雨の降る日
犬を放して遊ぶことくらいはできそうな裏庭を、承太郎が、リビングの窓から眺めている。
今日は雨だ。
きれいに刈られた鮮やかな芝生もしっとりと濡れて、こんなふうにしとしと降る雨は珍しい。
あまりに長い間、熱心に見ているように見えるので、ウェザーはさっきから、寝そべったソファから顔をねじまげて、こちらに向いている承太郎の背中を、何度も盗み見していた。
ふたりは、あまり会話というものをしない。承太郎は元々寡黙な男だし、ウェザーは特におしゃべりでもない。心のこもった一言を生み出す能力には長けているから、必要のない言葉をだらだらと費やす必要がなかった。それでも、その必要のない、無駄だと思える部分を共有するのが、親密ということなのだと、近頃わかり始めているふたりだった。
肩にある星のアザゆえに、何となく気持ちが通じる、考えていることが伝わるというのは、良いことでもあり悪いことでもある。元々他人の心の機微に聡いふたりは、そのせいで、一緒にいるとますます言葉少なになる。
もっと注ぎかけたいと思っても、そんな習慣も今までなかったと、ふたり一緒に思い知るだけだ。
若い、というよりも、稚ない頃にとても悲しい恋を経験すると、人はひどく臆病になる。
何とか、あの恋を救う手立てはなかったかと、その頃の自分の稚なさゆえの無力を、もう思い出しもできずに、何度も何度も、繰り返し繰り返し考える。考え続ける。
失うという経験は、それそのものをを失うだけではなく、自分の身をも削る。体のどこかがぱっくりと欠けて、その傷を見下ろすたびに思い出すのだ。思い出して、そしてまた、その喪失を体験する。
自分のせいで、その人が去ってしまったのだと、それが事実かどうかはともかく、永遠に湧き続ける罪悪感に肩を落として、うつむいて、灰色に、世界はいっそう厚く塗り込められてゆく。
それはすべて、稚ない悲しい恋の結果だ。
慰め合うために、出会ったわけではない。承太郎には珍しく、必然という繋がりもあるのだと、出会った瞬間に悟った関係ではある。ウェザーはもう、出会う前から恋していたと、その腕を伸ばしながら言った。
以前の恋が消えたわけではない。それは間違いなくそこにある。決して忘れないと誓った、その恋を失った痛みを抱えたままで、新しい恋に、おそるおそる足を踏み出す。わずかな1歩も、けれど確かに前進だ。
ふたりは、とても不器用に、ためらいばかりで、恋をしている。
ウェザーは、ついに読んでいたTVガイドを置いて、ソファーから音をさせずに体を起こした。
爪先を滑らせるようにして、ウェザーが承太郎の背中を目指すと、ウェザーの動きを察知している承太郎は、振り向きもせずに、そばへ来るウェザーのために、自分の左隣りをほんの少し空けた。
「よく降るな。」
「ああ・・・。」
ウェザーは、わざと承太郎の肩をかすめて、隣りに立った。雨空を見上げる承太郎の横顔を見つめてから、一緒にその空を見上げる。
承太郎は、ウェザーにそばに来られるのも、話しかけられるのも、いやがってはいないようだったけれど、ポケットに入れていた手を出して、胸の前で軽く腕を組んだ。誰もが無意識にやる、警戒のサインだ。あるいは、あまり近くに寄りすぎるなという、警告の意思表示だ。
ウェザーはそれを無視して、むしろ肩の触れ合う近さに、承太郎の体に片方の腕を伸ばす。
腰を抱き寄せて、厚い肩に頭を乗せて、こんな時には言われなければわからないと、わざとそんなふりをして、ウェザーは承太郎にしなだれかかる。
承太郎は、それでもまだ腕はほどかずに、けれど雨空からウェザーに視線を移して、あごの先をウェザーの額にほんの少し触れさせた。
そうして、ふたりはまた一緒に、雨の降る空を見上げた。
細かい雨は、視界を煙らせて、紗幕のかかった裏庭は、いつもと眺めが違う。濡れた芝生の緑は、うつむいているように見えるのに、生き生きとして見えた。
庭をいじるのに興味がなく、研究のための旅行で家を空けることの多い承太郎は、芝生の手入れも自分ではしない---芝刈り機くらい買ってよ、と徐倫がうるさく言っている---から、そのいかにも人工的な、人の手の入った緑色をあまり好きではないけれど、今だけは、湿ったその色がつやつやしていて、何もかもが生きているのだと、普段は滅多と出ることすらない裏庭を、ひどく身近に感じていた。
この家だって、ただ住むところが必要だからと、それだけの理由で手に入れたものだ。
以前はもっと、寒々としたただの空間だったと、ウェザーの方へまたあごの先を向けて、承太郎は考える。
ひとりでなく眺める庭の、窓の形に切り取られた景色が、色鮮やかに見えるのは、雨だけのせいではないのだろう。ひとりでないというのは、そういうことだ。長い間、承太郎は、その眺めを拒み続けていた。
承太郎はようやく組んでいた腕をほどいて、自分の腰を抱くウェザーの手に、自分の掌を重ねる。
こんなことを考えるのも、ひとりではないからだと、思いながら、ほんの少し、自分からウェザーの方へ体を近寄せる。
「・・・雨が、止んだ方がいいのか・・・?」
ウェザーのもう一方の手が、承太郎の首筋に触れた。
その手に引き寄せられて、ようやく降る雨からウェザーに視線を動かして、けれど承太郎は、笑みすらまだ浮かべない。
濃い深緑の瞳と、紫がかった淡い茶色の瞳が、互いにまぶしそうに、短い時間、絡む。
いや、と承太郎が息を吐くように言った。
「雨の方がいいんだ。晴れていない方が、むしろいい。」
ちょっと拍子抜けしたように、ウェザーが目を丸くする。
ウェザーは、承太郎が今何を考えているのか読み取ろうと、ちょっと目を細めた。
その動きを読んで、承太郎の方が1拍早く、ウェザーから視線を外した。瞳に、かすかな罪悪感の色が浮かんでいるのを見たウェザーは、ああ、また昔のことを考えているのかと、承太郎が自分で語る以外には、無理に聞き出そうとしたこともない、承太郎の過去のことを思う。
押し黙る承太郎から、腕は外さずに、物思いに沈み込むその淵で承太郎を待つために、ウェザーは、自分も静かに黙り込んだ。
わざわざウェザーがその力を使うこともなく、この雨はしばらくやみそうにはない。
また雨を眺めて、承太郎は考えている。
雨などろくに降らない、吹き出す汗がはしから乾いて、皮膚の上に白く塩を吹く、そんなところばかりだった。まれにスコールに出会って、びしょ濡れになったところで、それもすぐに乾く。雨の降った跡など、どこにも残さずに、ひたすらに乾いた空気と土は、わずかな湿りの気配をどこかに隠して、白い陽射しが、じりじりと世界を焼いていた。
雨を思い出せない。あれは、日本でなら、雨ばかり降る梅雨の頃だったというのに、あの50日の間には、雨の記憶がほとんどない。
目に痛い白い陽射しは、心までも突き通す。あれからずっと、乾いて、渇いて、ひび割れ続けていたのだ。
じっとりと空気の重い、体にまといつくような、日本の湿った空気を、厭える程度の旅だった。今ではそれが懐かしいのは、もう長い間、日本の梅雨の頃に、出会っていないからだ。
こんなにも遠くに来てしまったのだと、この降る雨に濡れる地面のように、今では、確かにわずかな湿りを染み通らせて、ひびは残ってはいても、それほど乾いて---渇いて---はいない自分の胸の内を、承太郎は感じている。
それを、裏切りではないのだと、完全に信じることができるようになるには、これからまた、一体どれほどの時間がかかるのだろうか。
情熱が失せるのがこわかった。薄れてしまう熱が、つまり忘れると同義だと思って、そうしないことが、生き残ってしまった自分に課せられた務めなのだと、一体いつ信じるようになってしまったのか。
情熱のともなわない恋は恋ではなく、あれが恋だったのなら、情熱は永遠にそこに在るはずだと、そしてそれは、確かに真実では在ったけれど、真実がゆえに、燃え残った情熱に、もうずいぶん長い間、苦しめられ続けてきた。
恋とは苦しいものであるはずだったから、その苦しさにも耐えたけれど、相手のいない片恋の情熱の薄れを恐怖して、無駄な遠回りをしてしまったのだと気がついた時に、承太郎の中で、何かが崩れた。
それこそが、乾き切って、ひび割れていた自分の心の一部だったと、掌からこぼれ落ちる、砂粒のようになったその残骸が散ってゆくさまを眺めて、けれどそこに絶望はなかった。
情熱は、形を変えて生き延びるのだと、ようやく知っていた。
薄まるのではない、失せるのではない、ただ、色と形を変えるのだ。生き延びるためにこそ、情熱は変わってゆくのだ。
そして今は、情熱のともなわないいとしさも、確かにあるのだと、わかる。
いとしさは激しさだけではなく、ただひたすらの優しさと、穏やかさだけを発現することもあると、不器用な二度目の恋に、今さら悟っている。
忘れられなかった。忘れたくなかった。今はそして、忘れてなどいないことに、わずかに罪悪感を感じるのは、つまりはウェザーへのいとしさのせいだ。そう素直に理解して、苦しまずに思い出せるようになるのに必要なのは、時間の長さだけではなかったのだと、迷ってきた道を振り返って、思う。
降る雨は承太郎の涙だ。あの時も、あの後もこぼすことのできなかった、承太郎の涙だ。
このまま、今日は1日中降り続けばいいと思いながら、承太郎はようやく、窓からウェザーに体の向きを変えた。
雨を見つめ続けていた承太郎の瞳が、わずかに濡れている。それを見取って、ウェザーは、承太郎の頬に手を添えた。
自分よりも背の高い承太郎の唇に向かって、少し首を伸ばす。今は触れるだけで口づけをすると、相変わらず悲しげな色をした承太郎の瞳の中に、ウェザーが小さく揺れている。
承太郎を形作る、何もかもがいとしいと思いながら、ウェザーは、顔を近づけるために、承太郎のうなじに両手を添えた。
これは恋だ。相手へのいとおしさばかりがあふれる、確かに恋だ。
ふたりはもう一度口づけをして、互いの体に腕を回した。
「・・・上に、行かないか。」
そうささやくウェザーの声には、まだ熱も湿りもない。
承太郎が、ほんのわずか戸惑いを示して、まばたきをする。
「徐倫たちは、多分夜まで帰って来ない。」
「・・・そうだろうな。」
少し照れたように、承太郎は目を伏せた。
窓をカーテンで覆って、明かりもなく、薄闇を作って、裸で抱き合う。雨から隔てられた部屋で、涙ではなくて、汗を溶け交じらせる。
互いの手順を思い浮かべながら、今度はゆっくりと、触れる唇に熱がにじむ。
雨はまだ降り続いている。
戻る