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宛先のない手紙

 書き出しはいつも、花京院、で始まる。句読点の後は空白のまま、下へ1行空けて、そこから新しい文章を書き始める。エジプトの旅の後に始まった、承太郎の習慣だった。
 日記のような、ただのつぶやきのような、あるいは宛名の通り、花京院へ宛てた手紙のような、どれとも確かな区別はない文章を、時には数ページ、時にはほんの数行、ほぼ毎日書き続けて、慣れればノートを開いてペンを走らせなければ眠れなくなる。
 エジプトから日本へ戻ったその冬、もう受験も終わり、成績に必死になる必要もない三学期の末、あれは現国の授業だった。
 誰か親しい人、に限らなくてもいいが、まあそんな人に宛てた手紙のつもりで何か書いてみよう。
 明治や大正の文豪の、友人間や文士間で交わされた私信の書簡を真似て、と言う、そんな遊びのような課題だった。
 背の低い、度の強い眼鏡を掛けた貧相な教師は、いかにも読書好きの顔つきで、いつも穏やかに純文学の話をし、彼が敬愛する作家たちのことを、声低く語り、目立つどころか人交わりの中ではすっかり沈み込んでしまう、存在の薄い若い男だったけれど、その課題はなぜか承太郎の心に引っ掛かり、ほとんど考える間もなく、原稿用紙の1行目に書いたのが花京院の名だった。
 元気かと、まずしたためて、それから、あの後起こったことを、他の誰にもわからないように適当にぼかしながら書き綴り、作文などろくに提出もしたことがなかったくせに、その課題だけはこれだけ書けばいいと言う枚数を超えて、右掌の脇を黒く汚しながら熱心に書き上げた。
 卒業直前に、その国語教師はある時承太郎を呼び止めて、その作文のことを訊いて来た。
 あれは、誰か親しい友達なのかな。別の学校の。
 それがどうしたと、承太郎は声を低め、悟られないように奥歯を噛んだ。
 いや別に、どうと言うわけじゃないんだが。彼は慌てたように言い、取り繕うように弱々しく微笑む。眼鏡の縁にちょっと指を添えて、何だか、いい文章だって思ったんでね。君があんな風に書いた手紙を受け取れる人はきっと幸せだ。
 それだけだよ、と教師は言って、もう一度微笑んだ。どこかはにかんだようなその笑い方が、花京院がいつか見せた微笑みと重なって、この男も花京院も、同じように本が好きなのだと思った時、承太郎は疼いた胸にひどくうろたえて、黙って彼に背を向けて、そのまま歩き去った。
 大学へ入り、ある日、構内の購買部で何となく手にしたノートを棚に返しがたく思って、そのまま買って帰った夜、開いた最初のページに、花京院、と書いたのが始まりだった。
 あの現国の課題を思い出しながら、承太郎は、あの作文を書き上げた後で起こったことを、つらつらとそのノートに書いた。ここまで、と思った最後に、お休み、と書いて、ペンを置き、ノートを閉じた。
 次の日も、同じことをした。次の日も、その次の日も。そしていつの間にかノートが埋まり、2冊目のノートを、また購買部で買って、1冊目の表紙に日付と番号を入れて引き出しにしまった。
 誰も知らない、誰にも見せない、承太郎の、花京院への手紙だ。送る先のない、花京院への手紙だ。書き続けて、もう何冊になったのか、決して口にはしない言葉の数々を、ペンの先から送り出して、その時だけは素直に、承太郎は16のままの花京院へ、手紙を書き続けている。
 時々、買うノートの種類で紙の色が少し変わり、ペンの先の太さも滑らかさも様々だ。殴り書きのような日もあれば、きっちりと罫線の中へ字を収めて、ひと筋の乱れも見えない日もある。今では、最初のひと文字でその日の自分の精神状態が分かり、花京院へ向けて書きながら、ほんとうのところは、自分へ向かって言いたいことを吐き出していると言う辺りだ。
 花京院、と書いて、必ずそこで一度手を止める。一緒に、数瞬呼吸も止める。そこで頭に浮かぶ言葉の数々をただ放埓にあちこちに散らし、そうして自分の下へ戻って来る言葉だけを、そっとペンの先から滴らせる。花京院のために、花京院に伝えるために選んだ言葉を、ひとつびとつ、自分の脳の中へ刻み込むように、承太郎はそうやって文字を記してゆく。
 元気かと、今でも時々問い掛ける。すでに死んで久しい人間に、そう訊くことを不思議にも思わず、承太郎は、微笑む花京院を目の前に思い浮かべて、あの裾の長い制服のまま一向に姿の変わらない花京院の、少年の頬のつややかさだけを鮮やかに思い返す。
 書きながら、元気だろうかと、またそう思う。天国と言う場所がほんとうにあるのなら、そこで花京院は元気だろうか。あの傷は、天国ではきれいに治ってしまうのだろうか。それともあのままなのだろうか。
 血で汚れた姿のまま、それでも微笑みはあのまま、どんな姿でも構わない、会いたいと、また承太郎は思う。思うたび、胸をかきむしるような気持ちに、しばらくの間呼吸ができなくなる。会いたい。花京院、会いたい。
 書き綴る言葉の間に、文章の行の間に、挟まるのはそれだけだ。会いたい。花京院、おまえに会いたい。
 結局はそれだけを伝えたくて、承太郎はこの宛先のない手紙を書き続けている。書き続ければ、いつかは花京院のいるどこかへ届くと信じているように、承太郎は今夜もまたノートを開き、花京院、と書き始める。
 大学へ入った。卒業した後で留学した。大学院へ行き、海の生き物の研究へのめり込み、海と空の出会うところへばかり出掛けて、そうして、揺るぎもしない心を抱え込んだまま、成り行きで結婚した。子どもが生まれた。娘だった。握りしめた小さなその手を開いて、人のそれとはにわかに信じがたい、爪のきちんと生え揃ったその指に触れて、初めて我が子をいとおしいと思った。娘をいとおしいと思うと同じほど、相変わらず海に魅かれ続け、そうして承太郎は、そんなことをひとつ漏らさず書き綴りながら、花京院へ宛先のない手紙を送り続けている。
 書きながら時折、あの国語教師の声が耳の奥へ甦る。君の書いた手紙を受け取れる人は幸せだ。ほんとうにそうだろうか。いつかこれが花京院へ届く時、花京院はこれを読んで、うれしげに微笑んでくれるだろうか。苦笑でもいい、何でもいい、相変わらずだな君はと、少しばかり困ったようにあの形の良い眉を下げて、承太郎へ向かって笑い掛けてくれるだろうか。
 いつか。いつか。いつの日か。
 花京院、と承太郎はノートに向かってつぶやいていた。まるで自分のたった今書いたそれを読み上げるように、承太郎は心の中で花京院へ呼び掛ける。
 元気か。変わりはないか。そこはどんなところだ。おまえは今、微笑んでいるのか。おれをまだ、憶えているか。
 それとももう、承太郎の知っているあの花京院と言う少年の魂は、今どこかで生きている、まったくの別人になってしまっているのだろうか。
 花京院。
 口の中で、舌の上で、軽く弾けるような音の、その名。まるで息を吐くように、呼ぶたびに、喉の奥へ熱い塊まりのせり上がって来る、その名。
 会いたい、と承太郎は、続けてつぶやいた。
 ペンを止め、思わず空いた方の手で目元を覆い、今夜はなぜか感情の歯止めが利かずに、承太郎はまた花京院の名を呼んだ。
 会いたい。会いたい。会いたくてたまらない。花京院、おれはおまえに会いたくてたまらない。
 そして会えば、花京院はこんな承太郎を笑うだろうか。相変わらずだなと、あるいは、君らしくもないと、そう言いながら、あの大人びた──あの頃は確かに、大人びた頬笑み方だった──唇の端だけを上げる笑い方をして、なだめるように、あやすように、諭すように承太郎を見上げるのか。
 会いたいと、今夜は何度目か、乱れた字で書く。ペンの先が紙へ食い込み、ほとんどちぎれるように、その承太郎の手を、ふと現れた青い巨(おお)きな掌が止めた。
 花京院の幻の代わりに、主をなだめるように、スタープラチナが承太郎の肩に掌を置き、ペンを握りしめた手にそっと指先を添えて来る。
 承太郎は突然ほどけたように、指先からペンを滑り落として、両方の掌で顔を覆う。
 おまえも、花京院が恋しいか。
 自分と同じように感じているはずのスタープラチナに、心の中で問う。無言のスタンドは、ただ主の背後に静かに立って、承太郎の心を写したように、その薄青い姿でやるせないように承太郎を見下ろしていた。
 花京院。今度ははっきりと声に出して、その名を呼んだ。手紙と同じに、どこへも届かない声だった。出さない手紙を書き続けるのも、答えのない闇へ向かって呼び掛けるのも、心のどこかでは花京院の死を信じ切ってはいないからだ。信じるのが恐ろしいからだ。
 花京院はただ、どこか遠くへいるだけだ。手紙の届かない、声の届かないどこか遠くへいて、今承太郎がこうして生きているように、どこかで生き続けている。書いた手紙を出さずにいる限り、承太郎はそう信じていられる。宛先を知らないだけだ。宛先がわからないだけだ。花京院は、今もどこかに生きている。
 そうだろう、なあ花京院。
 だから承太郎は、出さない手紙の中で、元気かと問い続ける。花京院、元気でいるか。元気にしているか。
 両掌の中に作った小さな闇の中から、ぽたりと涙が落ちる。承太郎の書いた文字の上に、丸く染みを作る。
 お休みと、いつものようにはまだ最後に書けないまま、承太郎は肩を震わせ続けていた。

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