案内人


(3)

 ウェザーは、気配を感じて、背を伸ばした。
 爪先立ちのまま、少し肩を斜めに落として、何かあれば、すぐに動けるように、やや構えた姿勢を取って、足音を待つ。
 やって来たのは、意外にも、歳若い東洋人---少年と言ってもいい---だった。
 裾の長い緑の上着は、肩から直線で、動きやすさよりもその固い印象を大事に仕立てられたような、襟の高い、少しばかり奇妙な服だ。深い緑の同じ色のズボンは、まだ細い足をきっちりと覆っていて、折り目がきちんとついているのが、東洋人は常にそういう印象であるように、少年をいっそう礼儀正しく見せる。
 まるで軍服のようだ。いちばん近い印象を探ると、ドイツのナチの制服を思い出して、まさか東洋人にナチはないだろうと、ウェザーは、緊張していた肩の線を、少しゆるめた。
 すらりと長い手足、見苦しいほどぶ厚くはない体、細く見える首が、少年が、まだ成長の途中であることを示していて、ウェザーは、こんなところでこんな少年に出会うことに、少しばかり胸を痛めた。
 片側だけ長い前髪がゆるく波打っていて、それが、どちらかと言えば白いばかりでアクセントのない少年の表情の印象に、優しげな色を添えている。両耳の鮮やかに赤いピアスだけが、まるでその場の空気に溶けてしまいそうな少年の姿を、この場に引き止めているように見えた。
 徐倫よりも、少し背は高いだろうか。徐倫よりも、もっと年下のようだ。ウェザーの頭の中で、徐倫のイメージが一瞬あふれて、その後で、頭の中で、この少年と繋がるイメージが、色も形もあやふやなまま、漂い出した。けれどそれはうまく像を結ばず、一体この少年は何者だろうかと、表情には出さずに考える。
 「ああ、驚かせてしまったのなら、すみません。」
 唇の形から、異国の言葉を使っているのだとわかるけれど、ウェザーの耳には、ウェザーに理解できる言葉として届く。問題はない。ウェザーが彼に話しかける場合も同じだ。もっとも、彼の言葉はとてもきちんとしていて、むしろ堅苦しいくらいだった。
 自分の言葉は、きっととてもくだけていて、下品なくらいなのだろうなと思いながら、ウェザーは少年に言葉を返す。
 「いや、そんなことはない。誰が来たかと、見ていただけだ。」
 「すみません、人を探していて・・・多分そろそろ来る頃だろうと思って、こっちの方にいるかと、そう思ったので。」
 少年が、ウェザーを、無礼ではない視線で、眺める。
 観察しているのだ。ウェザーが誰だか見極めようと、腕を伸ばしても届かない、けれどきちんと全身が視界に収まる位置と距離で、子どもに見えて、案外と用心深いと、ウェザーは、ゆるめかけた緊張を、また元に戻す。
 「あなたを、彼と間違えてしまったようです。すみません。」
 少年は、明るい、けれど馴れ馴れしすぎはしない声でそう言った。その声音に、どこか失望の色がうかがえて、ウェザーは、少年の礼儀正しさに敬意を示すつもりで、斜めに対していた体を、正面に向ける。
 「その、探し人は、どんな姿をしている。」
 おそらく、自分にならわかるだろうし、少年がウェザーのことを知らないとしても、少なくとも害意はないのだと、知らせるために、静かな優しい声で訊く。
 少年は、意外なほど稚ないはにかんだ表情で、横に広い唇をゆるめ、少しばかり肩をすくめた。
 「今の彼がどんな姿をしているのか、僕にはわかりません。もう、ずいぶん前から、会っていないので。」
 少年のやわらいだ体の線が、ウェザーに対する警戒を解いたことを示していて、ウェザーは、少年をもう少し近くで眺めるために、爪先をするりと前に滑らせた。
 ひょろりと、背ばかり伸びた体は、これからもっと筋肉がつくところだったのだろう。それでも、服を脱げば案外と、もうすっかりたくましい体が現れるのかもしれない。自分がまだ10代の半ばだった頃を思い出して、ウェザーは考える。
 けれど、彼は自分の体を、あまりじろじろは見られたくはないだろうと、ウェザーは、少年を不躾けに眺めないように気をつけながら、下へ下がった視線を、ゆっくりと上へ戻す。
 少年の腹には、大きな穴が開いていた。
 ウェザーの目線の位置では、あちらまで貫通しているのかどうかはわからない。けれど穴の大きさや、その周辺の服の生地の破壊のされ方を見れば、それが少年の致命傷だったのだろうと、誰でも気づくだろうむごさだった。
 おそらく、背中側の風景が見えるほど、見事な、体に空いた穴。よく見れば、上着のあちこちも、すれて白っぽくなっていたり、生地が裂けていたりもする。爆発か何か、そんなものに巻き込まれたのだろうか。
 そう考えてから、ウェザーを、探し人と勘違いしたというのなら、もしかして、自分と何か関りがあるのか---たとえ、うっすらとでも---と、覚えている顔をひとつびとつ思い出そうとする。
 誰なのだろうか。少年自身と、少年の探し人という誰かのことを、考える。
 少年の身につけている空気は、その年頃の子どものものではなく、もっと硬質な、鋭いものだ。人を、敵か味方かに分ける、その類いの視線だ。けれど、決して敵意だけの視線ではない。強い意志のこもった瞳は、大人ですらひるむほど深い色をしていて、ウェザーは、同じ色をしていると、突然に思った。
 徐倫だ。父親を救いたいと、必死であがいていた徐倫が、同じ瞳をしていた。同じ意志。同じ強さ。ジョースターの血。
 ジョースターの血、星のアザ、兄である神父、徐倫の父親、関りの深いあれこれが、ウェザーの心を、一瞬強く乱した。
 「君の能力は、なんだ。」
 ウェザーは何の前触れもなく訊いた。確信はあった。多分少年は、問いの意味をすぐに悟るだろう。説明の必要などない、同類のはずだ。間違いない。
 少年は、一瞬虚を突かれて、驚いたようにあごを引いたけれど、やや身構える形に足を軽く開き、ウェザーの方へ、少しきつくなった視線を送ってくる。
 「あなたも、スタンド使いなのか。」
 同類とわかったからなのか、途端に少年の言葉遣いが、子どものそれから、大人びたものに、瞬時に変わる。仲間に対する言葉だと、そう受け取って、ウェザーは、天気を変えることはせずに、顔の周りに雲を漂わせて見せた。
 それに応えたように、少年の背後に、翠の光る影が現れる。すらりとした姿は、少年自身を写し取ったように見えて、人の形のそれを、ウェザーはじっと見つめた。
 「同じような能力があるのなら、君は、星のアザのことも知っているのか。」
 自分の肩へ腕を回しながら、ウェザーは重ねて訊いた。
 一瞬で、少年の表情が変わる。
 警戒と敵意と、それから思慕のようなものが入り混じった、複雑な表情。ウェザーがそれを知っているということにショックを受けたのだと、半ば開いた唇が告げている。
 「オレにもある。なぜだかはわからないのだが。」
 星のアザの位置を示して、ウェザーは、少年を、静かな瞳で見つめた。
 「・・・僕が、あなたと彼を間違えたのは、その星のアザのせいのようだ。」
 少年は、ウェザーの肩の辺りを指差して、もう子どもっぽい表情も仕草もどこにもなく、礼儀正しさはぎりぎり保ったままで、ごく自然に、ウェザーとさらに距離を取った。
 こんな場所で会ったというのに、緊張を決して解かない少年に、ウェザーは苦笑をもらした。それでも、それはおそらく、怖ろしいことがその身に起こったせいなのだろう。その腹の傷も、怖ろしい誰かに、殺されたからなのかもしれない。
 自分を踏みにじろうとする、凄まじい力。ウェザーにも、覚えがあるものだった。
 この少年と、何らかの形で繋がっているのだと、自覚はできても確信はない。星のアザが自分にもあると、少年は言わなかったから、徐倫のように、ジョースターとやらの血筋の者というわけではないのだろう。となれば、ジョースターの人間たちと一緒に、邪悪な意志に抗ったスタンド使いのひとりなのか。あるいは、その邪悪な意志自身なのか。
 それはありえないと、ウェザーはひとりで首を振る。少年の身にまとう空気は、徐倫のそれととてもよく似ている。自分の意志を貫き通す強さと、何よりも仲間を大切にするその優しさと、それが、邪悪に組する者の持つものであるはずがなかった。
 それなら、この少年は、自分の仲間だと、ウェザーはうっすらと微笑む。
 ウェザーの微笑みに驚いたのか、少年が、ゆるく肩を動かした。
 「君の探し人は、じきにここへやって来るだろう。」
 感じたままを、ウェザーは少年に向かって口にした。
 「あなたは、彼を知っているのか。」
 また少し、警戒を口元に浮かべて、けれど声には、隠し切れない嬉しさのようなものをにじませて、少年が訊いた。
 「君が誰を待っているのか、オレは知らない。知らないが、その人物がここへ来ることを、オレは知っている。」
 「・・・あなたも、その星のアザのせいで、それを感じるのか。」
 「わからない。」
 ウェザーが首を振ると、少年は少しがっかりした様子で、身構えていた両腕を、ようやく体の脇へ下ろす。
 「僕は、あなたの星のアザにひかれて、ここへやって来てしまったらしい。」
 少年の表情が、言葉と同時に、悲しみに満ちたものに変わってゆく。
 「彼が、来たものと思って・・・彼に、やっと会えると、思って・・・」
 その声の慄えを聞きながら、慰めるために抱きしめてやれればいいのにと思って、けれどウェザーの体は動かない。ウェザーは、そのためにここにいるわけではないのだ。この少年は、長い間耐えて来た淋しさに、けれど押し潰されはせずに、今はまだ、こうして、誰かを待つことができる。
 ウェザーは、何も言わずに、少年が落ち着くのを待った。声と一緒に震えていた少年の手が、上着の胸の辺りを撫でて、そうして、金色のボタンが並んだ合わせ目を、ぎゅっと握る。血の気の失せた唇---いや、もともと、血の気などなかったかもしれない---を噛みながら、喉からこみ上げてくる叫びを、耐えているように見えた。
 ゆらりと揺れた前髪の向こうで、少し潤みを増したように見える目を伏せて、少年が、固い声で言った。
 「もう少し、待つことにしよう。」
 声変わりから数年しか経っていないに違いない、まだ、大人のものとは完全に定まっていない声。けれど少年の声は、稚なさなど微塵も感じさせない深さで、ウェザーの皮膚の内側へ、じかに響いてくる。
 「彼がもうすぐここへやってくることだけは、確実のようだ。僕は、それを喜ぶべきではないが。」
 唇の端に複雑な笑みを浮かべて、少年は、立ち去るために肩を回そうとする。
 「邪魔をしてすまなかった。」
 現れた時とはまるきり違う印象で、少年が立ち去ってゆく。彼を少年と呼ぶことすら、今は似つかわしくはないその背には、ウェザーが思った通り、胸と同じほどの大きさの穴が開いていた。
 そこから、目を細めて向こうの風景を眺めて、そして、ウェザーは突然思いついて、少年を呼び止める。
 「君の、名前は?」
 ウェザーの声に少年が足を止め、長い上着の裾をひるがえして、半分だけこちらを振り返った。
 大人びた横顔に、ふと視線を奪われて、ウェザーは少年が答えるのを、静かに待った。
 「花京院。花京院典明。」
 聞いたこともない音節の、長い名前だった。けれど響きの美しさに、胸を撃たれたような気がして、ウェザーは、無意識に胸に掌を当てていた。
 「・・・とても発音できない、難しい名前だな。」
 少年の横顔が、唇の端を吊り上げて、ウェザーに向かって微笑んだ。
 「覚えてもらう必要はない。」
 ウェザーは、笑いの交じった少年の皮肉に、同じような微笑を返して、それから、自分ができるいちばん美しい声で、少年の横顔へ向かって、言葉を投げる。
 「だが、とても美しい音だ。」
 瞳から警戒心を消して、ひどく穏やかな色だけを浮かべて、少年がひととき、無言になる。
 ウェザーと数瞬見つめ合った後で、
 「ありがとう。」
 少年は、何の感情も読み取れない声で平たくそう言い残して、またゆっくりと歩き出した。
 少年の姿が見えなくなるまで見送った後で、ウェザーは雨雲を出すと、静かに雨を降らせ始めた。濡れるのもかまわず、そこに立ったまま、雲に覆われた頭上を見上げる。
 おそらく大声で泣きたかっただろうあの少年の代わりに、空に涙を流させて、今はそれに濡れることが自分の務めだと、ウェザーは、もう一度、肩の後ろに腕を回して、そこにある星のアザに触れた。


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