「明日の天気は何にする。」
 キッチンでマグにコーヒーを注ぎながらウェザーが訊く。
 承太郎は、裏庭の芝生の様子を見に、窓に向かって立っていた。
 コーヒーメーカーに、しばらく置いたままでいたコーヒーだったけれど、ウェザーが近づくにつれて、まだ香りは充分にあった。
 差し出されたコーヒーに何も入っていないことに、ああクリームが切れているのだと思って、承太郎は明日は買い物へ行こうと、心の隅で決める。
 ウェザーは承太郎の傍には立たずに、そのまま、さっきまで坐っていたソファにひとり戻り、マグを抱えて、そこから承太郎の背中を眺めている。
 コーヒーをひと口すすり、
 「明日の天気は何がいい。」
 また、同じことを訊いた。
 毎日というわけではない、それでも一緒にいれば、週に何度か繰り返される質問だ。力の届く限り、承太郎が別の場所へ出掛けている時にも、ウェザーは同じことを訊くことがある。
 別に何でもいい。何もしなくていい。
 承太郎の答えは、いつだって同じだ。天気が、自分の好きになることを特に喜ぶこともなく、それを下らないと思っている様子もなく、ただ平たい声で、ウェザーの方を見たり見なかったり、同じ答えを繰り返す。
 今日はずっと曇りだった。
 太陽が見えることはほとんどなく、そろそろ降るだろうかと思う程度に灰色が濃くなることが何度かある。見上げるたびに気の滅入りそうな、そんな空模様の1日だった。
 どこにいてもどんな日も、太陽の明るさを無意識に求めるのは、日本で育ったせいだろうかと、承太郎は思う。
 窓からあふれる陽の光、まぶしさに目を細めて、振り仰ぐ空いっぱいに広がる、あたたかな光。カーテンもブラインドも好きではない。本のために、わざわざ日差しを避けて薄暗くしている自分の書斎を、承太郎は穴蔵のようだと、いつも思う。その薄暗さを、物を書く時には集中できていいと思いながら、筆の進みが鈍い時には、昼間だと言うのに天井から煌々と降り注ぐ電灯の明かりを、心の中で忌々しく思うのだ。
 ペンも紙もそこに置き去りして、海へ出掛けたくなる。 空と境のない、ただひたすらに青い海だ。目をやるどこも、濃さの違う青に満たされたその風景を思い浮かべて、口元がゆるみかける。
 目の前の、どこかうなだれた風情に見える芝生に、今日は1日家の中にいた──別に、特に珍しいということでもない──自分の姿が重なって、それをまた忌々しく思う。
 それでも、海と空ばかりのところにいれば、手の届くところに本のあふれる生活がまた懐かしくなるのだとわかっているから、そことここを、手元にはないどちらかを恋しく思いながら過ごす日々の中で行ったり来たりする暮らし方がちょうどよいのだと、うまい具合にそこへおさまった自分の幸運さに感謝することにして、承太郎は、ウェザーが渡してくれたコーヒーに、やっと口をつけた。
 作り置きのコーヒーは、手先と頭を使う作業に没頭している時向きだ。どこか淋しげな裏庭をぼんやり眺めている時には、少々不似合いな味だった。
 庭から視線を引き剥がし、ソファの方へ肩を回す。
 ウェザーは片手にコーヒーを、片手にTVガイドを開いて、向きを変えた承太郎を横目に見ていた。
 そうして、そうと意図せずにウェザーを見つめ合う羽目になった時に、不意に今は背後にある窓から、ぱらぱらと雨音が聞こえて来た。
 しっとりと辺りを湿らす降り方ではなく、強めに浴びるシャワーのような、そんな降り方だ。たちまち窓ガラスをびしょ濡れにして、裏庭が雨に煙る。横顔でそれに振り返って、承太郎は、やっとはっきりした天気に、心のどこかで安堵を覚えた。
 「オレじゃない。」
 ウェザーが無表情に言う。
 「わかってる。」
 無表情に、承太郎が返す。
 それから、やや弱まった雨足を背にして、承太郎はウェザーの隣りに、滑り込むようにして腰を下ろした。
 どうしてそんな気になったのかわからないけれど、雨の音が、何だか世界を小さく狭く縮めて、ふたりをふたりきりに閉じ込めているように感じたので、承太郎はそれを素直に表現する気になって、ウェザーの肩にそっと頭を乗せた。
 大きな背と肩を丸くし、寄り添うようにウェザーに寄り掛かり、承太郎のその仕草に、少し驚いたウェザーが、コーヒーをこぼさないように注意しながら肩の位置を整え、承太郎のために、そちら側の肩を少し持ち上げる。
 ふたつのマグが近寄って、コーヒーの香りが、さっきよりも少し強くなった。
 もうぬるくなっても、大して味が変わるわけでもない。だから、マグはただ持っているだけで、承太郎はこめかみや耳に触れるウェザーの肩の硬さとあたたかさに、まるで眠るようにゆっくりと瞬きをした。
 いれたてのコーヒーに、クリームを入れて飲みたい。明日の買い物まで待てない。そう思ったのは、ウェザーのせいだと、なぜか思う。
 「後で、少し、雨がやんでくれるとありがたい。」
 降る音の一定になった雨の方へ、わずかに顔を向けて、承太郎は小さな声で言う。
 承太郎の動きにつられたように、ウェザーも窓の方へ顔を向けた。
 「虹が見えないのが残念だ。」
 窓の外は、雨のせいだけではなくて、もう薄暗くなり始めていた。
 「角の店に、クリームを買いに行く。」
 歩いて3分のところに、小さな食料品店がある。中近東系の顔立ちの主人のいるその店は、日曜も休まずに夜遅くまで開いているから、今慌てて体を起こす必要もない。
 彼の家族らしい、同じ年頃の、同じような顔立ちの女と、その子どもらしい10代の初めだろうかと思われる少女と、もう少し子どもっぽい少年と、彼らが入れ替わり立ち代わり店の中で働く姿を思い浮かべて、それから、いっそう強くウェザーの肩に頬を押し当てた。
 「散歩代わりだ。」
 ばらばらと途切れる言葉の連なりは、会話の形を取り切れずに、それでも意味は通じている。
 いつの間にか、それに慣れ切って安心している自分を、承太郎は心の中でたまに嘲笑う。そんなところに安住していいはずもないと、自分に言い聞かせる。
 それとも、明日の天気だけを気にするような、こんな安穏とした生活を、もう許されてもいいのだろうか。
 わからない。わかろうとしなくてもいい気もする。寄り添えるぬくもりを、ただ貪っていたいと、自堕落な声を、昔ほどの嫌悪もなく聞いている。
 「明日も雨でいい。」
 考えているという自覚もない間に、勝手に唇が動いていた。
 雨が降れば、どこにも出掛けない言い訳ができる。クリームがあれば、他の買い物は別の日でもいい。
 いれたばかりのコーヒーを分け合って、こうやってウェザーと1日、ソファに坐ったままでいればいい。降り続ける雨を眺めて、他には特にすることがないというのを口実に、ウェザーの体温に寄り添っていたかった。
 「雨なら虹も見れる。」
 「雨だけでいい。虹は別にいらない。」
 「・・・オレが見たい。」
 承太郎の、力のない言葉を押しのけるように、ウェザーが言う。
 ウェザーが何かすれば、それは必ず自分のためなのだと思い込んでいることを、けれどなじられたのだとも思わず、そしてウェザーにそんな気がないのはわかっていたから、承太郎は心を波打たせることもないまま、そうか、と小さくつぶやくだけにとどめておいた。
 それから、ほとんど減っていないコーヒーをこぼさないように気をつけながら、ソファの上で体を滑らせて、もっと近くウェザーに寄った。
 「虹という言葉は、元々は美人という意味の言葉だったそうだ。」
 日本語の、美人という言葉に含まれる響きを、どうやって訳して伝えようかと考えながら、不意にそんなことを言ってみた。
 思いつくどの言葉も少し足りず、少しずれていて、ただ見目形が良いとか、顔立ちが美しく整っているというだけのことではないのだと、うまくは伝えられないような気がしたから、結局は説明することはあきらめて、うなずいただけのウェザーが心の中で解釈したままにしておこうと、承太郎はそれ以上は何も言わない。
 虹というものが、思い浮かべる時にはウェザーに繋がってしまっていることを、伝えたかったのはそのことだった。だから、事細かに伝えない方がいいのだろう。きっと。
 雨の音に閉じ込められて、世界の片隅で、誰にも邪魔されずに今ふたりきりなのだと思う。そこに漂っていたコーヒーの香りは、もうずいぶんと薄れてしまっていた。
 「アンタの散歩に、オレも一緒に行っていいか。」
 TVガイドのページがめくれる音と一緒に、ウェザーが訊く。
 今ではウェザーの肩と腕に背中を添わせて、承太郎はああとただ短くうなずいた。
 無言で歩くその間に、人気のない暗さを選んで、偶然のように触れ合う肩先や指先を思い浮かべる。そうやってここからひそやかに広がってゆく、ふたりきりの小さな世界だった。
 雨音を聞きながら、まだ立ち上がれずにいる。承太郎の手の中で、コーヒーがゆっくりと冷めてゆく。


* 首絞められそうに遅くなりましたが、立太さんへ捧ぐ。

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