騒がしく頭の中をうごめいてはいるけれど、それを一刻も早く吐き出さなければという衝動は、今は少し落ち着いている。
 確かにウェザーがそう言った通り、書斎を出て外の風に当たる必要があったようだ。
 「いっそ、ここにテーブルでも置いて、ここで書けばいい。」
 本気でそう思ったのが、口調に明らかだったのかもしれない。冗談めかした承太郎の口振りに、ウェザーはにこりともしなかった。
 「・・・アンタは、少し自分を甘やかすことを学んだ方がいい。いつもいつも120%でいると、ある日突然心臓が止まって、死んだことにも気づかないうちに死んじまってる羽目になる。そうして死んだ後も、アンタはきっとまだいろんなことを心配してるんだ。」
 表情を変えずに、承太郎はウェザーの言葉を聞いていた。無表情のまま、けれど内心は、日本語の、耳が痛いだの図星を指されるだのご名答だの、そんな表現を思い浮かべていて、しかもそれを、頭の中のアルファベットのキーボードで虚空に打っているという有様だった。
 自分が、限度を超えて夢中になり過ぎているとか頑張り過ぎているとは、まったく思わなかった。けれど、大事なことが疎かになっていることは、どうやら否定のしようもないようだと思う。
 承太郎は、サンドイッチを食べ終わった指先を、空になった皿の上ですり合わせて、小さなパン屑をそこに落とした。
 ウェザーはもうとっくに自分の分は食べ終わって、コーヒーのマグも空にしていた。
 皿を重ねて片付けようとしたウェザーに向かって、
 「まだ、チーズは残ってるか。」
と、承太郎は訊く。
 「1週間、全部昼はサンドイッチにできるくらいある。」
 皿に添えた手を止めて、ウェザーが答えた。
 「・・・もうひとつなら入りそうだな。」
 昔食堂で働いていたことがあるウェザーが、慣れた手つきで皿とマグを全部一緒に取り上げながら、
 「トーストにした方がいいのか。」
 まるで、客に尋ねるように訊くのに、承太郎はうっかりおかしそうに笑った。
 「いや、それは今夜がいい。」
 ひと拍置いて、わかった、とウェザーが立ち上がる。
 ウェザーと次のサンドイッチを待つために、ほとんど毛布の上に横になりながら、承太郎は、家に向かって肩を回しかけたウェザーに、地面から声を掛けた。
 「・・・行く前に、虹を出してくれないか。この庭でだけ。小さいのを。」
 普段はスタンドのことを、話題にするのも控えているのに、承太郎がウェザーに、特に天気を変えてくれと頼むなど、ほとんど有り得ないことだった。
 ああ、とうなずく声に、不意に優しさがこもる。
 立ち去るウェザーの肩の辺りに、鼻も口もない、角だらけのウェザー・リポートが現れて、家の中に戻ってゆく主とは逆に承太郎の方を向いたまま、まるで手招くように掌を伸ばして来る。空に向けた掌から、きれいな円状の小さな虹がいくつもいくつも現れた。
 しゃぼん玉か、あるいはふわりと落ちてゆく花びらのように、小さな虹の輪は流れるような線を描いて、いちばん最初の輪が承太郎の手元へ届く頃、いちばん最後の輪が庭の端で止まり、キッチンへ入ってゆくウェザーの横顔が、ガラスのドアから透けて見えた。
 目の前に浮かぶ虹は、承太郎が指先でつつくと、水紋のように揺れて歪んで消える。次々と目の前にやって来る虹の輪をそうやって消した後で、けれど最後のひとつには、ふうっと息を吹きかけて、頭上へ上がる様を楽しんだ。
 庭の緑に、陽射しに混じる虹色が重なり、視界が色の種類を増したように見えた。木漏れ日は、あのぎらぎらしい激しさをわずかにやわらげて、まだ目の中に残る虹色に微笑みかけながら、承太郎はウェザーのサンドイッチを待っている。

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