生還



 承太郎が、僕の名前を呼んでいる。とても、うるさく。
 眠りを妨げるその声は、耳元でがんがん響いて、心臓は停止しているのに、まだなぜか機能している脳がきちんと働いているから、いやになるほどよく聞こえる。
 ハイエロファントは僕の中に入り込んで、血を止めようと、ずいぶん前から躍起になっていた。心臓が止まってしまったから、もう血は流れないよと、そう教えたいけれど唇は動かず、声も出ない。
 まぶたが重くて、とてもとても重くて、持ち上がらない。
 ああうるさいな承太郎、なんて声で僕を呼ぶんだ。僕の心臓はもう止まってるんだ。聞こえてるから黙れなんて、言えるわけないじゃないか。黙れよ承太郎。
 ハイエロファントは、僕の中に入り込んだまま、まるで僕の全身を支えるようにそこにとどまって、きっと承太郎にすら姿が見えないくらい、僕自身と、とてもよく混じり合っている。どこまでが僕か、どこまでがハイエロファントなのか、僕にも実はよくわからない。
 腹の穴を覗いたら、きっとハイエロファントの翠が、きらきら光ってきれいだろう。
 承太郎がまだわめいている。ハイエロファントを引き出して、黙れと言ってやればいいのだろうけれど、ハイエロファントは僕の中に入り込んだまま、もうびくともしない。もしかすると、一生このまま、僕の中から出て来ないつもりかもしれない。
 いや、心臓が止まってるのに、一生なんて、おかしな考え方だ。
 僕の脳はまだ機能している。承太郎の声が聞こえる。承太郎が触れているのがわかる。ハイエロファントはまだ僕の中にちゃんといる。
 奇妙な感覚だ。ほんとうに、とても奇妙な。
 花京院。承太郎が、また僕を呼んだ。
 それから、胸の辺りに、とても熱い手が触れた。生身の承太郎のそれよりも、もっと硬い、ごつごつした手。それが、僕の胸の中に、するりと入り込んでくる。
 スタープラチナの手だ。あの、薄青い、見た目の武骨さには似合わない、とても精緻な動きをする、あの手。僕の額からDIOの肉の芽を引き抜いた、スタープラチナの手。あの時、とても間近にあった承太郎の、射殺されるかと思うほど真剣だった目つきを思い出す。何か、別のことと勘違いしてしまいそうだった、奇妙に熱っぽい視線。今は、それを見たくても目が開かない。声も出せない。承太郎。ちゃんと聞こえてるから、わめかなくてもいい。
 スタープラチナの手が、僕の心臓に触れる。とっくに動きを止めてしまった僕の心臓を、その掌の中に握り込む。
 何をしているんだろうと、その指が、心臓に届く静脈や動脈の柔らかさを探っているのに、僕は妙な心地良さを覚えた。
 スタープラチナの、その薄青い手に、僕がそうしたわけでもないのに、ハイエロファントが、翠の光になって絡みついて行くのが視えた。ゆっくりと動き出すスタープラチナの手に合わせて、翠の光も、まるでその動きを助けるように、きらきらと輝く。
 僕の心臓を動かそうとしているのだと、ようやく悟って、まだ柔らかく、ぬくもりの残っているそれに、鼓動と同じリズムが人工的に加えられ、そして、翠の輝きが、僕の中でいっそうその強さを増すと、僕の全身の血の巡りが、またゆるやかに始まる。
 自力で動いているわけではない僕の心臓は、すでに腐り始めているかもしれないのに、そこから流れ出る血が全身に回るのが、良いことなのかどうか、僕は少しだけ考え込んだ。
 承太郎が、飽きもせずに僕の名前を呼び続けている。そんなに叫んで、声が枯れないのだろうか。まったく、何もかもが丈夫な男だ。
 まぶたが震える。けれどまだ持ち上がらない。全身が重い。スタープラチナとハイエロファントは、まだ僕の心臓を一緒に動かしている。全身を巡るには、もう残っている血が足りないかもしれないのに、それでも、心臓はまだ、スタープラチナの掌の中にある。
 承太郎の手が、頬に触れた。僕の顔を少し持ち上げて、そして、額に、承太郎の額が触れた。埃で汚れているのか、ざらざらする。乾いた血の匂いもする。僕らの前髪が触れ合って、絡み合って、そんな感触すら、まだ僕にきちんと伝わる。
 承太郎が、とても近くで、また僕の名前を呼んだ。その声は、かすれていて、うわずっていて、途切れがちだった。承太郎の吐き出す息が、僕の唇にかかる。それから、僕の持ち上がらないまぶたの上に、暖かな液体が滴り落ちてきた。
 僕の額に自分の額をこすりつけて、承太郎が泣いているのだと、僕はようやく気づく。
 スタープラチナとハイエロファントは、その間も休まず僕の心臓を動かし続けていて、承太郎の嗚咽と、心臓に与えられるリズムが、いつの間にか重なっていた。
 泣くなよ承太郎。そんな珍しいもの、見たくても見れないんだから、今泣くなよ。
 ほんとうに、承太郎の泣き顔なんて、滅多と見れるものじゃない。しかも、こんな間近に。
 まるで、承太郎の涙にぬくめられたように、僕のまぶたは、少しずつ重さを失いつつあった。そこに流れた承太郎の涙のせいで、僕が泣いてるみたいに見えるに違いない。違う、泣いてるのは承太郎だ。僕じゃない。
 泣かれるのは苦手だ。うるさくわめかれる方がいい。君を泣かせようなんて、そんなつもりじゃなかったんだ。だから、泣くなよ承太郎。
 承太郎の泣き顔を見たいと、今見たいと、突然思った瞬間に、僕の心臓が、それ自身の意志で動いた。
 スタープラチナの指先が、驚いたのか、一瞬止まる。そして、それを笑うようにまた、僕の心臓が、自分で鼓動をひとつ刻んだ。
 君が泣くからだ、承太郎。君の泣く顔なんて珍しいものなら、ぜひ見ておきたいと思ったから。君を泣かせるなんて、そんなことをしたくはなかったから。君の涙が、あんまりにも熱くて、それに、これじゃあ、まるで僕が泣いてるみたいじゃないか。
 僕の心臓が、ゆるやかに動き出して、少々量の足りない血液を、自力で全身に巡らせ始める。指先まで温かな血が通うのを感じた脳が、やがて、穏やかな翠の光をたたえ始めた。
 これは、君に貸しひとつなのだろうか、それとも、僕が君に借りを作ったのか。
 僕はただ、君の泣き顔を拝みたくて、君を泣き止ませたかっただけなんだ。
 僕は今、ゆっくりとまぶたを持ち上げる。目を開く。目の前に君がいる。鼻先の触れるほどの近さに、君の泣き顔がある。頬もあごも濡らして、長い睫毛の先にも涙を滴らせて、無防備に泣いている君がいる。まだ僕のまぶたや頬の上に流れ落ちてくる君の涙が、僕の、今はくっきりと視界の開けた顔を、泣き顔に見せていて、僕らはふたり揃って、一緒に泣いているみたいだ。
 僕らの顔は、一緒に血に汚れていて、埃だらけで、そして、君の涙で濡れている。
 驚いている君は、けれどまだ泣くのを止められずに、僕の頭を抱え込んだ手に、いっそう力を込める。
 泣いている君に向かって、僕の頬を濡らしているのが君の涙で、僕は泣いてなんかいないことを示すために、僕は、弱々しくはあったけれど、精一杯必死に、顔中で笑って見せた。
 「泣くなよ、承太郎。」
 君の泣き顔なんて、とても貴重な代物だけれど、僕のために君が泣くなんて、僕には死ぬより耐えられない。
 戻って来た僕を、君が抱きしめる。腹から流れる血で汚れるのにもかまわず、君の両腕が、僕を抱き止めて、僕はもう、そこから逃れられない。
 君はまだ泣き止んでくれずに、僕を抱いて、いっそう激しく声を上げた。それでも、その泣き声が、さっきまでとは違って、喜びに満ちていることを、僕の耳はきちんと聞き取って、すり切れて白くなっている承太郎の学生服の肩にあごを乗せて、僕は、まだ夜のままの空を見上げて、ひとりにっこりと微笑む。
 それから、僕のきちんと見開いた瞳から、承太郎のものではない涙が、一筋流れ落ちた。


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