2人お題5@Theme


自分以外


 何と大袈裟にすることはないけれど、ふたりきりでいる時には、始終体のどこかに触れている手がある。
 キッチンでコーヒーを注いでいれば、そうしている腰に腕が回り、書斎で書き物をしていれば、肩に手が乗り、頬の辺りに呼吸が近づいて来る。
 そのどれもが、ただ触れたくて触れているというだけで、それ以上何をすることもなく、せいぜいが頬に唇を押し当てる程度のことだった。それすら、承太郎がやめろという素振りを見せれば、触れている手もすぐに遠ざかる。
 やめろと肩を振ったのは、触れられるのがいやだったわけではなく、そうされることにただ慣れていないだけだった。
 ひとりで暮らして、あまり他人と密に接することがなかったから、常に誰かがそばにいることや、家に帰れば誰かが迎えてくれるということに、承太郎は今もまだ慣れ切らない。それでも、黙っていてもいれたばかりのコーヒーを差し出されることが増えると、次第にそれに心が慣れて来る。それはそういうものだと、驚くほどなめらかに受け入れている自分に気づいたのは、腰や肩に回る掌のあたたかさに、膚が馴染んでしまった頃だった。
 躯の馴染んだ誰かと一緒にいるというのは、こういうことだったかと懐かしく──おぼろに──思い出しながら、今ではそれを拒む気は起こらず、それは自分が年を取ったということなのか、それともこの男──ウェザー・リポートと言う、奇妙な名前だ──だからなのか、見極めたいと思いながら、悟ってしまえば自分の弱みに気づいてしまうような気がして、承太郎はずっとそこから目をそらし続けている。
 よくはわからない。出会った瞬間に、以前からこの男を知っていたような気がして、紫色の影の走るその茶色の瞳にも、同じ表情が浮かんだのがはっきりと見えた。なぜそんなことがわかるのかと、初対面だと言うのにひそかに面食らって、ふたりきりになった瞬間に、互いの腕が互いに伸びていた。
 一目で始まる恋があると、現実に知ってはいたけれど、そんなことは二度と起こらないと、思い込んでいた。
 長い長い間、誰の指先にも触れさせなかった心の内側に、ウェザーがするりと入り込んで来る。何のためらいもなく、まるでそれは、ふたりが生まれる前から決まっていたことなのだと、ふたりの頭の片隅に刻み込まれていた約束のように、伸びた腕は背中と腰に回り、さすがに唇へ行き着く前に、承太郎は思わずウェザーの肩から後ろを窺った。
 自分に向かって伸びた体、肩と腰と背中と、それを全部抱きしめて、自分の腕の中にちょうどよく収まったその体の重みを、なぜか懐かしいと感じた。
 今もちょうど、コーヒーのマグを片手に、キッチンのカウンターで新聞を読んでいる承太郎の後ろをわざわざ通って、ウェザーが背中に掌を当てて来る。
 大きな、思ったよりも厚みのある手だ。長い刑務所暮らしの中での強制労働のせいかどうか、掌の皮膚はいつもざらついている。乾いた感触のその掌が、自分の素肌を滑る時にはいつも声を殺すのに必死になるのだとは、まだ伝えることはしない。
 心のどこかで、勝ち負けのような感覚があって、心の内側を明け渡した後も、何もかもをさらけ出してしまうのはまだプライドが邪魔をする。それを下らないと思う自分と、そこを譲るにはまだ時間が足りないと思う自分がいる。せめぎ合っているのは、自分と誰かではなくて、自分と自分の内側だ。
 背中に置いた手はそのまま、ウェザーが冷蔵庫を開けている。承太郎に片手を預け、もう一方の手だけであれこれするのが、特に面倒ではないらしい。律儀なことだと、それもまた恋ゆえの愚かしさだということには知らん振りをして──気づけば、そうさせる当事者が自分だと気づいていしまうから──、ウェザーの方は振り向かずに、承太郎は唇の端をかすかに持ち上げた。
 「芝生に、そろそろ雨が欲しいな。」
 新聞に目を落したまま、どうやらコーヒーをついでいるらしいウェザーに、承太郎は声を掛けた。
 「どのくらいだ。」
 言いながら、牛乳のカートンを扱うのに両手が必要だったのか、ウェザーの手が背中から離れた。ウェザーの声を聞きながら、承太郎は思わず手の行方を追って、軽く背中を起こした。
 「1、2時間、土砂降りがあれば充分だろう。ラッシュの時間を避けた方がいい。」
 「だったら明日の朝方にすればいい。」
 冷蔵庫が閉まる音がした。
 やっとウェザーの方を向くと、ウェザーはもうそのままキッチンを去り始めていて、承太郎は新聞から目を離し、目の前のリビングへ足を運ぶウェザーの背中を視線で追った。
 途中で立ち止まって、そこから裏庭を眺め、
 「そろそろ、また芝生を刈る頃だな。」
 「徐倫にやらせるからいい。」
 素っ気なく承太郎は言った。自分の方へ肩から振り向いたウェザーと視線を合わせるのを避けるために、ずっと新聞を読んでいた振りをする。
 「徐倫に言うと、アナスイに回る。」
 ウェザーが、表情は変えないけれど、おかしそうに言う。案の定承太郎は、片方の眉の端をぴくりと反応させて、少し不機嫌に声を低めた。
 「誰がやろうとおれは構わん。徐倫があの男をよこしたいならそうすればいい。」
 徐倫のこととなると少し丸さを帯びる声が、アナスイと聞いた途端に尖る。反対する理由しか思いつけないとは言え、アナスイに対する承太郎の態度は、主にはひとり娘の徐倫に対する父親らしい反応だ。そんな、素を剥き出しにした態度を、もうウェザーには隠さないということに、承太郎本人は気づいていない。
 徐倫が押し続ければ、いつかは好きにしろというに決まっていると予感していながら、ウェザーは徐倫とアナスイのことには一切口出しせずに、承太郎の心が少しずつ変わってゆく様を、こんな距離で眺めている。
 徐倫とアナスイが許されれば、自分たちも許されるに違いないと、そう思っている自分のずるさを知っているから、ウェザーはその時が来るのを辛抱強く待っている。
 待つのには慣れていた。長い長い間、何が起こるとも知れずに、あの中でずっと待ち続けていた頃に比べれば、少なくとも今は、待っているその何かが明確だったし、待てば得られるだろう何かが、目の前にはっきりと在る。
 大量の人間が詰め込まれていたあそこでは、選んで孤独の鎧をまとっていたのに、今ではその孤独の感触を思い出せない。自分以外の人間をほとんど意識せずに、ただ自分の周りに流れる空気の動きだけを感じて、その中に時間の流れも混じっているのだと言うことすら、ずっと無視し続けていた。
 それが破れ、自由を再び得て、世界という場所に自分がきちんと含まれているのだと、改めて思い出していた。
 思い出して、体が馴染むのに時間が掛かる。ここは外の世界だ。ウェザーが元いた世界だ。呼吸をすることを許され、誰かと言葉を交わすことを許され、そして、誰かと繋がることを許されている世界だ。
 失われた時間を惜しむように、ウェザーは今、承太郎と繋がっていることだけを望んでいる。
 掛ける言葉でもいい、同じ部屋にいることでもいい、同じポットからコーヒーを飲むことすら、ウェザーには充分に意味深かった。そうして、手が届くならどんな時も、承太郎に触れていたかった。
 誰も見ていない時に限ってと、そう心にとめておかなければならないから、ふとふたりきりになった時には、考えるより先に手が伸びる。伸びて、触れる。触れてももう逃げない承太郎の肩や背に、いつも安堵する。
 ここにいるのは、自分だけではない。ここにいるのは、触れたいと思っている誰かだ。承太郎を見る時に、ここがあの閉じ込められた刑務所の中ではないのだと、ウェザーはいつも改めて思い知る。
 承太郎と、ここに一緒にいるのだと、そう思いながらやっとソファに腰を下ろした。
 ウェザーがTVガイドを読み始めたのを見て、2階に行こうかどうかと、承太郎はしばらく悩んだ。読みかけの本が、自分のベッドの傍に置いたままだ。あれを取って来ようと思いながら、なぜかまだここを離れる気にならず、ちらちらと上目にウェザーを見ている。
 今夜もまた、あのベッドにふたりで寝るのかと、夕べのことを思い出しながら考えた。いずれは、そうすることが当たり前になるのかと、例えば朝方の雨に目を覚まして、また肩を寄せ合って一緒に眠りに落ちる自分たちのことを想像する。それを今では、罪悪感もなく思い浮かべられることに、承太郎はもう驚かない。
 徐倫にどう伝えるべき──あるいは、隠し続けるべき──か、先の心配はそれだけだ。
 やっと決心がついて、承太郎は2階に本を取りに行くために、カウンターの上の新聞を軽くたたんだ。
 ベッドに寝転がって読んでもよかったけれど、あまり深く考えずに、ウェザーと一緒にいればいいと思って、コーヒーのマグを手にソファの方へゆく。
 目の前のコーヒーテーブルに承太郎がマグを置いたのを、ウェザーが少し不思議そうに見た。
 「上から本を取って来る。」
 言葉短に言った承太郎にうなずいて、またTVガイドに目を戻す。
 承太郎は、そこからわざわざソファの後ろへ歩いて行った。
 2階に行くなら、階段は逆の方だ。ウェザーが、自分の足音の気配を追って頭を回すのに、承太郎は空気を撫でるように手を動かして、ソファの背から、さり気なくウェザーの首筋へ指先を触れた。
 承太郎がそんな風にウェザーに触れることは滅多とないから、驚いて、自分の後ろへ立った承太郎へ向かって、斜めにあごを突き上げる。そのあごを片手でつかんで、承太郎が体を前に倒した。
 ソファの背を間に置いて、不自然な姿勢で重ねた唇が、けれど離れがたくて、思わず手に力がこもる。
 ウェザーは、承太郎の気まぐれにひどく驚いた後で、頬に熱が上がるのを、頭の中で数を数えて鎮めようとした。
 「本を取って来る。」
 まだほとんど呼吸の重なる近さのまま、承太郎はもう1度言った。
 ああとウェザーが応えたけれど、また体の位置はそのまま、承太郎はまた唇を触れさせた。
 自分から触れれば、もう止められなくなる。ソファでふざけ合うような歳でもない。思うより先に、体が動いた。
 ソファの背を滑って、ウェザーの膝の上に体を落してゆく。跳ね飛ばされたTVガイドが床に落ちて、けれどそんなことには注意も払わず、ふたりはソファの上で突然重なった体を、きちんと抱き合うために互いの両腕の中に収めようとした。
 上に重なって来るウェザーを自分から引き寄せて、少しじたばたともがいた時に床に伸びた爪先が、そこにあるコーヒーテーブルを蹴った。上に乗ったマグが揺れて音を立て、その乱れた音が、まるで今の自分そっくりだと、心の隅で自嘲が湧く。
 乱れることを自分に許してもいいのだと、そう気づいた嬉しさを伝えるために、承太郎はウェザーの首に両手を添えて、そこから白い帽子の中に指先を差し入れた。柔らかい真っ直ぐな髪の感触に、口づけを深くしながら目を細めた。ウェザーに向かって微笑んでいることに、承太郎は気づいていなかった。


* 2009/7/11 ウェザ承絵チャにて即興。

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