2人お題5@Theme

手を繋ごう

 ウェザーが刑務所の外に出て最初に学んだ大事なことは、エンポリオをきちんと子ども扱いしなければならない、と言うことだった。
 中身はどうあれ、刑務所の中で変わった形で育ってしまったエンポリオが、実のところ自分たちよりも精神的に大人びているのだとしても、外の世界ではエンポリオはただの子どもで、常に保護者の姿が傍に必要なのだと、ウェザーは外に出て最初にそれを学んだ。
 単純にそれは、例えば買い物へ行った時に、駐車場でエンポリオを先にひとりで行かせてはいけないとか、店の中ではしっかり自分の傍に引きつけて、勝手にひとりで歩き回らせてはいけないとか、それを面倒くさいとエンポリオに本音を漏らしてもかまわないけれど、自分たちを知らない人間がいるところで言ってはいけないと言う、刑務所に閉じ込められている間に、すっかり複雑になってしまった世の中のやり方に、ついうっかり以前──刑務所にいた頃も含めて──はよかったと、ウェザーが口にしてしまいそうになる、ということだ。
 エンポリオが5分以上ひとりきりでいるところが見つかったら、即座に警察に通報されてしまう。世の中はそんな風に殺伐とし、警察には二度と厄介になりたくないウェザーは、そんなわけで、徐倫がアナスイと手を繋いでいる時には、エンポリオの手を握って過ごす羽目になる。
 刑務所の中でしっかりと自立した存在として扱われていたエンポリオは、外に出た途端に普通の子ども扱いされ始めたことに、最初は戸惑うだけだったけれど、今は時々それが我慢できないらしく、面倒くさいとウェザーが思っている以上に、自分がまだ子どもであるという事実を鬱陶しがっていた。
 とは言え、ふたりとも、好き勝手をすればすぐに警察が飛んで来る──児童虐待と呼ばれるのだそうだ──と知っているから、傍目にはちょっと変わった風な親子か何か、という態度を必死で取り繕っている。
 今日も、週末の食料買出しに、承太郎の運転する車で出掛け、駐車場へ出た瞬間、ウェザーはきちんとエンポリオの手を取った。
 徐倫は、エルメェスに会いに行くと言って、アナスイと一緒に午前中から姿を消してしまった。買い物を徐倫にさせるつもりだったらしい承太郎は、おかげで今は少し機嫌が悪い。
 聡いエンポリオは、承太郎の気分をきちんと読み取って、車の中では小さな肩をいっそう小さく縮めて、ウェザーは承太郎の機嫌が良かろうと悪かろうと一向に態度は変わらず、さっさと先に店へ向かって歩いてゆく承太郎の背中を、エンポリオと一緒に小さな歩幅でゆっくりと追う。
 どの週末もそうであるように、巨大なスーパーマーケットの中は人であふれ、ウェザーは改めてエンポリオの小さな手をしっかりと握り直した。
 「はぐれるなよ。」
 「うん。」
 カートを取って、振り返ってふたりを待つ承太郎の長いコートの裾を、ウェザーは思わずつかみたくなる。エンポリオはウェザーから離れないように、ウェザーは承太郎を見失わないように。承太郎ほどではないけれど、ウェザーだって週末の買い物は苦手だ。
 まずは野菜と果物。備え付けのビニールをエンポリオが取って口を開き、ウェザーが受け取った承太郎が吟味したあれこれを、重さに気をつけながらその中に受け取る。そのビニールをカートに入れ、さっさと次へ進む承太郎を、ウェザーがカートを押しながら追いかける。片手は常にエンポリオの手の中だ。
 ケーキやドーナッツの置かれたテーブルの傍を通る時に、承太郎がふたりを振り返る。エンポリオは遠慮がちに目を輝かせ、ウェザーもつい同じ表情を浮かべる。承太郎はほとんど無表情に大きなアップルパイを手に取り、その箱をエンポリオに差し出す。先へ進む承太郎を一瞬忘れて、ふたりは一緒に箱に手を掛け、わずかの間、自分たちの幸運を一緒に喜ぶ。ウェザーがパイをそっとカートに入れ、またエンポリオと手を繋ぐ。
 肉が無雑作にカートの中に積み込まれ、そこに牛乳とオレンジジュースが加わる。コーラや炭酸飲料水の通路は無視された。代わりに、スナックの通路ではエンポリオが先へ進む。ウェザーはそれに付き合い、カートを押すのは承太郎だ。
 突然エンポリオが、ウェザーにとも承太郎にともつかない位置に視線を据えて、小さく声を上げた。
 「おねえちゃん、サンドイッチ作りたいって言ってた。」
 サンドイッチ? エンポリオが言ったそのままを、承太郎とウェザーは一緒に唇でだけ繰り返して、ウェザーはただ不思議そうにエンポリオを見下ろしているだけだったけれど、承太郎は、真っ先に誰に作るつもりかと思いついたらしく、一瞬のうちに唇の端が硬張る。
 「サンドイッチ持って、一緒に公園に行こうって。大きな池があって、魚が泳いでるんだって。ぼくまだ、淡水魚は見たことないんだ。」
 自分の半分ほどの大きさのありそうなポテトチップスの袋を胸の前に抱えて、エンポリオが無邪気に顔を輝かせた。
 「なら、パンとチーズもいるな。」
 一瞬で沸騰点に達しそうになった怒りを、起こったと同じ素早さで鎮めて、承太郎はアナスイのことを頭の隅へ追いやりながら静かな声で言う。
 エンポリオからチップスの袋を取り上げてカートに入れ、そのカートを承太郎から取り上げながら、
 「オレはスイスチーズが好きだ。」
と、ウェザーは付け加えて、
 「一緒に行ってくればいい。オレはここで待ってる。こんなでかいカート引きずってあっちに戻るのは面倒だろう。」
 精肉売り場の方をあごでしゃくった。
 別に何を意図したわけでもなかった。徐倫の好みはきっと承太郎が詳しいだろうし、エンポリオのためのサンドイッチなら、エンポリオの好みも、承太郎なら気にするだろうと思っただけだった。
 自分の傍にいたエンポリオを、承太郎の方へ行かせて、ふたりが何となくおずおずと互いに手を伸ばしあい、やっと親子のように手を繋いで歩き出すのを、ウェザーは楽しげに眺めた。
 承太郎が、通路を過ぎて棚の影に姿を消す一瞬前、どこか不安そうにウェザーを振り返り、ウェザーはそれに向かって、ひらひらと手を振って見せた。
 ウェザーとエンポリオも、まったく似ていない親子と他人は不思議そうに見るけれど、エンポリオと承太郎では、いっそう奇妙さが目立つ。あれで案外、徐倫を含めた3人でなら、少し歳の離れた兄妹とその妹の子ども、あるいは片親が違う歳の離れた3人兄弟くらいに見えるのかもしれない。
 無責任にエンポリオと承太郎を一緒に見送ったけれど、どうやっても他人にしか見えない組み合わせでは、もしかすると子どもを連れ出したろくでもない大人と見られるだろうかと、ウェザーは急に少しばかり不安になる。
 いかにも子どもの扱いになれていない承太郎と、明らかに普通の子どもとはまとう空気の違うエンポリオと、自分の時よりもいっそう悪目立ちするに違いない。精肉売り場の辺りに、困ったお節介焼きがいなければいいがと、ウェザーはチップスの棚を見渡しながら思う。
 カロリーが半分だの、バターを使わないだの、ポップコーンの箱の、いかにも味気なさそうな宣伝文句をいちいち読みながら時間をつぶして、溶けたバターがたっぷりと注がれている絵のついたポップコーンの箱をふたつ、ウェザーはそっとカートの中に入れた。
 チップスがずらりと並んだ通路を2回行きつ戻りつしたところで、承太郎とエンポリオが、やはり手を繋いで戻って来る。
 承太郎は、片手に、ハムとチーズらしい透明なビニールの包みと、どう見てもこってりとクリームの塗られたチョコレートケーキを一緒に抱え、エンポリオはパンの袋を引きずらないように必死で持ち上げて、ふたりの様子は、慣れない買い物にやって来た父と息子のように、ちゃんとウェザーの目には映った。
 慣れていないのは、買い物の方ではなくて、保護者と被保護者のように振る舞うことの方だ。ウェザーは、エンポリオの手をしっかりと握りしめている承太郎の大きな手に目をやり、承太郎が普段あまりはっきりとは示さない優しさを思い出して、まるで今自分がそうやって──承太郎と──手を握り合っているかのように、目の前に持ち上げた手を軽く1度握った。
 「ケーキまでリストに入ってたとは知らなかった。」
 ちょっとにやにやしながらからかうように言うと、
 「たまにならいい。」
 憮然と言う承太郎の隣りで、エンポリオがうれしそうに微笑む。
 ウェザーがエンポリオを空手にしてやり、承太郎がケーキをカートの中へ入れようとした一瞬前、まるでほんとうの親子のように、エンポリオを間に、3人の手が全部繋がる。
 エンポリオが遠慮して引こうとした手を、承太郎が逆にしっかりと握り返し、ウェザーもそれに倣って、エンポリオの手を離さなかった。
 徐倫が見たら、笑うだろうかそれともやきもちを焼くだろうか。思いながら、ウェザーは、エンポリオの小さな手のぬくもりを通して、承太郎の掌の感触を引き寄せようとする。
 満杯のカートを囲むように、3人一緒に手を繋いで、しばらくそうしたまま誰も動かなかった。擬似家族の空気にひたり込んで、それぞれがそれぞれ、得られなかったものの断片を、繋がった掌の中に感じている。
 ウェザーが思い出していたのは、町で見かけた老夫婦のことだった。
 刑務所へ入る前のことだ。町の大通りの交差点で、横断歩道をゆっくり渡る、髪と服でようやく男女の見分けがつく老人がふたり。手を繋いで、明らかに互いをいたわり合いながら、蟻よりものろい歩みで、皺に沈んだ顔には互いにだけそうとわかるのだろう笑みが浮かんで、いつもならイライラするだけの信号待ちの間、ウェザーは車の中から彼らをずっと見つめていた。
 あんな風に、いつかなれればいい。愛する誰かと、手を繋いで、一緒に歳を取って、過ごした同じ時間のことを思い出しては繰り返し語り合う、そんな誰かを愛することができればいいと、そんな風に思った。
 少年を脱したばかりだったウェザーは、自分も何倍もすでに生きて来ただろう彼らから目が離せず、皺を刻んだ自分の姿を想像できないのと同じほど、そうなった自分の隣りに一緒にいる誰かのことも想像できなかった。
 ウェザーは、あの日町で見掛けた老夫婦のことを思い出して、彼らに子どもはいたのだろうかと、あの時は考えなかったことを今考えている。
 承太郎が、片手でカートを押した。それを合図に、3人で手を繋いだそのまま、重いカートは、こっそり呼び出したスタープラチナに任せて、買い物を終えた人たちでごった返すレジへ向かう。
 間にいるエンポリオに歩幅を揃えて、先を急がずに、ウェザーと承太郎は、一緒に爪先を前へ出す。

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