Baby Blue


 グレーのパーカーの、みぞおちの辺りまで下がったジッパーのところから、ちょこんと顔を出しているのは、まぎれもなく子猫だ。花京院の薄い腹から出ているそれは、まるで花京院の体の一部のようにも見えた。そう言えば、ちょうど腹の傷跡の辺りだなと思ってから、そこから生えたわけでもないだろうと、おそろしく下らないことを考える。その程度に、承太郎は混乱していた。
 子猫は、承太郎を見ても臆しもせず、口を開けて、鳴いた真似をした。あるいは、鳴いたけれど声が小さくて聞こえなかったのかもしれない。
 腹の辺りを両手で押さえて、子猫を支えて、花京院が、狭い玄関に立ったまま、上目遣いに承太郎を見る。
 子猫も一緒に、承太郎を見上げた。
 黒と茶色のまだらの、きっと目はまだ青いのだろう子猫だ。目はかすかに開いているけれど、涙で濡れてほとんどくっついたままだ。口の辺りはほんのりと明るい桃色で、その辺りは毛色も薄い茶色だ。
 三毛ではない。キジトラとか、そう言った毛色でもない。汚れているわけではないだろうけれど---それともやっぱり、汚れているのか---、どうしても汚らしく見える毛色だ。それでも、子猫というのは、それだけでおそろしいほど可愛いから、その子猫も、何だかよくわからない毛色をしているくせに、やっぱりとても可愛らしかった。
 「それは何だ。」
 承太郎は、至極もっともな問いを発した。
 指差して、うっかり声が低くなったのは、別に怒っているわけでも凄んだつもりもなかったけれど、承太郎のその声に、花京院がいっそう肩を落として、色の薄い瞳を左右にせわしく動かす。
 「ねこ、だよ。」
 これもまた、もっともな答えだ。
 中学生の国語のテストだったら満点のもらえそうな答えだったけれど、残念ながら花京院も承太郎も、中学はとっくに卒業してしまっている。
 「猫だな、確かに。」
 念を押すように、承太郎は花京院の答えを繰り返した。
 「その猫は、一体どうしたんだ。」
 意地が悪いなと、自分で思いながら、訊く。けれどここが承太郎の住んでいる場所である以上、おそらくその質問は妥当なものだろうと思えたので、追及の手はゆるめないことにする。
 花京院の、いつも常に明晰な頭脳が、かしゃかしゃと音を立てているのがはっきりとわかった。何かを必死で考えている。承太郎を説得するための、何かとても心温まる話か、それとも涙を誘う話か、あるいは、同情せずにはいられないそんな話か、とにかく何か、花京院は必死で考えている。
 道端でひとりぼっちで泣いてた、くらいでは、承太郎が納得しないことは花京院は百も承知だろうし、第一その程度でほだされるほど、花京院もそう甘い男でもない。優しいけれど、できることとできないことの区別はつくはずだ。その花京院が、わざわざ子猫---どう見ても、捨て猫だ---を連れて来たというのなら、何かよほどの事情があるのだろうと、承太郎は、花京院への同情交じりに、そこまでひとりで考えていた。
 承太郎の方を真っ直ぐに見て、花京院が勢い込んだように叫んだ。
 「僕が生んだんだッ!」
 まるで撃たれたように、数拍間があった。
 なるほど、さすがの承太郎も、そこまでは予想がつかなかった。驚いたけれど、それは押し隠して、表情を変えないことに、こっそり必死になる。
 花京院はずいぶん真剣な顔つきで、今自分が何を言ったのかきちんと自覚しているのかどうか、その表情からはうまく読み取れない。
 「・・・そうか。」
 静かにそう言ってから、この会話を録音しておけたら、一生花京院をからかえるのにと、とても残念に思って、そんなことを考えられる自分は、ずいぶんと余裕があるのだなと、花京院のパーカーの中でおとなしく抱かれている子猫を、承太郎はまた見下ろした。
 「どこのどいつが父親だ。」
 まさかそんなことを訊かれるとは思っていなかったらしい花京院が、明らかな焦りを目元に刷いて、また何か必死で考え始める。今度はあまり時間を掛けずに、体をねじって、閉まった背後のドアを、うろうろと指差し始めた。
 「えーと・・・承太郎、知ってるか、その・・・駅前の・・・。」
 歯切れが悪いのは、しゃべりながら続きを考えているからだ。こんなにうろたえた花京院を見れることが珍しくて、承太郎はうっかりそれに夢中になる。
 自分で指差した方向を見て、子猫を見て、承太郎を上目に見て、そのたびに、一言一言、ぼそぼそとこぼす。要領の悪いしゃべり方をする花京院というのは、その腹に抱かれた子猫よりももっと可愛らしく、承太郎の目には映っていた。
 「えーと・・・居酒屋、知ってるか、承太郎。えーと、あー、あそこ、何て言ったっけ・・・えーと、あの居酒屋、名前知らないんだ、でも駅前の、よく通るんだ、入ったことはないけど、あそこは通り道だから、えーと、知ってるんだ、あの店、えーと、名前は・・・」
 「名前はいらん。居酒屋がどうした。」
 いつまでも話が進まないことを心配して、承太郎は助け舟のようなものを出した。花京院はそこで断ち切られた自分のひとり言---まさしく---の語尾を拾って、承太郎をちょっとまぶしそうに見る。何度も瞬きするのは、これもまた、少々やましい証拠だ。
 「えーと、知ってるのか承太郎、あの居酒屋、駅前の。とにかくその居酒屋の路地に、猫がたくさんいるんだ。店の人たちがエサをあげてるらしくて、何匹もたむろってるんだ。いつ見てもいるんだよ、多分親子とか兄弟とか夫婦とかそんなのだと思うんだ。見たことあるかい承太郎。」
 承太郎に訊いているふりをして、実は時間稼ぎをしているのだと知っているから、承太郎は花京院の問いにはわざと答えなかった。
 「その中にいる、でかいの、知ってるかな、白と、えーと・・・黒のでかいのがいて、多分あの辺りのボス猫だと思うんだ。白黒のでかいの、あれが父親だよ。白黒の、知ってるかい承太郎。」
 やっと答えにたどり着いた後も、往生際悪く承太郎に話を振ってくる。
 承太郎は、花京院が最初の質問を覚えていて、結局きちんと答えたことに驚いていた。
 それから、花京院が生んだと言った子猫の父親が、承太郎だと言うのではないかと思っていたので、ちゃんと白黒の猫が父親だと言った花京院に、実はほんの少し腹を立ててもいた。
 「あの白黒の、態度のでかい、目つきの悪いヤツか。」
 花京院が、まだ後ろを指差したまま、ひどく驚いた顔をする。
 「・・・知ってるのか、承太郎。」
 承太郎は、憮然とした態度を崩さずに、胸の前で腕を組んだ。
 花京院が知っている猫のたまり場は、承太郎もちゃんと知っている。花京院が、エサをやりはしないにせよ、そんなところに始終通って、野良猫たちを眺めているのもよく知っている。どの猫が花京院に懐いていて、花京院はどの猫に懐いてほしくて、どの猫を敬意を払って遠巻きにしているのか、ちゃんと知っている。花京院と一緒に出掛けて、野良猫のたまり場に立ち寄る花京院に何度か付き合ったことがあるからだし、あるいは、花京院が知らない間に、そんな花京院をたまたま何度も見かけたことがあるからだ。
 どういう勢いか、拾ってきた子猫を自分が生んだと言って、そこに突っ込まない承太郎に対して引っ込みがつかなくなった花京院が、白黒のボス猫に濡れ衣を着せて、しかもその白黒ボス猫を、承太郎がちゃんと知っていることに驚いて墓穴を自らさらに深くしているのは、とても花京院らしくもない眺めだ。それを、とてもいい眺めだと思って、承太郎は、ひとりで苦笑している。
 花京院の言っている白黒のボス猫というのは、盛り上がった肩、太い足、折れ曲がった尻尾の先は黒で、白い部分はすっかり灰色に汚れてしまっている、首回りのとても大きなオス猫だ。顔や耳に傷がないところを見ると、ケンカも相当強いのだろう。人間すら睥睨するような態度の、堂々たる猫だった。人に懐く素振りはまったくなく、他の猫たちも、彼を遠巻きにするような態度を取る。あの猫なら、あちこちに子猫がいてもおかしくはない。もっとも、あれが父親として、一体こんな毛色の子猫が生まれるのかどうか、承太郎にはわからなかったけれど。
 子猫は、少しばかり情けない顔で自分を見下ろしている花京院を見上げて、みゃあと鳴いたつもりか、口を大きく開ける。あるいは、腹が減ったと言っているのかもしれない。
 牛乳をやっても大丈夫だろうかと、そう思いながら、承太郎はひとまず組んでいた腕をほどいて、後ろへ一歩下がった。
 「とにかく上がれ。てめーが拾ったんなら、責任持って飼ってくれるヤツ探すぞ。」
 もう背中を向けて部屋の中へ戻りながら、承太郎はぶっきらぼうに言った。
 ばたばたと靴を脱ぐ気配がして、花京院が後を追ってくる。
 「手伝ってくれるのか承太郎。」
 狭い廊下で、キッチンのそばを通りながら、自分と肩を並べてくる花京院を、承太郎はからかいの笑みを浮かべて見下ろした。
 「てめーが生んだんなら、おれにも責任があるんじゃねえのか。」
 まだ子猫を、パーカーの中に抱えて、花京院が思わずその場で足を止める。そして、やっと頬を真っ赤にして、
 「こ、言葉のあやだろッ!」
 不思議そうに、花京院と承太郎を交互に見つめる子猫と同じくらい、照れた花京院も可愛らしかった。
 ようやくパーカーの中から引きずり出されて、花京院の手の中にすっぽりとおさまってしまった子猫が、わずかに開いた青い目で承太郎を見て、みゅうと小さく鳴く。
 ありがとうと、そう言っているように聞こえて、承太郎は、思わず子猫に微笑み返していた。


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