See You Later

 2階から、徐倫が軽やかな足音とともに降りて来る。しゃがむのは絶対に無理だろうと思えそうな短いスカートに、ようやく胸元を覆うだけの小さなシャツ。承太郎は、読んでいた本からじろりと瞳だけ動かして、こっそりと眉をひそめた。
 仕方がない、ひとり娘の服装にあれこれケチをつけたところで、うるせえ黙れ親父と、不機嫌に一喝されておしまいだ。徐倫だけは、スタープラチナを呼び出して黙らせるわけには行かない。
 うきうきと、いかにも上機嫌に、足元は、それほど挑発的でもない、ヒールは案外と低い地味な靴だ。結局は、その靴の趣味に徐倫のすべてが現れていると思って、承太郎は出掛けてゆく徐倫の様子を窺いながら、また本に視線を戻す。
 家の前に車が止まった音がして、それからクラクションが短く鳴る。アナスイが、徐倫を迎えにやって来たのだ。
 アナスイが、ほんものの運転免許証を手に入れることができたのは、承太郎からSPWへ口利きがあったからだけれど、アナスイはそんな承太郎の態度に深く感謝を示しつつも、決して馴れ馴れしく近づいて来ようとはしない。
 賢明だ。ドアの外へ聞き耳を立てて、承太郎は思った。
 徐倫に対してあくまで紳士的に振る舞っている──徐倫と、ウェザー曰く──から、少なくとも恋人程度の立場は受け入れても、将来義理の親子になるなど、考えるだけでこめかみの辺りに痛みが走る。
 あの人、あれで案外まともよ。
 徐倫は軽く、けれど真摯な口調で言うけれど、ひとり娘に対する父親の気持ちは、徐倫にはまだ理解はできないらしい。相手がまともな男だろうと殺人鬼だろうとどこかの天才学者だろうと、承太郎の好悪の判断にはまるで関係ない。関係あるのはただ1点、徐倫を愛して、愛されようとする男は、上から下まですべて憎い、と言うことだ。
 とは言え、刑務所に入る前に付き合っていた──刑務所送りの直接の原因にもなった──男に比べれば、確かにアナスイはまともな男に見える。
 あの男に関しては、承太郎が直接殴りに行く前に、徐倫がそれを済ませてしまったから、少しばかり残念だと、今はそう思うだけだ。
 また短くクラクションが、今度は2度回数を増やして鳴る。徐倫が慌てたように、まだ未練がましく髪をいじっていた手を取め、もう1度、自分の体を足元から胸元まで眺めて、そうしてようやく、さっきから上着を手に、徐倫の支度が終わるのを待っていたウェザーの方へ、くるりと背中を向ける。
 「今日は遅くなるから。エルメェスのところで夕食は済ませて来る!」
 ウェザーに言ったのか、居間のソファに座ったままの承太郎に声を投げたのか、徐倫は上着の前を合わせながらウェザーへ伸び上がり、頬の辺りにキスをした。ウェザーも応えて、徐倫の額に、髪を乱さないように気をつけてキスを返し、そうしてやっとバタバタと、ヒールの足音が、乱暴に開けた玄関のドアを通り抜けてゆく。
 アナスイの車が去って行ってから、承太郎はほとんど内容の頭に入らない本のページを、ようやく先に繰った。
 承太郎には絶対にしない振る舞いだ。幼い頃は、承太郎が出掛けるたびに、母親──別れた、妻──に抱かれて、必死で承太郎の頬に挨拶のキスをしたものだったけれど、妻が自分からそれを避けるようになって、承太郎も元々そんなものを求める種類の男ではなく、両親の間に漂う空気を敏感に感じたのかどうか、徐倫は正しくふたりの振る舞いに倣って、いつの間にか承太郎へは近付いて来なくなった。
 ほぼ100%に近く自分が悪い、と承太郎は思う。徐倫のいる暮らしに背を向けて、ジョースターとしての意志など持たない方が絶対に幸せだと、ひとりで何もかもを背負う覚悟を決めたのは、確かに徐倫のためだった。けれど結局は、それは承太郎のエゴにしかならなかった。徐倫は自分は捨てられたのだと思い、承太郎も承太郎以外の誰もそれを訂正せずに、徐倫がひとりぼっちだったことさえ、承太郎は知らないままでいた。
 徐倫が、一時的に問題ばかりを抱え込む羽目になったにせよ、それを自分の力で切り抜けて、その過程で心強い仲間を得たことは、承太郎に親としての自信を与えてくれた。
 徐倫に見せて来たのが背中ばかりだったとしても、その承太郎の背中から、徐倫は確かに何かを学び取っていたのだし、口を開けば喧嘩になるふたりの間に、それでもきちんと親子の情のようなものは何とか健やかに育っていたのだ。
 徐倫に、ウェザーやアナスイに見せるように甘えた仕草をして欲しいとか、普通の父と娘のように振る舞ってはくれないかと思うなら、自分からそうすればいい話だと、学者らしく冷静に分析するくせに、日本人として育った大人の男の矜持がそれを邪魔する。すっかり大人になってしまった娘にわかりやすい愛情を示すやり方など、承太郎の知識の中にはないままだ。
 ウェザーは、承太郎と徐倫の間の、溝ではもうないけれど、それでもまだ消えない隔たりのようなものを埋めて、徐倫がひそかに──承太郎に──求めている父親的な何かを、承太郎の領分は決して侵さない慎重さで徐倫に差し出し、徐倫はそれを受け取る姿を承太郎に見せて、言葉にはしないメッセージを送って来る。
 それでもまだ、普通の父娘にはなれないふたりだった。
 結論は明らかな、けれどそこへ落ち着くつもりはない思考を続けるのにうんざりして、承太郎は本をぱたりと閉じ、キッチンで何かごそごそやっているウェザーの背中へ声を掛ける。
 「そろそろ出掛ける。」
 今日は大学へ行く日だ。午後いっぱい、必要なら学生の相手をして、時間があれば図書館に閉じこもるつもりだった。
 「アンタは夕飯には帰って来るんだろう。」
 こちらを向いて、ウェザーが確認する。ああ、と素っ気なく返事をして、読んでいた本はテーブルに置き、弾みをつけて立ち上がる。
 玄関のそばのクローゼットに、上着もカバンも置きっ放しだから、徐倫のように準備に時間は掛からず、カバンの中に車のキーがあることだけ確かめて、長く履き込まれてすっかり色の変わっている革靴に爪先を差し入れてから、その靴が丁寧に磨かれていることに気づいた。
 体を折り曲げたまま、丸い爪先に指先を触れ、とっくに乾いてはいるけれど、薄く塗り込まれた靴クリームの存在を感じて、承太郎は訝しげに眉の端を上げた。
 すぐ後ろに立って、承太郎のために上着を取り出しているウェザーを体越しに斜めに見上げると、
 「オレじゃない。徐倫だ。」
 ウェザーが短く、少しだけ笑みを含んで答えた。
 やっと体を起こすと、ウェザーが、さっき徐倫にしたと同じ仕草で上着を着せ掛けてくれる。素直に両腕を後ろに伸ばして、肩に乗る上着の重みの位置を整えながら、承太郎はまた自分の靴に視線を落とした。
 カバンを取り上げようとウェザーと向き合う形に肩を回すと、今度は目の前に、小さな紙袋とコーヒーの香りの立つ携帯用マグが差し出される。紙袋の中身は、きっとサンドイッチと小さなリンゴだ。
 短くぶっきらぼうに礼を言って受け取った紙袋はカバンの中にそっと押し込み、カバンを持ち上げ、両手がふさがったままのところへ、ウェザーが頬に唇を押し当てて来た。とても正しい、ひと時の別れのためのキスだった。
 あたたかな唇と、そっと触れて離れてゆく呼吸。親しみを表す、とても的確な動作。頬の産毛が、かすめて行ったような気がした。なるほど、こうやればいいのかと、承太郎は表情を変えずに、とても冷静に考えた。
 子どもの頃のホリィの挨拶は、もっとドラマティックで、困るほど愛情にあふれていた。そうか、あそこまでやる必要はないのか。それでも抱き寄せれば、徐倫は驚いてひどく怒りそうな気がする。
 まあいい。少しずつでいい。離れていた時間と同じだけゆっくりと、距離を縮めて行けばいい。
 「後で。」
 ウェザーが言った。そう言った時には、呼吸が、唇の上に掛かった。
 「後で。」
 口移しに返して、練習のつもりでウェザーの頬へ向かって唇を向け、それから、横滑りに、ただの挨拶のためにしては愛情深く、ウェザーの唇に自分の唇を重ねる。
 ふた呼吸分の後、ウェザーの方から唇が離れて、また改めて再びやって来た口づけは、少しだけ深くなっていた。 徐倫が磨いてくれた靴の爪先に、ウェザーの爪先が触れる。これは徐倫のための練習ではないと思いながら、承太郎はウェザーの唇を受け止めたまま、しばらく身じろぎもしなかった。

KISS×JOJO企画@PXV参加。
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