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いつも春

 駅からの帰り道、歩きながら承太郎の視線が、ふと目の前の自動販売機に吸い寄せられる。歩調をゆるめて、昼間のように明るい光を放つその機械の前へ、思わず爪先が向きそうになる。向かい風に当てられて、真っ赤になった頬と血の気の少し失せた唇を温めるためのように、はあっと白く大きく息を吐く。その向こうの自動販売機にまた目を凝らし、承太郎は、あたたかい、と言う赤字を頭の中で読みながら、缶コーヒーを買うかどうか、ついには足を止めて数秒迷った。
 いや、とひとりで肩をすくめて首を振る。どうせもう数分で家に着くなら、すでに家にいるはずの花京院が淹れてくれたコーヒーの方がいい。今すぐ手に入るささやかなぬくもりの誘惑を振り払って、承太郎はまた歩き始めた。
 承太郎が花京院と住むマンションは、大学生には少しばかり贅沢な、単身者には広過ぎ家族には手狭で、その中途半端さで一度空きが出るとなかなか埋まらないと言う物件だった。ジョセフがわざわざ手を回し、普通なら嫌われる学生同士の同居に大家へ口添えもしてくれて、花京院が大学へ入学したのと同時に、ふたりは一緒に暮らし始めた。
 ひとりっ子同士、気を使う部分と気にしない部分が似ているものか、案外と諍いもなく、平穏な同居生活が続いている。ケンカの際にはスタンドは絶対に使わないと言う決まり事だけは、何があっても破らないとふたりで一緒に誓って、ただの同居人でないと言う辺りはまだ周囲にはひっそりと隠したまま、ふたりは大学生活を一緒に満喫している。
 「お帰り。」
 ドアを開けた途端に、キッチンらしい方向から花京院の声がやって来る。
 おう、と靴を乱暴に脱ぎながら応えて、首に巻いていたマフラーをぐるりとほどき、部屋の中のぬくもりを味わうように、承太郎は大きく息を吐いた。
 玄関を上がって、承太郎の歩幅なら三歩、その右手にあるキッチンへまず顔だけ差し入れた。コーヒーを淹れてくれないかと、丁寧に頼むために、そこに探した花京院の姿は奥へ向かい、こちらへ背中を向けていた。
 「承太郎、帰ったばかりで申し訳ないが、悪い知らせだ。」
 今日はやけにしんとしたキッチンで、こちらへ振り向く花京院の表情が、声音を裏切らずにやや低い。何だどうしたと、承太郎は表情にだけ浮かべた。
 「給湯器が壊れてしまって湯が出ない。そういうわけで、銭湯に行ってくれ。」
 「せんとう?」
 ほとんど耳にしたこともない、口にしたこともない、承太郎にとってはそんな言葉だ。花京院から聞き、自分で口移しにして、やっと漢字が当てはまってから、承太郎は状況を把握した。
 確かに、駅までの道を南に外れてゆくと、恐らく親たちの子どもの頃にはすでに建っていたと思われる、いかにもな佇まいの銭湯がある。こういう場所があるのは知っておいた方が良いと、引っ越し当初、近所で訊いてそこを見つけたのは花京院で、承太郎はと言えば、最初は近所の薬局や医者の場所さえ上の空で、ただひたすら、花京院とこれで一緒に暮らせると言うことにだけ浮かれてた。
 生活と言うのは、ふわふわと浮わついたものではなく、誰が買い物に行くとか、誰がトイレの掃除をするとか、トイレットペーパーの残りを把握しておくとか、そういう愉快なだけでもないことの積み重なりで成り立っているのだと、承太郎は花京院から学んだ。
 今夜の銭湯行きも、そのひとつと言うことになりそうだった。
 「湯が使えねえんじゃあ仕方ねえな。たまには悪くはねえ。」
 これからまたあの寒さの中へ逆戻りは少々業腹ではあったけれど、夜の散歩と思えばそれも悪くはないし、巨大な浴槽で手足を伸ばせるのは悪くはないと、承太郎は素早く考えた。
 「そういうことだ。湯冷めしないように気をつけてくれ。」
 すでに支度をしていたらしい花京院は、キッチンとリビングを仕切るカウンターの上に置いてあった洗面器を取り上げ、承太郎へ手渡す。中にはタオルが数枚と、それから石鹸箱と、わざわざ詰め替えたのかどこかから取り出して来たのか旅行サイズのシャンプーとリンス、完璧じゃねえか、と承太郎は口の中で小さくつぶやく。
 「じゃあ、道は分かるな? 暗いから車に気をつけて。」
 承太郎の目の前で、花京院が手を振る。そこでやっと承太郎は顔をしかめて、
 「てめーは行かねえのか。」
 花京院は大袈裟に眉を寄せた。
 「僕は行かないよ。君だけだ。僕は湯でも沸かして体を拭いておしまいにするよ。どうせ明日には直るはずだし。」
 なぜこんなことを説明しなければならないのか、と言う花京院の表情に、承太郎も、なぜ説明してくれないのかと、しかめ面を返す。
 「なんでおれひとりだ。」
 「僕が銭湯になんか行けるわけがないだろう。刺青のある輩は出入り禁止だ。」
 「てめーのどこに刺青がある?」
 訊きながら、暗いところで抱き合うのが普通で、もしかして見えないところに何かあるのだろうかと、ふっと承太郎は脳裏に花京院の裸を思い浮かべた。
 「刺青じゃない。傷だ。僕の、腹と背中の。」
 言いながら、声が硬くなる。不自然に言葉の間に間が空き、視線がすっと真正面の承太郎からそれる。唇の端がわずかに歪んだのを下目に見て、承太郎はそこで声を途切らせた。
 「見せたくないし、じろじろ見られるのも困る。わかるだろう。」
 花京院の体を思い浮かべ、言われた言葉を反芻して、承太郎はふた呼吸してから、
 「わかった。」
 やっと言葉を滑り落とすようにすると、洗面器を片手に抱えて、くるりと花京院に背を向けた。
 マフラーを巻き直してから、振り向かずに空いた方の手をひらひらと振って、行って来る、と小さく言うと、行ってらっしゃい、と花京院の声だけが承太郎を見送ってくれた。
 
 
 銭湯に来るのは初めてだ。男湯と書かれたのれんを、頭をぶつけないように体をかがめてくぐって引き戸を開け、番台に坐った老人と目が合うと、彼は承太郎の背の高さに驚き、見たことのない顔だなと言う表情を隠さずに浮かべた。承太郎はそれに無表情で応え、金を払い、靴を脱いで脱衣所に上がる。勝手が分からず、数秒周囲を見回してから、すでに服を脱ぎ始めている他の客を見習って、とりあえずは空いたロッカーを見つける。
 花京院なら、こんな場所にはそれなりに慣れているのだろうか。ひとりで来たことを早くも後悔しながら、自分も花京院が言ったように、沸かした湯で体を拭いてしまいにすれば良かったと考え始めている。
 とは言え、寒い中をわざわざ歩いてやって来たのだから、せめて大きな浴槽で手足を伸ばす贅沢くらいは存分に味わおうと、心を切り替えて服を脱ぎ始めた。
 ロッカーのいちばん上にも飛び出す視線を適当に外しながら、様々な段階の裸の男たち──年齢も様々だ──をじろじろ眺めたりしないようには気をつけて、彼らのやる通りに体を動かし、彼らが浴場へ出入りする姿をちらりと見て、どういう風にすべきかを素早く学び、混血と言うことを除いても、今自分はとてつもなく外国人だと、承太郎は思う。こんな風に感じるのは久しぶりだ。
 他人の裸なぞ、近頃花京院以外見たこともないし、花京院以外に見られたこともない。羞恥よりもむしろそれに気づいた戸惑いを抱えて、承太郎はようやく腰に巻いたタオルを押さえながら、洗面器を抱えて浴場の方へゆく。がらりとガラス戸を開けると、いっぱいに満ちた湯気で視界が利かず、むしろその方が、自分の視線も他人の視線も気にせずにすむのがありがたい。
 流れる水の音、壁の向こうから聞こえて来る女たちの話す声、浴槽の方から聞こえて来る、心の底から全身を伸ばし切った、年かさの男の声、全身を包んで来る水の気配に、承太郎はちょっとの間目を細めた。
 悪くねえ。
 誰も自分の方を見ないことを確かめてから、人気のない辺りを選んで、蛇口を見つける。タイル張りの床に直に坐ったのは、そうしないと蛇口が遠過ぎるからだ。
 そう言えば、中学の頃読んだ小説に、こういう場所に直に坐ると、娼婦たちから病気が伝染ると信じられていたと言うような、そんな描写があったなと思い出す。洗面器を空にして湯を溜め、それを頭から浴びた。
 てめーが来ても、誰もじろじろ見やしねえ。
 髪を濡らしながら、今ふたりの部屋にひとりでいる花京院のことを思い浮かべる。掌に取り出したシャンプーが冷たい。外の寒さを思い出して、あの部屋も多分、ふたりでいるからあんなにあたたかいのだと、そんなことを考えた。
 浴場の、湿り切ったぬくもりを丸めた背中に味わいながら、ここにひとりでいることに罪悪感がちくりと胸を刺して来る。花京院のあの傷跡のことなど、そんな風に考えたこともなかった。
 見せたくない。それは自分に対してもなのだろうか。明るかろうと暗かろうと、承太郎はあの傷跡から目をそらしたことはなかったし、花京院も、傷がやっと癒えて最初の1年ほどは、まだ皮膚が裂けそうだと、承太郎がむやみに力を込めて抱きしめるのを怖がっていたけれど、今ではどう触れようと何も言ったことはないし、承太郎も花京院が嫌がっていたのはその頃だけと言う認識しかなかった。
 明らかに引きつりの残る、くしゃくしゃに丸めて改めて平たく伸ばした紙のような、細かな皺の散ったその桃色に光る皮膚を、体の他の場所と違うのだとは思っても、恐ろしいとも触れるのが気味悪いとも感じたことはない。
 むしろ、他の部分よりも皮膚の薄く引き伸ばされたようなそこは、肌を重ねればどこよりも花京院と親(ちか)く寄り添えるような気がして、自分の皮膚も、どこかがそんな風に薄くならないかと思ったりもしたものだ。
 けれどそう感じるのは承太郎だからであって、真っ赤な他人が見れば、まずは気持ち悪いと思うものだと、花京院は考えているのかもしれない。
 どうだろうな、とやっと巨大な浴槽に爪先を差し入れながら、承太郎は考え続ける。湯の温度に気をつけながら、両足を入れる間に息を止めた。
 普段は絶対にできない、浴槽の縁に両腕を置いて足を存分に伸ばす、と言う姿勢を取って、あごの先まで湯に浸かり、承太郎は目を閉じる。目の前か隣りに花京院がいれば、ここももっと楽しめるだろうと思って、唇のぎりぎり下まで湯の中へ浸した。
 こんな広々と明るい場所で見る、花京院。濡れて首に張りつく、茶色がかった髪、普段よりもくっきりと顔の線が出て、耳や首筋に赤みが上がっている。湯の中で手足を泳がせ、汗をかきながら、気持ち良さそうに目を閉じる。今、承太郎がそうしていると同じ表情で、うっとりと同じ湯の中で──。
 そこまで想像して、承太郎は頭の中に高いぶ厚い塀を下ろした。きっぱりと花京院の姿をそこで断ち切り、自分たちにはあまり関係のない話だけれど、銭湯が男女別である理由を、突然雷に打たれたように悟って、承太郎はざばりと湯の中に立ち上がった。
 やっぱり狭くても、ひとりきり、あるいは花京院とふたりきりになれる自宅の風呂の方がいいと、承太郎はさり気なく取り上げた洗面器で体を隠すようにして、大浴場を後にした。


 花京院がそう言った通り、翌日には給湯器はきちんと修理され、風呂はめでたく元通りになった。
 やはり寒い中、銭湯通いなぞ必要ないのはそれだけでありがたく、あれはあれで悪くはなかったと思いながら、承太郎は銭湯でのことは一切口にせず、そのまま数日が何事もなく過ぎてゆく。
 そして週末、授業数の少ない金曜日、ふたりは肩を並べて夕食を作り、今夜は承太郎がゆっくりとドリップでコーヒーを丁寧に淹れ、なぜかそのままソファのあるリビングへは行かず、花京院に促されて、また食卓へ向き合って坐る。
 今日大学の帰りに空条家へ寄って、承太郎がホリィから手渡されて来たラザニアは相変わらず絶品だった。その感想の交し合いで、最初のコーヒーのふた口み口分が過ぎ、今度はじゃあ一緒にホリィに会いに行こうと、ふたりでそんな結論へ至ったところで、花京院がふっと黙り込む。
 夕食は美味かった。コーヒーも、今夜はなかなかだ。外は寒くてもここはあたたかく、おまけに少し後で、ふたりが好きな映画がテレビで放映される。とても感じのいい週末の始まりだった。
 何だ、とちょっと承太郎は身構える。大学で何か面白くないことでもあったのか。実家の方で何か起きて、戻って来いとでも言われたか。あるいは誰かにふたりがただの同居人でないとばれて、多少まずいことになるかもしれない、そんなことか。あれこれ考えても、結局は花京院が口を開くまでは埒が明かず、承太郎も黙り込んで、花京院が言葉を選んでいるらしい額の辺りの線の硬張りを、コーヒーのマグの陰から盗み見ていた。
 「君、SPWに何か訊きたいことがあったらしいな。」
 口に含んだコーヒーを、吹き出さないために、承太郎はまだ熱いそれをゆっくりと喉の奥へ飲み下す。マグに隠したままの口元で、ああ、と歯切れ悪く答えた途端、花京院の左の眉の端が上がった。
 「皮膚移植がどうのって言う話らしいが、僕のためだって?」
 花京院には内緒にしてくれとは言わなかった。だから、ここへ連絡をして来たSPWの職員の誰かが、花京院に、承太郎が尋ねた内容を話しても別に悪いことではない。悪いことではないけれど、承太郎には少々都合の悪い成り行きになりそうだった。
 「訊いてみただけだ。別に──」
 「君の皮膚をくれるって話だって言うじゃないか。」
 承太郎の語尾を遮って、花京院がにっこりと微笑む。知らない人間には非常に友好的に見える、やたらと横に広い笑顔だ。承太郎には修羅の貌(かお)に見えるそれだ。
 「君の皮膚を移植して、僕のこの傷跡を消せないかって言う、そういう話だって?」
 花京院が、いっそう深く微笑んだ。そうしながら顔を少しだけ傾ける。これは、怒りをどこへ持って行こうかと迷っている時の花京院の癖だ。スタンドの使用禁止は徹底しているから、最悪の場合でも、素手で殴られる程度ですむ。けれど、それなりに背丈のある成人男子がふたり暴れて無事なほど、この部屋は堅固な造りでもない。
 「いやなのか?」
 とりあえず承太郎は、そう切り返した。
 「いやも何も、その移植の当事者の僕が何も知らないって言うのは変な話じゃないか承太郎。」
 「ちっと思いついて訊いてみただけだ。」
 「人前で裸になれない僕が可哀想って話かい。」
 はっきりとそう言われて、さすがに承太郎もむっとする。その通りだ。けれどそれは同情ではなく、ただあんな広い浴場で、伸び伸び手足を伸ばす花京院が見てみたいと、そんな願望が言わせたことだった。
 「好きな時好きなところで自由に裸になれるのがそんなにいやか。」
 承太郎が真っ直ぐそう言うと、花京院はたちまち笑顔を消した。テーブルの上に乗せていた腕をどけ、椅子の背に体を預けて、ちょっと透かすように承太郎を見る。深呼吸の代わりにコーヒーをひと口飲んで、頭の中で飛び交う言葉を、何とかつかまえてまとめようとしている様子が、承太郎にも見て取れた。
 「それについての答えは、僕はとりあえず君以外の人間の前で裸になる必要を認めない、だ。」
 今度は、承太郎が撃たれたように表情を消した。次に現れたのは、ほんのかすかな羞恥だった。今てめーはものすごいことをさらっと言いやがったな花京院。
 先を越されて、畜生、と高校生の頃にはよく口にした言葉が、喉の奥で鳴る。何か言い返そうと思った承太郎より先に、花京院が言葉を継いだ。
 「もっとも、君が僕のこの傷跡を見苦しいと思ってるなら、それはそれで話し合いの余地はある。と言うより、話し合いをすべきだな。」
 承太郎を、いわゆる最強のスタンド使いの、元不良の空条承太郎を、ここまで狼狽えさせることができるのは、今ではこの花京院だけだ。承太郎は思わずがちゃんとマグをテーブルの上に置き、そこへ一緒に振り下ろしそうになった拳を、途中で何とか止めた。
 「おい先走るな、いつおれがてめーのその傷を見苦しいと言った?」
 「皮膚をやるから張り替えろ、と言うのはつまりそういうことだろう。」
 「おれの話も聞かずに決めつけるな。そうじゃねえ。」
 「じゃあ、僕にわかるように説明すればいい。君には悪いが承太郎、僕はそれほどこの傷跡を嫌っちゃいないんだ。」
 ぴしりと、花京院の言葉が承太郎の頬の辺りを打って来る。
 「君が、この傷跡を嫌だと言うなら仕方ない。そして僕には、自分の体の一部を取り替えるような意志はまったくない。傷があろうとなかろうと僕は僕だ。僕にそう教えてくれてたのは君だと思ってたんだがな、承太郎。」
 声音は硬いまま、けれどひどく落ち着いた響きで、花京院が言う。そう言われて、承太郎は初めて花京院の傷跡のことを考えた自分の、もっと深くにある気持ちを覗き込んでいた。
 花京院が言う通りだ。傷があろうとなかろうと、花京院は花京院だ。一緒に銭湯へ行けようと行けまいと、花京院は花京院だ。けれどもしかして、花京院はこの傷を鬱陶しがっているのではないかと、承太郎はそう思った。時々自由な行動を妨げる、癒えるまでの長い間、花京院を苦しめたこの傷を、花京院自身は憎んでいるのではないかと、そう思っていた。だからこそ、承太郎はことさらこの傷に触れ、これも今では花京院の一部──承太郎が惚れた、花京院と言う人間の一部──なのだと、そう指先から伝えて来たつもりだった。
 そうして今、自分の胸の内を、掌に乗せて顔を近づけてまじまじと見つめて、花京院がそう思ったと承太郎が思ったことは、つまりは承太郎自身が感じていたことだったのだと気づく。この傷がなければと、そう思っていたのは承太郎だった。この傷がなければ、花京院はあんなに長い間苦しむ必要はなかった。承太郎も、あんなに長い間待つ必要はなかった。花京院の体に張りつき、いつまでも忌まわしいことを思い出させる。決して良い思い出ばかりでもない、あの旅のことを思い出させる。そして何より、花京院を喪い掛けたのだと言うことを、この傷跡はいつまでも承太郎に見せつけ続ける。今日微笑み合えたからと言って、明日もそうだとは限らないのだと、あの時承太郎が味わった、全身の骨の砕け散ったような、体がばらばらに吹き飛んだような絶望感を、この傷はいつまでもいつまでも承太郎の脳の中に刻み込み続ける。
 今日と同じ明日が続くと言う保証がないのだと、そう思い知るには、承太郎はただ稚な過ぎた。
 いつの間にか承太郎は、椅子から立ち上がっていた。花京院を見下ろす形に、それに不意に気づいて、放心したように椅子にまた腰を下ろす。
 「てめーがてめーなら、おれはそれでいい。傷があろうとなかろうと、おれにとっては何の違いもねえ。」
 「本気だな。」
 「ああ。」
 うなずいた時だけは、真っ直ぐに花京院を見た。
 「ならいい。」
 短く言って、花京院が話を締めくくる。空気を断ち切るようにコーヒーのマグと一緒に立ち上がり、花京院はリビングのソファへ移動するために、承太郎へ背を向けた。

 
 何となく口数も少ないまま、予定通りに一緒に映画を見て、そうして、仲違いしたまま朝を迎えるのは良いことではないと、互いに通じ合ったものか、どちらから言い出したとも知れずに、ふたりはその夜一緒に風呂に入った。
 もう何度も見た映画の感想を言い合いながら、一緒に服を脱ぎ、一緒に湯を浴びて、いつもより少なめに湯をためた浴槽に、一緒に浸かる。承太郎は長い足をそこで持て余し、浴槽の縁から外へ投げ出して、その承太郎の開いた膝の間へ花京院は背中を寄せ、狭い風呂場を、ふたりは寄り添う言い訳にした。
 いつもそうするように、承太郎は花京院の腹の傷跡に掌を乗せ、その承太郎の手に、花京院は自分の手を重ねて、首をねじ曲げては唇を触れ合わせたり、互いの首筋へ触れたりする。湯が揺れて、時々外へあふれ落ちた。
 承太郎は空いた方の手で、花京院のうなじへ指を滑らせ、髪の中へその指先をもぐり込ませる。すでに濡れた髪が指に絡みついて来て、そうやって締めつけられる感触に、忙(せわ)しく欲情しながら、けれど湯のぬくもりから離れ難くて、ただ花京院に触れている。
 血の色が上がって、いつもよりもふっくらと見える耳の線に、歯を立てたいのは我慢しながら、明日の朝は好きなだけ寝坊ができることに感謝する。承太郎は体を前に倒して、いっそう花京院の背に近く寄り添った。
 服を着ていて、動いたり坐ったりして残る服の皺に、その下の体の線を想像する。空で絵が描けそうに見知ったその線を、けれど思い浮かべるたびに、承太郎は花京院へのいとおしさを感じて、そしてそれがただ増してゆくのを感じる。服を着ていても、こうして裸でも、どちらの花京院も、花京院ならすべて欲しくなる。その花京院に、この傷跡も含まれているのだと、承太郎は思い知っていた。
 花京院の何もかもを、思考を停止して好きだと言うわけではない。嫌なところもある。気に障るところもある。それでも、その嫌な部分を取り除いた花京院を、今より好きになるかと言われたら、恐らくそれは違うのだと、承太郎は思った。
 それが失くなれば淋しい。花京院が、どの部分にせよどこかを失えば、承太郎はただ淋しい。花京院の何もかも、この傷も、嫌なところも気に障るところも時々こっそり舌打ちしたくなるような部分もすべて、まるごとの花京院がいとおしいのだと、承太郎は思った。
 こんな時に、愛していると言う大仰な表現しか思いつけない自分が忌々しい。もう少しさらりと、そしてきちんとうまく伝えられる言葉があればいいのにと、日本語と知っている英語の両方を思い浮かべて、それでも今自分が感じていることを、すべて真っ直ぐに花京院に伝えられる気がせず、承太郎はただ花京院を抱きしめて黙り込んだ。
 肩越しに、鎖骨の辺りへ唇を押し当てていると、花京院の腕が伸びて来て、承太郎のうなじへ軽く回る。その手に促されて顔を上げると、間を置かずに花京院の唇が近寄って来る。開いた唇の間で舌が絡む合間に、湯がふたりの口の中へ時々飛び込んで来た。
 「僕らは、神田川みたいにしなくて済むな。」
 突然、唇が離れた隙に、どこか可笑しそうに花京院が素早く言う。
 「かんだがわ?」
 「一緒に銭湯に行って、終わったら一緒に帰ろうって外で待ち合わせるんだ。男湯と女湯に別れて。でも男の方がなかなか出て来ないって言う、聞いたことあるだろう。」
 「あれか。」
 ラジオで流れていたのを聞いたことくらいはある。父親の貞夫を倣ったわけではないけれど、承太郎はフォークの類いにはアレルギーがあった。花京院はと言えば、好みはうるさいのに、雑多に耳に入れるのには意外と構わない主義だ。
 「相手の似顔絵を描くのに似てねえとか、そんなのだったか。」
 「よく知ってるじゃないか。」
 メロディーを思い浮かべながら承太郎が続けて付け加えると、今度こそはっきりと花京院が笑う。承太郎の掌の下で、花京院の薄い皮膚が揺れた。
 「僕らはどうせ一緒に男湯だ。脱衣所で待ち合わせができる。」
 「コーヒー牛乳の早飲み競争とかな。」
 「僕はフルーツ牛乳の方が好きだな。」
 ふたりで一緒に笑うと、湯が激しく波打つ。
 そうやって、架空の銭湯行きを想像しながら、承太郎は、ごく自然に、腹と背中の傷跡を隠しもしない花京院の、湯上がりの裸を思い浮かべていた。
 承太郎の背の高さにちらりと視線を送った数人以外は、湯気に満ちた浴場で、詮索するような視線を浴びた覚えもなく、花京院さえその気になれば、案外と好奇心の視線など浴びずに済むかもしれないと、まだ往生際悪く承太郎は考える。
 いつか、と承太郎は思った。
 「僕が君を描いても意外と似ないんだろな。」
 歌の話を、花京院がそうやって続けた。
 「近頃ちっとも絵なんか描いてない。」
 「そういやそうだな。」
 ふたりで暮らすことに夢中になっていて、大学生活は、慣れれば慣れるほど新たにやることが増えて、親の家を離れて自由は増えているはずなのに、心の余裕はどこへ行ったのだろうと、ふとふたりとも同時に考え込んだ。
 「明日、一緒に散歩でもするか。川でも探しに。」
 「河原を探すのは電車じゃないと無理だ。」
 「別にそれでもいいじゃねえか。」
 花京院の腰に両腕を巻いて、骨の硬い肩の辺りにごりごりとあごの先を押しつけながら承太郎は言う。花京院がまた笑う。湯が揺れる。
 「河原に下りて、君の絵でも描くか。」
 自分に注がれる、花京院の真剣な視線を久しぶりに思い出して、承太郎はそこで目を細めた。
 帰り道に、人通りの少ない裏通りを探して、暗くなったそこで、そっと指を絡める。人の来ないのを確かめながら、肩を寄せ、わずかにゆるめた歩調を揃えて、そうやって一緒にいた、高校生のふたり。ポケットの小銭を一緒に合わせて、通りすがりの自動販売機で買った缶コーヒーを分け合う。あの時ふたりが吐いた息も真っ白だった。
 そうだ、あの時は、一緒に外を歩けるだけで幸せだった。花京院が退院し、まともにひとりで歩けるようになり、学校へ戻って、一緒にいる行き帰り、他愛もないことを話して、くつくつ笑い合った。
 自分は今充分満ち足りているのだと、承太郎は思った。
 花京院が承太郎の胸から背中を浮かせ、そこでぎこちなく体を回した。膝立ちに、承太郎に正面から向き合って、そして濡れた両掌が承太郎の頬へ添う。
 「高校の時に、美術準備室で、中から鍵を掛けて──覚えてるか承太郎。」
 おう、とちょっと唇の端を下げて承太郎はうなずいた。ふたりの重なった視線に、自然に潤みが増す。
 「ハイエロファントは、いつ人の心ん中まで読めるようになったんだ。」
 また花京院の腰に両腕を巻きつけながら、承太郎は指先で背中の傷跡の縁をなぞった。
 「君の心が読めるのは、僕のハイエロファント・グリーンじゃない。」
 互いの心が読めるのは、こうやって、隙間もなく肌を合わせて、躯を近寄せているからだ。皮膚から伝わる心の内側は、もう互いにはすっかり透明だ。
 恐らくそれは、花京院のこの、皮膚の薄くなった傷跡のせいで、ふたりがもっと近く寄り添えるからだろう。
 承太郎が腕の輪を縮めると、花京院が少しだけ抗うように体をねじる。
 「ここは、狭いし、湯が冷める。」
 そう言う唇を、承太郎は素早くふさいだ。
 狭さは、ぴったりと抱き合う口実だったし、冷めかけた湯は、抱き合って温め合う口実だった。
 手足を折り畳んで絡めて、ふたりが揺れるのに合わせて湯が波立つ。花京院の傷跡に承太郎が触れると、それを真似るように、花京院も承太郎の同じ場所に触れて来る。
 もう少しと、この狭さを惜しんで、湯から出るのを引き延ばして、ふたりは明日の天気を気にし始めていた。
 明日はきっと良い天気だろう。長い散歩にちょうどいい、絵を描くのに陽のたっぷりと降り注ぐ、あまり寒くない日ならいい。寒くてもきっと大丈夫だ。ふたりのいるところは、いつだってこうしてあたたかい。冬の最中に、ここだけは、永遠の春のようだった。



* 2012年発行承花小説アンソロ参加再掲。

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