それから・・・



 日曜の朝早く、エルメェスを訪ねてゆく約束だったから、承太郎は人数分のコーヒーを作り、エンポリオのためにオレンジジュースを用意して、自分はすべて準備を終えてから、家中の人間を起こしにかかった。
 まずは、自分の部屋で寝ている徐倫。夕べ遅くに、アナスイと一緒に帰って来たのを知っている。多分酔っ払っていたのだろう。承太郎へお休みとは言いには来ずに、ひどく静かに玄関から入り、足音を忍ばせて2階に上がって行ったから、承太郎はわざわざ咎めもせずに、そのまま書斎で寝てしまった。
 アナスイとエンポリオは、今は承太郎のベッドで一緒に寝ている。バスルームを挟んで、徐倫の部屋と隣り同士なのが少々気になるのだけれど、エンポリオを大きなベッドにひとりで寝かせるのもどうかと、大半は承太郎の温情で、アナスイもそこに寝ることを許されている。
 ただし、徐倫の部屋に、ドアを閉めて閉じこもることは許さないと、重々ふたりに言い渡してあった。
 自分の部屋をアナスイたちに譲り渡した承太郎は、書斎に入っているソファが、広げればそこそこ大きなベッドになるので、この連中がここを仮寝の宿にしている間は、本に囲まれて寝るのも悪くはない、という態度を取り続けることになる。正直なところ、ここに閉じこもっているのは、それほど居心地が悪いわけではないのだ。
 そしてウェザーはと言えば、広くてきちんと清潔なベッドは落ち着かないと、ここへ来て以来、ずっと居間の大きなソファで寝ている。
 承太郎自身はろくに電源も入れないテレビは地下の部屋に置いてあるので、ウェザーがここに陣取っていても、大した障害にはならないのだけれど、ウェザーが寝ている時には、すぐ傍にあるキッチンは使えない、ということに落ち着いている。あるいは、使うなら、極力静かにだ。
 けれど今朝は全員を叩き起こす目的があったので、承太郎は遠慮なく足音を立てて、物音を控えようともしなかった。
 ウェザーはすぐに目は覚ましたらしく、毛布を胸までまくり下げて、腕枕で承太郎を見ている。
 シャワーを浴びるなら、早くした方がいい。じきに徐倫を起こす。
 オレはいちばん後でいい。
 すっかり身支度を整えてしまっている承太郎と、まだ半分眠っているようなウェザーと、居間とキッチンで見つめ合って、ウェザーが、いつものようにかすかに笑いかける。承太郎は、少しばかり居心地悪そうにそれを受け止めて、何も言わずにウェザーの分のコーヒーをカップに注ぐ。
 エルメェスがいた時は、承太郎の部屋を徐倫とふたりで使い、徐倫のベッドに、アナスイとエンポリオが一緒に寝ていた。アナスイとウェザーのふたりに、徐倫のベッドは小さすぎて、そのせいでウェザーが今だけということでここへ寝ることになった---承太郎は、書斎のソファベッドを譲ろうと申し出た---のだけれど、何が気に入ったのか、エルメェスが出て行って移動が可能になった後も、ずっとここに居続けている。
 アンタの背中を見てるのが、けっこう好きなんだ。
 そう率直に言われて、顔を赤くしたことを覚えている。
 ウェザーの目の前にコーヒーを残して、ひどく優しく自分に微笑みかけているその頬に、挨拶代わりのキスを落として、承太郎は2階へ上がって行った。
 「出掛けるぞ、起きろ。」
 自分の部屋をノックするというのは、やはり何だか妙な感じだ。
 エンポリオが返事をして、アナスイを起こしている気配がする。ドアを開けることはせずに、起きろ、ともう一度言って、それから徐倫の部屋へ行った。
 「徐倫、エルメェスに会いに行くぞ。起きろ。」
 こちらは手強い。夕べの様子からしても、多分まだ酒が残っているだろうし、起こすのに手間が掛かるだろうことは一目瞭然だ。案の定、何の返事もない。
 「徐倫、起きろ。」
 もう少し強くドアを叩く。返事はない。
 やれやれだぜとつぶやいてから、ゆっくりドアを開けた。すぐに中を覗き込むことはせずに、そこからまた辛抱強く声を投げる。
 「徐倫。」
 「・・・んー。」
 やっと声が届いたようだ。
 まったく、エルメェスに会いに行くと決めた張本人だと言うのに。
 承太郎はついに部屋の中へ入ると、なるべくベッドの方は見ずに、徐倫へ近づいた。
 この年頃の娘の部屋へずかずか踏み込むほど無神経ではないし、寝ているところを起こすのも苦手だ。外へ出掛ける時は、それなら全裸の方がましじゃないかと思うような格好をする徐倫も、寝る時にはきちんと肌を覆っている。それにひとまず安堵して、ベッドの端へ腰を下ろすと、寝ている徐倫の肩を揺すった。
 「起きろ徐倫。エルメェスに会いに出掛けるぞ。」
 「・・・もうちょっと・・・起きるから、もうちょっと。」
 「もうちょっとはない。起きろ。このままシャワーに連れて行くぞ。」
 「・・・えー・・・」
 スタープラチナにそうさせても良かったけれど、これは他人の女ではなくて、自分の娘だ。遠慮はいらないはずだと自分に言い聞かせて、承太郎は上掛けを剥ぎ取ると、そう宣言した通りに、徐倫をベッドから抱え上げる。
 「えッ、ちょっとナニ!」
 途端に目が覚めたらしい。承太郎に抱き上げられて、咄嗟に自分の状態がわからずに、徐倫が承太郎を押し返そうとする。徐倫も女にしては背の高い方だけれど、承太郎にかなうはずもない。
 「酒の匂いをさせて家に戻って来るな。」
 一言、短く言って、そのまま部屋を出る。徐倫はしゅんと手足を縮めて、バスルームの前でおとなしく承太郎の腕から下りた。
 「ごめんなさい。」
 素直にそう言う娘の、まだ結い上げていない頭を撫でて、バスルームの中へ押し入れた。
 水音がじきに始まったのを確かめてから、自分の部屋の方へ向き直る。
 「エンポリオ、アナスイは起きたか。」
 「今シャワー浴びてます。」
 まだ子どものエンポリオの方が、よほど扱いが楽だ。
 承太郎の部屋には、専用のバスルームがあるから、ふたりともがシャワーを浴び終わるのに、そう時間は掛からないだろう。
 わかったと、言い残してからまた下へ降りた。
 いつまでも承太郎の世話になっているわけには行かないと、エルメェスが出て行ったのは数週間前のことだ。
 数が多くはない家族のつてで、また従姉妹の嫁ぎ先の大叔父か何かの友人が、小さなレストランをやっていて手を欲しがっているとかいないとか、そんな話に飛びついて、素晴らしい滑り出しというわけもなかったろうにエルメェスは、今のところ明るいニュースばかりこちらへ伝えて来ている。
 そしてこの間、初めての給料が出たから、少し遠いけれどここに昼食でも食べに来いと、そう連絡があった。
 徐倫は大喜びで、もちろんみんなで行くと伝えた。
 そこで問題が出た。
 エルメェスの今いる街は、ここから1時間ちょっとかかるところにある。徐倫はその街の地理に詳しくはなかったし、徐倫の車のポンコツ具合が何より心配だ。
 車のことを理由にして、承太郎は、徐倫に彼女の車で出掛けることを禁じた。その代わりに、自分の車を使ってもいい、ただしその街に比較的詳しい自分も一緒に行くと、そう条件をつけて。
 まさか承太郎が一緒に来ると思っていなかったアナスイがやや不機嫌になり、そのことで徐倫と何か小さな諍いもあったようだ。夕べ酔って戻ったのは、きっとアナスイの不機嫌ををなだめるためだったのだろう。
 そんな器の小さい男はやめておけと何度言ったらと、また同じことを思うけれど、あの頑固さは自分譲りだと自覚があるだけに、承太郎は徐倫の心変わりを、ただそれが起こる---もし、起こるなら!---のを待つしかないと知っているから、口をつぐむだけだ。
 上でシャワーを使っている音が、まだ続いている。
 コーヒーでも飲むかと、やっとキッチンへ行く。
 ウェザーはまだソファに寝そべっていたけれど、承太郎を見て手を振った。テーブルのカップは、空になっていた。


 ひとりひとり、準備を終えて、居間へやって来る。ひとりひとりにコーヒーを手渡し---エンポリオにはオレンジジュースだ---て、承太郎は忍耐強く全員が揃うのを待った。
 徐倫の後にシャワーを浴びたウェザーがいちばん最後に姿を現し、さてそれでは出発と徐倫が言うのに促された形で、ぞろぞろと皆で外へ出る。
 承太郎のSUVをガレージから出して、運転席から降りて来た承太郎は、アナスイを指差して、
 「運転しろ。」
と短く言いつける。GSPがあるから、アナスイの運転でも、迷う心配はないはずだ。反論するすきを与えずに、助手席にエンポリオを坐らせ---安全のため、という理由だ---、後部座席には自分を間に、徐倫とウェザーが坐る。丁寧なことに、徐倫はエンポリオの後ろの席だ。
 徐倫とアナスイを、なるべく一緒にはさせたくないと、別に思ったわけではないけれど、アナスイにはそうとしか見えないだろう。アナスイの機嫌を損ねたところで、痛くも痒くもない。この程度の障害が乗り越えられなくて、何がお嬢さんを下さいだ、と承太郎は胸の中でまたひとり毒づいている。
 徐倫は承太郎の采配の意図を、特に気に掛けている気配もなく、バックミラーからのアナスイの視線にも気づかない様子で、高速へ乗り始めた車外の風景を、あくびを噛み殺しながら眺めていた。
 その内、また寝足りない分に耐えられなくなったのか、それともまだ半ば酔っているのか、うつらうつらと体を揺らし始める。
 承太郎の肩に当たった途端、そのままそこで動きを止めてしまった。
 首を傾けて、やや体を斜めに伸ばし、承太郎の腕を引き寄せ、抱き込んでしまう。もしかするとアナスイと間違えているのかと、そう思ったけれど徐倫を起こすことなどもちろん考えもせず、承太郎は徐倫の方へ体を近寄せて、眠りを妨げないように支えてやった。
 随分昔には、このスペースで膝枕だって無理なくできたのにと、手足の伸びた、すっかり大人になってしまった娘を、こんな時には遠慮もなく、承太郎はまじまじと見つめている。
 腿まで剥き出しの短すぎるスカートや、さらけ出した肩の腹の辺りが、自分の娘とはいえまぶしくて、いずれアナスイではなくても、誰かのところへ去ってゆくのかと思うと、ふと淋しい気分になる。
 誰に見られているとも思わずに、徐倫の髪に頬を近づけて、そっとキスをした。
 アナスイが、バックミラーの中で、目を見開いたのがちらりと見えたけれど、承太郎はそれを無視して、ただ娘の眠りを見守ることにする。
 ふと視線を感じて、徐倫を起こさないようにそっと首を回すと、ウェザーが承太郎をじっと見つめていた。
 手持ち無沙汰な腕を、胸の前で組んで、これと言って読める表情はなく、承太郎は、自分と徐倫に目を凝らしているウェザーを見つめ返して、これもまた特に表情は浮かべない。
 徐倫の方へ向き直ろうと首を動かしかけた時に、ウェザーが、承太郎の肩に頭を乗せて来た。
 一瞬、驚いて肩を動かしかけたけれど、徐倫が起きると思ったから、それを必死で止めた。
 ウェザーは承太郎の驚きには一向に頓着しない様子で、そのままそこで目を閉じる。徐倫にならって、まだ先の長いドライブを、うたた寝で過ごすと、突然決めたかのように。
 アナスイが、鏡の中でいっそう大きく目を見開いている。
 黙って運転しろ。誰にも何も言うな。起こすな。
 バックミラーに向かって、目顔でそう言うと、アナスイは慌ててそこから目をそらした。
 味方が欲しいと思ったのか、隣りのエンポリオに話しかけようと、右を向いたアナスイの動きが止まる。
 窓にわずかに映るエンポリオも、座席に小さく収まって、皆と同じように眠ってしまっているようだった。
 アナスイは、もう仕方ないと自分の立場に諦めをつけたのか、それでもまだ未練がましくちらちらと徐倫をミラー越しに眺めることはやめずに、黙って運転し続けている。
 両肩に、徐倫とウェザーを乗せて、承太郎は身じろぎもせずに、真っ直ぐに前を向いた。
 ひとの体はあたたかい。眠っていればなおさらだ。深くなる眠りにつれて、次第に重くなる徐倫の体を、今では肩だけではなく受け止めながら、その自分の動きに、素早く添ってくるウェザーを、けれど突き放すようなことはしない。
 大事な人間をふたり、自分が支えているのだと思った。
 エルメェスがいる街は、もう少し先だ。
 徐倫を起こさないように、なるべくゆっくりと体を伸ばして、皆に参加するために、承太郎も目を閉じた。ここから睨みつけられていては、アナスイもたまらないだろうと、思ったのは言い訳だったのかもしれない。
 ウェザーの頭に、自分の頭を寄せて、伸ばした指先で、そっとウェザーの膝に触れる。まるで悟ったように、ウェザーの膝が、承太郎の膝に触れてくる。
 徐倫が眠っている。エンポリオも眠っている。静かな車の中で、承太郎はウェザーの呼吸の音を聞いて、ウェザーは、承太郎の心臓の音を聞いている。
 目的地までの距離を告げる、時折聞こえる機械の声が、今はアナスイのたったひとりの友だった。



* ウェザ承メイトの某さまへ捧ぐ。


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