綺麗な月
車の音や人の気配がないと言う意味でなら、砂漠の夜はとても静かだ。昼間の暑さが嘘のように気温が下がり、しっかりと毛布にくるまれながら、寝返りのたびに寝袋の下で、砂がざりざりと音を立てる。それ以外にも、虫や動物の動き回る音で、砂漠の夜は存外騒がしい。
野営は夜露を浴びて、普通に寝るよりも疲れるので、とにかくきちんと睡眠を取らないとと、思えば思うほど目が冴える。羊を数えるのにも飽きて、花京院はとうとう体を起こして寝袋から抜け出した。
ぐっすりと眠っているらしいジョセフやポルナレフを眺めてから、自分からいちばん遠い寝袋が、無造作に脱ぎ捨てられていることに気づく。
眠れないのは、自分ひとりではなかったようだ。
完全に起き出して、まだ微風に消されていない足跡を、花京院はさくさくと追った。月のない夜だったけれど、凄まじい星の数で、足元は充分に明るい。
ぽつんと、けれど背筋を伸ばして空を見上げている承太郎は、歩幅の大きな足跡の先にすぐに見つかった。
「承太郎。」
静寂に敬意を示したように、必要もなく、声が低くなる。すぐに振り向いた承太郎が、花京院に、こっちに来いとあごを振る。
「君も眠れないのか。」
承太郎が肩をすくめる。その隣りに並んで、花京院も空を見上げた。
「明るすぎて眠れねえ。」
「僕は静か過ぎて眠れない。」
街灯だらけの道路の方がよほど明るい。けれど、承太郎たちの馴染んでいる明るさとは違う月や星の明るさは、不慣れな目を刺してくる。
雑音も同じだ。慣れない無音と馴染みのない物音と、けれど眠りを妨げられるのは、それほど不愉快ではない。
「すごい星だな。」
承太郎は、さして感動しているという風でもなく、両手をポケットに突っ込んで、いつものように胸を反らして空を見上げている。花京院が感嘆したように言うのに、ちらと視線を寄せて、またちょっとだけ肩をすくめた。
花京院は、どこかに星座でも見えないかと目を凝らす。見える星の数が多過ぎて、見慣れた形には線が繋がらず、この位置からはどんな星座が見えるのか、知らないのを残念に思う。
「星で明るいなんて初めてだ。本でも読めそうだな。」
会話のつもりでもなく言ってから、花京院は承太郎が自分の横顔を見つめているのに気づく。
「なんだ?」
また何も言わず、承太郎はただ軽くあごの辺りを振る。別に、と示した後も、花京院を見つめるのはやめない。
花京院は、承太郎の真似をして肩をすくめ、また星空に視線を戻した。
しばらく花京院を眺めた後で、やっと承太郎もまた空を仰ぎ、ふたりはそうやって、並んで空の星を見上げていた。
じっと見つめていると、酔ったみたいに頭が揺れているような気分になる。
地球の自転で、星は確かにゆっくりと流れているけれど、それはそうだとはっきりわかるような動きではなく、それでも眺めているうちに、自分たちか空のどちらかが、右と左、どちらかの方向へ、流されているように思えて来る。
足元を確かめるために、花京院は2、3度深く瞬きをした。
夜空の色に圧倒されながら、夜明けの来る方向へ視線をずらし、あちらから変わるはずの色が今見えないかと、ちょっと目を細める。
その方向が、たまたま承太郎のいる方で、そうと意図せずに、承太郎を横目に見る羽目になった。
「なんだ。」
今度は承太郎が言う。
「いや、別に。」
慌てたように花京院が答えると、承太郎はにやっと笑って、また真っ直ぐ空を見上げる。
静かだった。他に人の気配はない。世界は、夜空と砂に塗り分けられて、その中で、ふたりは小さなふたつの点だった。
「花京院。」
不意に、承太郎が呼ぶ。
「なんだ。」
花京院の方は見ずに、空を仰いだままだったから、花京院も、承太郎の方を向かなかった。
何か、言葉を探すような空白が2拍あって、それから承太郎が先を続けた。
「月が綺麗だな。」
思わず、承太郎の方を見る。見ながら、横目で空を確かめた。相変わらず、今見えるのは星ばかりだ。
「月なんか見えないぞ承太郎。」
承太郎が、瞳だけを動かして、じろりと花京院を見る。それから、口元が、ひどくおかしげに曲がった。
「漱石は嫌いか。」
また空に視線が戻る。承太郎は、それ以上何も言わない。
そうして、ぽかんと承太郎を見つめて、花京院はやっと承太郎の言った意味に思い当たって、突然頬を赤らめた。
「・・・太宰のファンなんだ。父さんが。」
何か言わなければととっさに思って、口から出たのがそれだった。
自分は何を言っているのだろうと、焦れば焦るほど顔が熱くなる。もっとましなことは言えないだろうかと、考えても頭が回らない。
「き、君は、英語の方が得意だろうと思ってた。」
しどろもどろに言うと、承太郎がちょっとムッとして、帽子のつばを引き下げる。
「国語の成績も悪かねえぜ。」
きっとそうだろう。こんなところで、夏目漱石の話など持ち出すくらいだから。
承太郎の大きな体に、学校の机はきっと小さくて困ることだろう。広げたノートにかがみ込むようにして、細い鉛筆を今にも折りそうに大きな手に持って、誰かが朗読する夏目漱石に、こっそり耳を傾けている承太郎を想像して、花京院は心の中で小さく笑った。
平凡な、ただの高校生であるふたり。そんな互いを、ふたりはまだ知らずにいる。
笑いが去って、花京院は空に語りかけるように、小さくつぶやいていた。
「本が、読みたいな。」
そう言ったと、自分で意識しないひとり言だった。
聞き取った承太郎が花京院の方を向く。ふたりの間で、何かが通じ合った。そんな風に、冷たい空気が揺れた。
「音楽が聞きてえ。」
承太郎の、いかにも恋しげな言い方に、思わず深くうなずく。
「同感だ。」
それは、かすかな、ほんとうにかすかなホームシックの現れだったけれど、昼間、他の誰かがいる時につぶやくわけには行かない、そんな気持ちだった。
そう感じるのは自分だけではないし、それを口にするのは不謹慎と思うのも自分だけではない。自分だけではない。誰かがそばにいる。ひとりではない。
1歩半分の距離を開けて、ふたりは並んで空を見上げて、今同じことを感じている。そのことが、花京院をひどく素直にした。
「・・・日本で見る月も、きっと綺麗だろう。」
今度は、承太郎が花京院の方を見た。花京院は承太郎を振り向かず、相変わらず空を見上げて、見えない月を探している振りをした。
「・・・そうか。」
「ああ。きっとそうだ。」
承太郎が足元に目を伏せる。
星明かりではさすがに影は薄く、ほとんど色のないその形を、視線で追っている。
不意に、承太郎は広い肩を回した。
「戻るぜ。」
「ああ。」
いつかもう少し、わかりやすく伝え合えるだろうか。早足に、半歩先へ進む承太郎を追い駆けて、花京院は思う。 高さの違う肩を並べて、さくさくと、足音たちが眠っている皆の方へ向かう。
きれいに揃ったふた組の足跡を、星明かりが白々と照らしている、月の見えない夜だった。