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君だから

 承太郎の唇が脇腹へ当たる。そうされると、肋の間に涼しい風が通り過ぎてゆく気がして、花京院はいつも肩を縮めるようにしてそのそよ風をやり過ごす。
 承太郎の体の重みが、あちこちへ移動して、そのたびベッドが軽くきしんだ。普通に男ふたりでも少々ベッドが可哀想だと言うのに、花京院はそれなりに平均以上の体格だったし、承太郎は完全に規格外だ。
 いくら身に何も着けず、そのためではなくてもできるだけ身軽になっていたところで、ベッドにきしみは一向におさまらない。
 そのきしみの音からきちんと耳の神経を外して、花京院はできるだけ承太郎の動きに集中しようとする。だって、承太郎に悪いじゃないか。自分のマナーの悪さを内心でたしなめて、花京院はゆっくりと瞬きしながら体を反転させ、きちんと承太郎の方へ向き直った。
 両腕が、すぐに互いの躯に絡む。唇がこすれ合って、こじ開けるようにしなくてもごく自然に半ば開いて、舌先がほとんど同時に絡んでゆく。馴染み切ったタイミングだ。互いの手順も癖もすっかり飲み込んで、こうすればこう相手が応える、相手はこうされるのが好き──なはず──だと理解して、それでも抱き合うたびに小さくても新しい発見があるのが、花京院には常に驚きだった。
 汗に濡れた皮膚が、重なってこすれるとひきつれて、うまく滑らずに時々痛む。派手な動きもなく、辺りをはばかる高い声もそうひんぴんと起こるわけでもなく、恋人同士の秘かな営みと言うのは至って地味なものだ。
 映画みたいにはならないものだな。花京院は、耳朶を噛まれたお返しに、承太郎の耳の流線に歯を立てながら、またよそ事を考えている。映画のように優美で惚れ惚れするようなもの──承太郎の体は別だ──でもなければ、下世話に作られたポルノ映画みたいに、やたらと大仰に騒がしいものでもない。自分たちの姿だけでなくても、誰の姿であっても、奇妙な形に折り畳まれて絡み合った体と言うのは、どこか滑稽なものだ。
 絵を描く花京院の審美眼は、正直なところ己れの裸体を直視することを許せないのだけれど、これが承太郎となれば、何時間でも眺めていたいような気分になる。
 長い手足、筋肉の線のはっきりと見える全身、貧相さのない腿や腰の辺り、かと言って肩や首が化け物じみているわけでもなくて、東と西のほど良く交じり合った結果の、ほとんど奇跡的なバランスのように花京院には思えた。
 そのことを考えながら、承太郎の体を、これ以上は近くに見れないだろうと言う近さで眺めて、花京院はその胸や肩に触れる。首筋に掌を当て、うなじへ指先を添えて、汗に湿った髪の毛の先を、爪の根元の辺りへ絡め取る。
 自分たちの滑稽な姿のことは今は放念して、ただ承太郎の皮膚の、恐ろしいほど心地良い感触に、花京院は喉の奥でため息をこぼした。
 これは承太郎とだからだ。誰に触れても、きっと他人の皮膚と言うのは心地好いものだろう。けれどこんな風に、自分の素肌も重ね合わせて触れ合わせたいと思うのは、これは承太郎だからだ。
 指先に時折触れる傷跡。汗の吹き出る熱くなった膚の上にうっすらと赤みを帯びて浮き上がって、指で触れる以上に確かに、そこに在るのだと花京院に伝えて来る。こんな風にならなければよくは見えないその傷跡たちにも、承太郎へと同じほど親しみを覚えながら、承太郎が、奇妙な熱心さでいとおしさを表す自分の腹と背の傷跡も、今は血の色を濃くさせているだろうと花京院は思った。
 承太郎が、それを花京院の一部だと言うのと同じだけ、承太郎の傷跡もまた承太郎の一部だ。それがなければ今の承太郎はない。こうして花京院が抱きしめている承太郎そのもののように、花京院の腕や胸の皮膚に、承太郎の傷跡がひとつびとつ触れて来る。
 その感触が、何よりも一緒に抱き合っているのだという証拠のように、もう流れる血を連想させることはない、乾いてきちんと塞がった傷のその名残りは、互いの今の健やかさを確かに保証する。健やかな体と健やかな心、そして、様々な犠牲の後に、それでも確かに健やかになったこの世界。
 まだ少年の身で、平凡と言うことがどれほど貴重かと、身を持って思い知ったまだ年若いふたりだった。
 平凡と言うことは退屈と言うことでもある。そして、その退屈さこそ、健やかな穏やかさのあかしだ。
 承太郎の手指に促されて、花京院は脚を開き、躯を平たくして、自分の胸の前に承太郎が倒れ掛かって来るのを待った。
 ゆるやかに慣らされた躯に、承太郎が繋がって来る。わずかな強引さはどうしても消すことができず、そうしなければならないのは、これがまったく完全に自然──と、外の世界は言う──と言うわけではないからだ。
 潤うわけでもなく、自然に開いて承太郎を待つわけでもなく、それでも無理を強いても、ふたりはそうしたいと思って、そうし続けている。
 これも、承太郎だからだ。誰でもいいわけではない。承太郎だからだ。花京院がそれを許すのは、承太郎だけだった。
 ゆっくりと揺すぶられる躯。正直なところ、花京院には少々退屈な時間だった。決して長過ぎはしない。花京院を痛めないように、傷めないように、承太郎は驚くほどの忍耐強さで事に掛かるし、決して自分勝手に先を急いだりもしない。花京院がひと言言えば即座に止める準備はいつでもできている。花京院は、それが口先だけではないことをきちんと知っている。
 だからこそ、承太郎がこうしたいのだと言えば、ああそうしようと、花京院は素直にうなずくことができた。
 星の数ほどいる女の子たちの、どの子でもよりどりみどりだろう承太郎が、わざわざ花京院とこうしているのは、
 「てめーに惚れてるからに決まってるだろう。」
と、承太郎本人に極めて簡潔に説明され、何だ、そうだったのかと、花京院はきょとんとするしかなかった。
 気持ちの悪い片想いだと思っていたのに。これほど迷惑な想われ方もないだろうと、珍しく深刻に──承太郎への、想いの深さの分だけ──悩んでいたのに、その手を伸ばして来たのは承太郎の方だった。
 何だ、そうだったのか。
 悩んで損したな。次の瞬間そう思って、花京院はひとりで胸の中で自分を笑った。
 だから花京院は、些か退屈なこの時間を、承太郎には黙って耐えている。いや、耐えていると言うのは嘘だ。この退屈さすら、承太郎のすることならすべていとおしい。
 承太郎が動く。花京院を揺すぶって、内臓の内側へ触れて、こすり上げれば上がる熱は確かにあるから、それを何とか背骨の端から脳の裏側辺りへ繋げて、花京院は承太郎のために、こうするのが気持ち良いのだと振りだけでも見せて、そうやって承太郎へ何かお返しでもしているような気分でいる。
 いつ終わるかなと、実はそんなことを考えているのだと言うことはけぶりも見せず、あるいは、繋げた躯から脳の中身も筒抜けなのかもしれないと思いながら、花京院は、承太郎の吐く息の短さに合わせて、自分の呼吸も短く切る。
 気持ちが良いわけではない。むしろ我慢している小さな苦痛の方がはるかに多い。それでも、承太郎がそうしたがると言うことと、そうやって自分の内に承太郎を感じることが嫌いではないのだと言うことと、だから花京院は、むしろ上にいる承太郎をそそのかすように、足首の辺りで承太郎の腰を引き寄せさえする。
 承太郎の必死さに敬意すら覚えて、自分をできるだけ丁寧に扱おうとしている承太郎の手指の動きに感謝するからこそ、花京院は苦痛と退屈さえ承太郎に触れる心地好さの中に含めて、すべてをいとおしんでいる。躯の返す反応を、承太郎がどう読み取っているのかは分からない。伝わるなら、きちんとすべてが伝わっているといいと思いながら、花京院は承太郎の首を両腕の中に囲い込んだ。
 結果も過程も、何もかもすべて大事だ。気持ち良ければもっといい。けれど、別に気持ち良くなくても、それはそれで構わない。承太郎が花京院に触れたいと思っていて、花京院が承太郎に触れたいと思っていて、その結果がこれなら、それで構わない。
 だってそうじゃないか承太郎。
 押し込まれる速さと深さが、いっそう花京院の躯の中を進んで来る。承太郎の背を抱きしめて、今だけは振りではなく、花京院は熱くて短い息を、承太郎の胸に吐いていた。
 君だからいいんだ。君だからだ。
 承太郎だから、それだけで良かった。それだけで充分だった。それだけで深く満たされて、体の感じる苦痛は消し飛んでゆく。その苦痛さえ、承太郎が生み出すものと思えばいとおしくて仕方なかった。
 交わした心の先で、躯も重なってゆく。自然でないと言われても、ふたりにとってはごくごく当然の成り行きだった。
 抱き合って、こうして混じる退屈さをそれでも愉しくやり過ごして、自分と同じほど、こうすることを承太郎が楽しんでいるのかどうかは分からないまま、これがきっと、好きだと言うことなのだろうと花京院は思った。
 究極には自分のためにせよ、承太郎は花京院のために努力しているし、花京院は承太郎のために努力している。互いを歓ばせようと、少々的外れかもしれないにせよ、ふたりはこうして抱き合うことを続けて、つまらないからやめようとはひと筋も思わない。
 承太郎が終わるのはもう少し先だった。何とか膝の位置を変えて、躯を楽にしようとしながら、花京院は気をそらすために天井を眺めて、それから、ひどく一生懸命な承太郎の表情へこっそり目を凝らした。
 濃い形のいい眉の、左の端に小さな傷跡がある。皮膚よりもひと色濃く紅いそこへ視線を当てて、花京院は承太郎の懸命さに心の底から感謝した。
 わざとらしい声を立てるのは、承太郎に失礼だと思うから、少し荒くなる息を承太郎の耳元へ近づけるだけだ。
 互いの手順のつたなさも、様々なぎこちなさも、好きだと思う気持ちの前にはどうでもよくなる。ふたりでいられるなら、そこは即座に楽しい時間と場所になる。
 いつか、ふたりがもっと大人になって、こんなことにもすっかり馴染んで、飽きるほど同じ手順を繰り返した後になれば、苦痛などかけらもなくあらゆる瞬間を愉しめるようになるのだろうか。
 苦痛の表情を隠すために、花京院は承太郎の引き寄せて唇を重ねた。舌が絡むと、内臓を押し上げられる痛みが少しだけやわらぐ。
 そうして、このまま変わらないとしても、自分はきっと承太郎とこうしたがるだろうと思った。
 君だからだ。また思う。何もかも、承太郎だからだ。
 君とだけだ。承太郎だから耐えられる。耐えたいと思う。すべてがいとおし過ぎて、瞬間、頭の後ろが真っ白になったような気がした。
 承太郎の熱の波が、ゆっくりと引いてゆく。粘膜を引き出される、気持ち悪いのかどうなのか、いまだよく分からない、もうすっかり馴染んだ感触が、背骨の根を引きずって去って行った。
 承太郎が大きく息を吐く。花京院の胸に頭を乗せて、だらりと腕を投げ出し、その承太郎の頭を両手で抱え込んで、花京院は飽かずに撫で続けた。
 好きだと言う代わりに、承太郎の、汗に濡れた髪に口づける。体を起こした承太郎が、終わった後の礼のつもりか唇を寄せて来た。
 まだ熱に潤んだ濃い深緑の瞳に向かって、花京院は唇さえ動かさずに、喉の奥でだけ、君だけだとつぶやいていた。

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