向かい合えば
エルメェスが、腕をふるって皆にご馳走すると言って、今日は朝からその準備でキッチンは大わらわだった。エンポリオの胴体くらいありそうな、巨大な牛肉の塊まりが、きっちりと糸を掛けられ縛られ、あれこれの野菜や香辛料と一緒に薄手の深鍋にきっちりと閉じ込められて、オーブンの中に放り込まれた。
ガーリックの匂いのするマッシュポテト、淡色野菜のサラダに、熟れたトマトが強烈な赤を添え、手で砕いたフェタチーズがたっぷりとふりまかれている。ドレッシングは香りの良い赤ワイン酢を混ぜた、エルメェス──恐らく、殺されたという姉直伝──の手製だ。
普段から酒を飲む習慣はないし、17ですでにうわばみに近かった古い話などおくびにも出さず、承太郎は酒を振る舞わない方針であることを、この計画の最初に言い渡していたから、豪華な晩餐はただの水のグラスで始まり、徐倫とエンポリオをふたりとも未成年とみなして、彼らの前にだけはコーラが置かれた。
アナスイとエルメェスはビールを恋しがっていたのを知っていたけれど、承太郎はそれも聞こえない振りをした。子どもの前──エンポリオと徐倫の、両方だ──で大人が酒を飲む姿を見せるべきでないという、特に普段口にするわけでもない考えがあって、説明する気もないから、この家には酒を持ち込むなとだけ言ってある。
刑務所の中で、一体どんなものを食べていたのか、想像するだけで寒気がするけれど、その鬱憤を晴らすようにエルメェスが丹精込めた料理が、皆の目の前で味わわれるのを待っている。
どれも単純な、だからこそいくらでも手を掛けられる家庭料理だ。ひとり暮らしの方が長い承太郎は、いかにもアメリカ式の、特別な日のための料理が久しぶりで物珍しく、そしてこんな人数でテーブルを囲むことなど滅多とないから、エルメェスがいやがらないなら、家族というものにまだ深い縁がないというエンポリオのためにも、こんな大掛かりな夕食が定期的にあってもいいかもしれないと、フォークに手を伸ばしながらひそかに思う。
この、一応は7、8人が坐れる大きな食卓も、一応家に必ずあるべきものとして置きはしたけれど、食事に使われることなどあった試しはなく、書斎に閉じこもるのにうんざりした──たまに起こる──時に、気分転換に本や資料を山ほど広げるならここがちょうどいいと、第二の書斎として使われるのがせいぜいだ。
今日は、これのために徐倫がどこからか見つけて引っ張り出してきた、いかにも重たげなテーブルクロスを掛けられ、やっと本来の目的のために使われて、テーブルも、何か満足そうに見える。どっしりと曲線を描く脚が、いかにも家庭という場所に相応しく、この夕食に集まった人間たちを、擬似家族として歓迎しているようにも見えた。
楕円のテーブルの、右端にはエルメェスが、いつでもキッチンへ立てるように坐り、長いゆるやかな曲線の片方には、徐倫が、エンポリオをエルメェスとの間に挟んで坐っている。左端にはアナスイが、徐倫の隣りと言えば言えるけれど、同時に承太郎の隣りでもある位置に、極めて居心地悪そうに坐っている。主に徐倫の方へ向いて、時々ちらちらと承太郎の方を窺う気配が見えた。音を立てないようにしようと努力しているのが、ナイフとフォークを扱う手つきに現れていて、意外と行儀の良い様に、承太郎は羽ほど軽い安堵を覚えている。
承太郎とエルメェスの間に、やや承太郎寄りに、ウェザーがいる。これも静かに、ゆっくりと口に入る料理を味わっているのに、承太郎はうっかり好感を抱いた。
話だけは聞く姉の躾のおかげかどうか、エルメェスの食事の仕草がいちばん美しく、料理に心を込める分、食べることを楽しむ姿勢も身についているように見えた。
承太郎の正面にいる徐倫と言えば、マナーについては父親──特に、日本で育った半分日本人として──としていろいろ口出ししたいところはあったけれど、いかにもこの晩餐と、料理そのものに敬意を払って喜んでいるように見えたから、ナイフを持つ手が危なっかしいとか、皿の上でフォークを滑らせる動きが子どもっぽいとか、そういう点には、今夜は目をつぶることにする。
徐倫の食事の仕方を見て、アナスイが幻滅するのではないかと、うっすらと期待しているということには気づかない振りをして、承太郎は良い香りのする肉汁を、小さく切った肉片の端につけて口に運ぶ。
「もう少しポテト取る? 大丈夫? ナイフ気をつけてね。」
自分のことを棚上げして──と、承太郎は思った──、徐倫がエンポリオの世話を焼く。エンポリオの膝の上にナプキンを広げてやったのも徐倫だ。
エンポリオは、いかにも慣れてない風に、柄に彫刻の入った重いフォークを、年齢よりも明らかに幼いテーブルマナーで扱いながら、とりあえず食事を摂るということには成功している。口元とあごに、肉の小さなかけらとマッシュポテトがついているのも、みっともないと言うよりも可愛らしく見える。
「もっとグレイビー(肉汁)いるか?」
今度はエルメェスがエンポリオに訊く。徐倫が、エンポリオの皿を、持っているフォークの先で示すのに、承太郎はうっかり顔をしかめ、きちんとフォークを置いてエンポリオに向かってグレイビーボウルを指差すエルメェスが、承太郎の表情に気づいて、同意のつもりか、小さい苦笑をこちらに送って来た。
母親がふたりいるようなものだ。とは言え、エンポリオだけではなく、徐倫もエルメェスにテーブルマナーを習った方がいいかもしれない。
エンポリオばかりに話しかけて、自分の方を向きもしない徐倫に、アナスイが少し面白くないらしい。まだ山ほど残っているポテトのそばに、これもたっぷりと残っているサラダに胡椒が欲しいと、腕を伸ばしながら徐倫に言う。
胡椒と塩入れは、エルメェスとウェザーの目の前だ。
「こしょう?」
徐倫が言った瞬間に、ウェザーがそれを取り上げ、承太郎に渡して来た。
自分の目の前に腕を渡さないウェザーの気遣いを意外に思いながら、もしかしてこれはある種のアナスイに対する嫌味だろうかと、受け取った胡椒を、きちんとアナスイの方を向いて差し出した。
あるいは、ウェザーなりに、徐倫のために承太郎とアナスイを仲良くさせようとしているのかもしれない。有り得なくはないけれど、非常に無駄なことだと、学者らしい冷淡さで、頭の中で考える。
アナスイははっきりと肩を後ろに引いて、承太郎が差し出した胡椒入れを受け取る指先が震えている。とりあえず、その前にきちんとフォークを置いたことは評価して、承太郎は再び、アナスイが視界に入らない位置に自分の頭の向きを戻す。
気の毒に、せっかくの晩餐も、きっと味気ないことだろう。半分以上の皮肉を込めて、アナスイのために、承太郎は思った。
皿に乗せられた大きな肉片をうまく切れずに苦戦しているエンポリオを見かねて、まずは徐倫が手を出そうとした。
「アタシがやるよ。」
正しく徐倫のテーブルマナーの質を理解しているエルメェスが、先にエンポリオから皿を取り上げようとする。徐倫がそれにちょっとむっとしかけて、承太郎が徐倫に一言言おうとした時、その皿を、ウェザーがさらにエルメェスから取り上げた。
「オレがやる。キミらは自分の食事を先に楽しむといい。」
争って自分の面倒を見たがる女ふたりに、ありがたがりながらエンポリオも少し困惑していたらしく、ウェザーが自分の皿を手にしたことに安堵したように見えた。
「ちぇ。」
エルメェスが、気まずさをごまかすように、おどけた調子で舌を打つ。
「せっかく美味い料理だ、落ち着いて楽しんだ方がいい。フォークで後ろから刺される心配もない。」
自分の皿を承太郎の方へ寄せて、エンポリオの肉を、ウェザーが小さく切り分け始めながら言う。
「ほんとだわ、こんなに美味しいのは久しぶり。」
エンポリオの方へ顔を寄せて徐倫が言った。エルメェスが、少し得意そうに、少し照れ臭そうに、微笑んで肩をすくめた。
「プラスチックじゃないちゃんとした食器だからだろ。」
照れ隠しか、ちょっと語尾を蓮っ葉に投げ捨てて、エルメェスが行儀悪くフォークの先をがちがち噛んで見せる。
不思議だ、と承太郎は思う。
今この場で血の繋がりがあるのは承太郎と徐倫だけで、それさえ、一緒に暮らした時間は数えられるほどもない。ただ偶然寄り集まっただけの他人が、テーブルを囲んで、一緒に食事を楽しんでいる。団欒という、あまり縁のなかった状況の中に、自分が今身を置いていることを、承太郎はしみじみと不思議だと思う。
エンポリオの世話を焼く徐倫を見て、自分も同じように、上手く指も使えない徐倫に食事を与えたことを思い出す。どれほど徐倫が汚れようと自分を汚そうと、まったく腹が立たなかった。何もかもがただひたすらに微笑ましくて、自分の与える離乳食を、徐倫がうれしそうに食べるのが、心の底からうれしかった。
そんなことを覚えているはずもない徐倫が、承太郎がやったと同じことを、そのまま繰り返している。血の繋がりと時間の繋がりを、不意に思い知って、含まれている世界の中に、誰もが一緒にいるのだと、承太郎はそっと徐倫の方を窺った。
エンポリオはウェザーから皿を取り戻して、また胸の辺りを汚しながら、順調に皿を空にしている。徐倫とエルメェスは相変わらずエンポリオの方を心配しながら、今はそれなりに自分たちの皿に集中している。
皿をする鋭い金属の音も、穏やかになごめられて、徐倫にポテトのお代わりをやっと取ってもらえたアナスイも、今はすっかり機嫌を治しているようだ。
サラダをもう少し、と思った時に、ウェザーが言った。
「こしょうを取ってくれ。」
ナイフを持ったままの手で、指先がテーブルのあちら側を小さく指差す。アナスイの前にある胡椒入れを、承太郎は腕を伸ばして取り上げた。
左手で取った胡椒入れに、ナイフを置いて、ウェザーも左手を伸ばして来る。小さな胡椒入れに、大きな手がふたつ触れ、ごく自然に指先が、胡椒入れを取り落とさないようにと注意しているのだという仕草で、数瞬触れ合った。
きっとわざとだろうと思ったのは、そうしながら、ウェザーがテーブルの下で、承太郎の膝に自分の膝を触れ合わせたからだ。
胡椒入れがウェザーの手に渡った後も、膝先はそのまま離れなかった。
自分の皿に向き直る。
徐倫とエンポリオとエルメェスが、楽しそうに話している。アナスイが、時々口を挟む。ウェザーの膝があたたかい。承太郎は、きちんと会話に耳を傾けて、けれど黙って食事を続ける。
徐倫が、食事中にどんな話をするのか、承太郎は知らなかった。どんな風にものを食べ、どんなものを好み、何が嫌いなのか、知らないままだった。
承太郎が与えられなかった家族というものを、徐倫は自力で得ている。そして承太郎に、家族団欒を与えてくれている。
どちらが親か分からないと、承太郎は思う。
今ではもう、家族とは徐倫のことだけではなく、承太郎のことだけでもない。徐倫が与えてくれた、何かとてもあたたかくて大きなものに、承太郎は感動すら覚えて、それに敬意を表すために、目の前の皿をきれいに空にした。
向かいにいる徐倫に視線を置いて、それから、隣りにいるウェザーをちらりと見る。
承太郎より少し遅れて皿をきれいにしたウェザーが、ナプキンで口元を拭いた後で、いかにも満足したという風に椅子の中で体を伸ばして、さり気なく手をそのままテーブルの下へ置く。その手に自分の指先を近づけたのは、承太郎の方だった。
ふたりで一緒に、向かい側を見る羽目になる。ウェザーはきっとまだ一生懸命食べているエンポリオを眺めて、承太郎はコーラを飲み干そうとしている徐倫を見ている。
デザートはアップルパイにアイスクリームだと、エルメェスが言った。
早く皿を空にしようと、エンポリオがフォークを急いで動かし始めたのに、ウェザーと承太郎はふたりで一緒に同時に笑う。顔を見合わせて微笑み合う間、誰にも知らせずに、膝と手を、いっそう近く触れ合わせた。
大きなテーブルの下で、ささやかに行われている、小さな家族団欒だった。