2人お題5@Theme

無言の空間

 家の外に車が停まって、その後しばらくの間があった。
 車から音はせず、別れる前のひと時、離れてしまうことを惜しんで、恋人たちが車の中で短く、けれど情熱的に抱擁を交わすのはよくあることで、近所にお節介焼きがいれば警察を呼ばれることもないではなかったけれど、この家には、警察のパトロールよりもさらに厄介な人物がいる。
 ウェザーが、外の様子を窺いに玄関へ行ってみようかと思った時に、静かな、けれど小走りの足音が階段を下りて来て、ちらりと居間のソファでTVガイドを読んでいるウェザーへ視線をよこしてから、大きな背中を壁の向こうに消した。
 こちらへ漏れて来る明かりから、玄関の照明をつけたのだと知れた直後に、ドアがやや大きな音を立てて開いた気配が伝わって来た。
 娘が恋人と出掛けて戻って来たのを、娘の父親が玄関で迎える。どこの家にでもある、金曜の夜の風景だ。けれど、普通の家庭でさえ、ひとり娘の恋人の振る舞いに父親はただでさえ心穏やかではないものだし、この父親は、よりによって空条承太郎と言う、アナスイには非常に厄介な存在であるところの人物だ。
 玄関先で素手の殴り合いかスタンド合戦が始まる前に、とりあえず徐倫を救い出しに行こうと、ウェザーは薄い雑誌をソファに投げて立ち上がった。
 玄関へ行くと、アナスイが徐倫を抱えて視線をあちこちにさまよわせているのが承太郎の肩越しに見え、そのさまよう視線をたまたまウェザーが拾った瞬間、アナスイの瞳が明らかに助かったと言う風に、すがるようにウェザーをとらえる。
 ウェザーは、いつものように足音をさせずに、承太郎の背後へ近づいた。
 アナスイに抱えられている徐倫は明らかに酔っていて、アナスイはどうやら素面のようだったけれど、徐倫の腰に回ったアナスイの腕と、アナスイの首に回った徐倫の右腕を、承太郎がねめつけている。
 未来の義父──アナスイの、儚いように思える望みだ──の不興を買ったのはこれが初めてではないにせよ、承太郎がまだアナスイを1発も殴っていない──驚いたことに、いまだそうしたことがない──ことに、ウェザーは無表情に驚いている。
 徐倫は確かまだ20になっていなかったはずだがと、ウェザーは思いながら、これが他の女の子ならともかく、よりによって徐倫を酔わせて連れ帰るというのは、命知らずもいいところだと警告しておこうと、アナスイへ向かってさらに1歩近づいた。
 アナスイをにらむ承太郎の斜め後ろから両腕を差し出す格好に、ウェザーはふたりには声も掛けずに、アナスイに寄り掛かっている徐倫を自分の方へ引き寄せる。くたりと自分の方へ倒れ込んで来る徐倫を、軽々と両腕に抱き取ってそのまま抱き上げて、それをアナスイと思ったのか、徐倫が素直にウェザーの首に腕を回して来て、
 「・・・アナスイ・・・。」
 首筋にかかる息がなまあたたかい。けれどその場の空気は、その瞬間冷え凍った。
 ウェザーに抱え上げられた徐倫に向かってうっかり口元をゆるめたアナスイを、承太郎がさらににらみつける。片手を腰に当てて、その背後に確かに暗雲がたち込める。
 やれやれだと、徐倫と承太郎の口癖を心の中でつぶやいてから、ウェザーはアナスイに向かって助けの言葉を投げた。
 「アナスイ、おまえは飲んでないんだろう?」
 バネの強すぎるおもちゃのように、アナスイが何度も深くうなずく。
 「何を飲ませた?」
 承太郎が、その時初めて口を開く。声で人を殺せるなら、アナスイは即死だろうとウェザーは思う。
 「・・・ワインを3杯。」
 ウェザーと承太郎は、アナスイの言葉を一緒に吟味するように、無言で視線を交わし合った。ウソではないようだと、ウェザーが目配せしてうなずき、承太郎がそれにかすかにうなずき返して、やっと無罪放免の許しが出る。
 「おまえは気をつけて帰れよ。」
 ウェザーは、アナスイの後ろの、開きっ放しのドアを軽くあごでしゃくって示した。
 五体満足でこの場を離れられるありがたさと、徐倫への名残惜しさの両方で、アナスイはドアへ半分だけ体を向け、その肩をもう遠慮もせずに押す承太郎は、相変わらず一言も発さずに、
 「お休み徐倫! 承太郎さんお休みな──」
アナスイに最後まで言わせずにさっさとドアを閉めると、大きな音を立てて鍵を閉めた。
 まだドアの向こうに佇んで、今夜の徐倫とのデートを反芻しているらしいアナスイにさらに冷水を浴びせ掛けるように、承太郎はさらにさっさと玄関の内と外の明かりを全部消した。
 「・・・コーヒー飲みたい。」
 アナスイの退場で空気がやや穏やかになったところで、徐倫が酔った声でつぶやく。
 「おれが淹れる。」
 間髪入れずに、薄暗い玄関で承太郎が言った。
 ウェザーのそばをすり抜け、承太郎はひとり先にキッチンへ向かう。
 ウェザーはその後を追って居間へ戻り、さっき坐っていたソファに、そっと徐倫を下ろした。
 徐倫の腕はウェザーの首からまだ離れず、酔っ払いに何を言っても無駄なので、黙ったままそっと腕をほどく。
 あちこち素肌が剥き出しの服──目のやり場に困りそうな、短いスカート──をやっと覆う裾の長い上着を、今ここで脱がそうかどうか迷って、ウェザーは、コーヒーメーカーの傍にいる承太郎の背中に、ちらりと目をやった。
 キッチンと居間の仕切りの役目を果たす幅の狭いカウンターの向こうに見える大きな背中が、こちらへは向かないまま、耳だけで音と気配を追っていると知っているから、ウェザーは父娘の関係に敬意を払って、上着の前をなるべくきちんと合わせただけで、それ以上は触れないことに決める。
 徐倫の腕はまだウェザーに伸びていて、アナスイと間違えているのかどうか、邪険に振り払うのも気が進まず、結局徐倫の隣りに腰を下ろし、スカートの裾に気をつけてやりながら、徐倫が自分の膝に頭を乗せて来るのに、少しの間腕のやり場に戸惑った。
 「徐倫?」
 承太郎の背中を気にしながら小さく声を掛けると、徐倫はなぜかにっこりと微笑んで、いっそう頭の位置をウェザーの膝に馴染ませて、そのまま目を閉じてしまった。
 「・・・ウェザー?」
 ちゃんと声は聞き分けているのだ。床にだらりと腕を伸ばし、甘えるように肩を縮ませて、徐倫はもう1度目を閉じたままにっこりと微笑む。
 「酔ってるな。」
 「アナスイは?」
 「もう帰った。ここはキミの家だ。」
 「父さん、どこ?」
 酔った声は、もう眠りに落ちる寸前に聞こえる。
 ウェザーにだけ聞こえた声だと思ったのに、くるりとキッチンから振り向いた承太郎が、
 「コーヒーを淹れてる最中だ。」
 まるで徐倫とウェザーの間に割り込むように、少し大きな声を投げて来た。
 「・・・父さん。」
 また徐倫の口元に微笑みが浮かぶ。
 それを見た承太郎は、ウェザーにもはっきりわかるほど照れた表情を一瞬だけ浮かべ、またくるりとコーヒーメーカーの方へ向き直ってしまった。
 徐倫に膝枕をし、薄い肩に手を置いて、ウェザーは徐倫のためにコーヒーを淹れる承太郎を眺めている。
 膝にかかる息がゆっくりと間遠になり、承太郎がコーヒーのマグを抱えてこちらへやって来た時には、ウェザーの膝で徐倫はすっかり眠ってしまっていた。
 承太郎の視線が、徐倫からウェザーへ動く。その目の色に、かすかに混じる嫉妬の気配が、一体どちらに向けたものかと迷ってから、ウェザーは自分が自惚れていることを、不思議にも思わない。
 寝ているだろうけれど、徐倫の前では一応の遠慮をして、コーヒーを持ったまま自分たちふたりを見下ろしている承太郎に向かって、にこりともせずに口を開く。
 「徐倫にとっては、オレは安全な男だからな。」
 いつもの、ただ事実を述べているだけという平たい口調で、安全という言葉に、何もかもを込めて言う。
 徐倫を大事に思ってはいても、それはアナスイのようにではないし、むしろ承太郎の、徐倫に対する気持ちに近く、承太郎がいるからこそ、ウェザーにとって徐倫は、ただひたすらにいとおしい、肉親のように親(ちか)しい存在だった。
 こうやって、徐倫があからさまに自分に甘えるからと言って、父親である──離婚して、ろくに徐倫と一緒に暮らしたことがない──承太郎がウェザーを妬む必要はないし、ウェザーに遠慮のない態度を取るからと言って、承太郎が徐倫に対してわずかでも腹立たしい思いをする必要もない。
 それでも確かに、奇妙な3人の関係──徐倫はそのことを知らない──ではあった。
 ウェザーが言ったことに、承太郎は何の感想も意見も述べず、肩をすくめると言う仕草も見せずに、ただ徐倫に視線を当てて、空の右手をゆっくりとその肩に伸ばした。
 「徐倫、上に行って寝ろ。ここで寝るな。」
 軽く肩を揺すぶられて、うるさそうにその手を払う徐倫は、それ以上目を覚ます気配も見せず、
 「コーヒーが無駄になったな。」
 ため息のようにつぶやく承太郎は、持っていたカップをウェザーに差し出した。
 「ここで寝られると困るからな。」
 ウェザーに負けずに感情を込めない言い方に、けれど視線がそれを裏切って、ふたりきりで抱き合う時にだけ浮かぶ複雑な色合いが、そこに見て取れた。
 徐倫、と声を掛けながら、承太郎は軽々と自分よりはるかに薄い小さな体を両腕に抱き上げ、2階の徐倫の部屋へそのまま運ぶつもりでかかとを後ろに引いた。
 「・・・アナスイ・・・。」
 承太郎の胸の中で体を丸める徐倫が、半ば夢の中で小さくつぶやく。
 アナスイの明日の無事を危ぶんで、ウェザーが困惑の表情を浮かべかけた時、意外にも承太郎のふっくらとした唇──徐倫のそれと、そっくりだ──に浮かんだのは小さな苦笑で、承太郎はその苦笑をウェザーにも向けた後で、いとおしげに、徐倫の額にそっとその唇を押し当てた。
 性別は違う、けれどよく似た顔立ちが近づいて、その瞬間、ウェザーは決して誰も割り込めない親子の絆に圧倒されながら、同時にそれに嫉妬もする。
 承太郎の背中が回って、2階へ向かう階段へ近づきながら、ウェザーから遠ざかってゆく。
 部屋から出る一瞬、こちらへ軽く振り向いた承太郎の横顔へ、見つめ続けていたウェザーの視線が当たり、その中にやはり嫉妬の気配を嗅ぎ取った承太郎が、今度はウェザーのために軽く肩をすくめて見せる。
 足音が動く。それを視線で追う。ウェザーは、承太郎が徐倫のために淹れたコーヒーをひと口すすった。
 砂糖入りの甘いそれに顔をしかめてから、ひとりで降りて戻って来る承太郎のためにコーヒーを用意しておこうと、ソファから立ち上がった。
 キッチンへ向かいながらまた甘いコーヒーをひと口すすって、承太郎の仕草を写したように、ウェザーは自分に向かって小さく肩をすくめた。

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