2人お題5@Theme


約束


 数日前から、家の中が騒がしい。週末に、徐倫とエンポリオが一緒に出掛けるからだ。アナスイも一緒にだ。
 最初はエルメェスもウェザーも一緒に行くはずだったのだけれど、新しい食堂を始めたばかりのエルメェスは結局丸1日の休みが取れず、それなら人数が合わないからと、ウェザーも一緒には行かないことにした。
 エンポリオを外に連れ出すのが目的の外出だったし、それなら動物園に行こうと決めたのは徐倫だったけれど、動物園が子どもっぽ過ぎていやだと言うわけではなく、徐倫にひどく懐いているエンポリオのために、なるべく大人の数は少ない方がいいだろうと、単純に考えた結果だった。
 徐倫と親子というのには無理はあるにせよ、アナスイの子だと言えば、3人は家族と言っても通用するかもしれない。親子水入らずと言うのはいいことだと、ウェザーは、やや的外れなことを思う。
 エンポリオが徐倫とアナスイに挟まれて、一緒に手を繋いで歩くその3人の姿は、想像するだけで微笑ましい気分になる。
 楽しい1日になればいいと、3人のために思った。
 徐倫が、どこかから集めて来た紙を、居間のコーヒーテーブルいっぱいに広げて、エンポリオとアナスイと一緒に頭を寄せて、ああでもないこうでもないと時折指先をそこへ滑らせながら、楽しそうに話をしている。
 ウェザーは、いつもは自分がいる居間のソファを3人に譲り、キッチンのカウンターにもたれ掛かって、コーヒーが出来上がるのを待っていた。
 エルメェスが一緒に行けないと言った時、徐倫はひどく残念がって、アナスイがその後ろでひそかにガッツポーズを決めたのを、ウェザーは見逃さなかった。
 別にだからというわけではなく、徐倫とふたりきりになりたがっているアナスイとエンポリオと、そういうことにはあまり深く頓着しないらしい徐倫──それを、ウェザーはとても好ましい点だと思っている──と、一緒に出掛ければ明らかに仲裁役になるか、あるいは意図せず徐倫をひとり占めする羽目になって、エンポリオとアナスイに恨まれるか、どちらかだ。
 徐倫がウェザーに懐くのは、あれは恋愛感情などではなく、単純に父親の代わりなのだと、なぜかアナスイにはわからないらしい。話せばまだそうだねとうなずくエンポリオの方がわかりがいいのは、恋する男ゆえの愚かさなのか。
 それでも、そのアナスイの愚かさも含めて、徐倫とのことを応援していないわけではなかったから、ウェザーは少しでもふたりきり──正確には、少し違う──の時間を増やそうと、一緒に出掛ける話を断った、という流れになる。
 そしてもうひとつ、別の理由がないでもなかった。
 別の理由、と思った時に、コーヒーメーカーが甲高い音を立てた。コーヒーが出来上がった合図だ。
 すでにそこに出してあったカップに、ほぼ等分のコーヒーを注ぐ。エンポリオのだけは、小さめのカップに量も半分以下だ。
 エンポリオのには砂糖を入れて甘くし、ミルクも大量に注ぐ。徐倫のにはクリームを、アナスイのにはミルクを、徐倫は砂糖を入れるけれど、アナスイは入れない。適当にスプーンでかき回して、こぼれないように用心しながら、右手にふたつ、左手にひとつ、まるで仕事に就いたばかりのウエイターよろしく、危なげな手つきで居間へ行く。
 テーブルに、それぞれの前に置かれたコーヒーに目を留めて、
 「ありがとう。」
 徐倫がにっこりと言う。つられたように、エンポリオも礼の言葉を口にする。アナスイは、あごを引くだけの簡略の仕草を見せた。
 別にそれに対して特別な感想を抱くこともなく、ウェザーはまたキッチンに戻り、今度は自分のためにコーヒーを注ぐ。そして、今、薄暗い書斎でひとりきり、また論文の締め切りに頭を抱えているこの家の主、承太郎のためにも、いれたてのコーヒーを。
 ウェザーが出掛けないことに決めた、もうひとつの別の理由だ。
 皆が出掛ければ、承太郎と気兼ねなくふたりきりになれる。なれたところで、それはただそうだと言うだけで、論文の目処が立たない限り、きっと書斎から一歩も出ては来ないだろう承太郎だったけれど、それでも、例えば徐倫の目を気にせずに承太郎の肩や腕に触れられるというのは、滅多とない機会だった。
 徐倫たちがいなければ、ひどく静かになる家の中だった。エルメェスも含めた全員を、その時だけだったとはいえ住まわせて、ひとまず収まりのついた、ひとりで暮らすには明らかに大き過ぎるこの家は、承太郎ひとりきりでは一体どんな表情──寂しいと、ウェザーはそう思う──を見せるのかと、ウェザーはひとり考える。
 そしてもっと恐ろしいことに、世界のあちこちにしょっちゅう出掛けてゆく彼が去った後に、このただっ広い家は無人になる。生活の匂いのあまりない、ほんとうに、最低限の必要だけで誰かが住んでいるという、それだけの場所に思えた。
 白い壁のせいか、やたらとまぶしい、容赦のない陽のせいか、ここはなぜか刑務所を思い出させた。
 似ているところなどあるはずもないのに、それとも、一緒にここへやって来た顔ぶれが、あの中と変わらなかったせいだったのだろうか。
 承太郎が、自ら望んで入り込んだ牢獄なのだと、思ったけれど口にしたことはない。そう的外れな感想ではないと確信があったけれど、それを聞いて承太郎がうろたえるのを見るのが、何となく怖かったからだ。
 どれほど親しくなったとしても、踏み込むべきではない領域が必ずある。そこへ踏み込みたいなら、もう少し待った方がいい。ふたりはまだ、それほどは親しくはないのだ。
 ウェザーは、承太郎のためにクリームだけ入れたコーヒーを持って、相変わらず楽しそうに話をしている3人を置いて、承太郎のいる書斎へ向かった。
 キッチンやリビングとは、小さなバスルームを隔てて在る、わりと大きな部屋だ。両開きのドアには全面にガラスがはまっていて、中が見えないように内側からカーテン状の布に覆われている。木の部分を選んで、そこをノックした。
 なんだと、素っ気ない声が聞こえる。こちらを振り向いていないのだろう、丸まった背中が、容易に想像できた。
 「コーヒーだ。」
 ドアをなるべく静かに開けて、両側の壁にずらりと並んだ本棚の間に、それでも充分な広さがある奥深い部屋のいちばん奥に、なぜか埋もれるようにして机の上に伏せている承太郎の、そこだけ白く見えるうなじの辺りに、ウェザーは意識せずに目を当てていた。
 部屋のほぼ中央、右寄りには、大きなソファがある。これは広げればベッドになる代物で、皆がここにいた時、徐倫とエルメェスに自分の部屋を提供した──ベッドが広くて、部屋には専用のバスルームがついていたから──承太郎は、ずっとここで寝ていた。
 物好きなことに、どうしても小さな部屋に入ることに気が進まず、ウェザーはずっと居間のソファで寝ていて──今も、実はそうだ──、その頃は、上で皆が寝静まった後に、承太郎のいたこの書斎にそっと忍び込んだことも何度かあった。
 そんなことを、何となく懐かしく思い出して、ソファを右手に見ながら、自分の方へはわざわざ振り向いたりしない承太郎の背中へ向かってゆく。
 右利きの承太郎のために、広い机の左側、散らばった紙や本の隙間をやっと見つけ、そこに静かにコーヒーのカップを置く。
 アナスイは、少なくともウェザーと目を合わせて礼の仕草を見せたけれど、承太郎はそれもない。親しい人間には、ことさら素っ気ない態度を取る男なのだとわかっているから、それに心が揺れることもない。
 「ずいぶんと騒がしいな。」
 何やら書き物の手元に目を伏せたまま、ぼそりと承太郎が言う。
 ウェザーは、背の高い椅子のそこへ腕を乗せ、今は承太郎の右側に立っている。
 「動物園行きの、最後の詰めだ。うるさければ静かにするように言おう。」
 承太郎の、こんなときの許容量のなさを咎めるような口調は出さず、何しろ居候の身だから、家主のために働くことなど厭うはずもないという態度で、ウェザーは平たく応えた。
 「いや、別にうるさいわけじゃない。」
 ウェザーが置いたコーヒーに手を添え、まだすぐ飲むわけではないけれど、承太郎のその仕草が、コーヒーに対する感謝を表している。ウェザーはそれに気づいて、ちょっと薄く笑った。
 承太郎はそれ以上何も言わず、それを正しく引き上げる潮時と悟って、ウェザーは名残り惜しげに椅子の背を撫でて──撫でたかったのは、そこではなかったけれど──から、立ち去るために足を後ろに引いた。
 ウェザーが、完全に椅子から離れて肩を回しかけた時に、承太郎が不意に丸まっていた背を伸ばし、ペンを握っていた右手を、机の外に投げ出した。
 「出掛けるのは、日曜だったか。」
 ウェザーはちょっと驚いて足を止め、またちゃんと承太郎の方へ体を回した。
 「ああ、そうだ。」
 数拍間があって、それから、椅子の背にさらに体重を掛けた承太郎の足元近くで、椅子がぎいっと音を立てた。
 「・・・頼みがある。」
 言いながら、ペンを持ったままの右手が、ウェザーのいる方へ伸びて来る。
 「なんだ。」
 こんな態度は珍しいから、だからこそ大袈裟にしたくなくて、語尾を引き上げるのをやめた。軽く聞き返しているだけだと、そう思いながら、その、自分へ向かって伸ばされた右手に、そっと左手を伸ばしてゆく。
 手の甲に指先を滑らせて、手首へ向かった。そうして、ペンを握った指を開かせながら、ペンを間に挟んだまま、掌が重なった。
 「出掛ける日は、晴れにして欲しい。」
 承太郎の左手が、気配もなく動いて、ふたり分の体温にぬくもって湿り始めたペンをそっと引き抜く。紙の上にペンを放って、どこか淋しげな、あるいは照れくさいような、何とも言えない横顔を見せて、承太郎は言葉の代わりに、ウェザーの手を少し強く握る。
 「ああ、そうしよう。」
 隔てのなくなった掌が、静かなふたりの振る舞いには似合わず、そこだけ深い情熱を表している。そのことに、ウェザーは浮き立つ心を抑えながら、あくまで平たい声で言った。
 「どうせ、最初からそのつもりだった。」
 3人が、まるで親子のように出掛けるその日には、澄み切った青い空があるべきだと、ウェザーは当然のように考えていたし、承太郎もまた同じことを思っていたのだと気づいて、またひとつ、ふたりを隔てていた薄い壁が壊れてしまったような、そんな気がした。
 そうか、とウェザーに向かってあごを持ち上げながら承太郎が言う。
 ああそうだ、と言いながら、顔を近づけた。
 子どもじみた、触れて重なるだけの口づけだった。それ以上のことは、今は少し無理だったから、唇の代わりに、まだしっかりと握り合ったままの掌を、いっそう強く握りしめる。
 壁の向こうから、ひときわ高い徐倫の笑い声が聞こえたけれど、ふたりはまだそのまま、しばらく動かずにいた。


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