憂鬱



 年に何度か、花京院が奇妙に不安定になる時期がある。
 春先と秋の終わりと、そして年の終わり頃、花京院に限ったことではなく、人は太陽光線の強さや、日照時間の長さや、あるいは気温の変化でいくらでも仮性の鬱になる、案外と脆弱な生物だから、それはそういうものだと受け止めて、気鬱になどまるきり縁のない承太郎は、だからと言って花京院を特にいたわりもせずに、ただその小さな嵐が治まるのを、愚痴ひとつこぼさずに待っているだけだ。
 春先と秋の終わりは、季節の変わり目だからと言ってしまえるのだけれど、年末と言うのはどういうことだと、しばらく頭を悩ませたことがあった。そうして、花京院の、やたらと後ろ向きになる言動から承太郎が拾い上げたのは、家族や恋人という、花京院には似つかわしくもない、陳腐なキーワードだった。
 なるほどと、不謹慎なほど納得した表情で、承太郎はあごに指先を当てる。
 子どもの頃なら、親の後ろにくっついていればいい。家族だけで過ごすも、親戚を訪れるも、あるいは親の知人宅へ出掛けるも、子どもに選択権はない。決めるのは親だ。けれど大人になれば、年末年始を誰とどう過ごすというのは、本人次第だ。しかも、親以外に、自分自身の家族がいるという可能性もある。
 子どもの躾けは極めて保守的だったくせに、性根のところで大らかでさばけた承太郎の家族は、花京院と承太郎のことをほとんど反対の意も示さずに受け入れ、一方花京院の家族は、承太郎を存在しないものと取り決め、花京院の友人としてすら認めないという宣言をし、花京院の怒りを買った。以来、承太郎は彼らに一度も---一度しか---会っていないし、花京院は自分を身寄りのない人間だと、いまだ消せない怒りを込めて、公言している。
 とは言え、そうだと花京院自身が振舞っているほどは、彼は薄情な人間ではなく、むしろ家族に向けられた怒りは、愛情の深さゆえのものだ。冷血というならむしろ自分の方だと、どこか爬虫類を思わせる花京院の風貌の、その下に流れる血が、皮膚を焼くほど熱いのを知っている承太郎は、花京院の家族との絶縁状態を、ほんの時折、申し訳なく思うこともある。
 世間が家族と過ごす時期に、花京院は、血の繋がりなどない承太郎の家族を訪れ、そして、外に出て、承太郎とふたり一組と振舞うことは許されない。実質が、承太郎と家族であっても、それを公的にする手段もなければ、道徳はまだそれを許さない。
 世間に憚る関係には、冷たい北風が吹く時期だ。そしてそれが、花京院の心も凍るほど冷やしてくれる。迷惑な話だと、承太郎は思う。
 何なら、自分か花京院のどちらかが女装でもして外に出るかと、少しだけ真剣に提案をしてみようかと思ったことがあった。けれどそんなことをするなら、花京院は舌を噛み切りかねないし、承太郎の体格で女の格好は、目立つことこの上ない。世間の注目を浴びるのは、ふたりの本意ではないから、その案は、花京院の耳に入れる前に立ち消えにした。
 めんどくせェ。
 思い切って同性愛者が群れて暮らすアメリカ辺りに移住でもするか。あるは同性婚がとっくに認められている、オランダか北欧辺りか。
 「君、オランダ語なんかできるのか? フィンランド語は世界で一番難しい言語なんだぞッ! 大体どこも平均身長の高い国ばかりじゃないかッ! 君そんなに僕の身長コンプレックスを刺激したいのかッ!」
 日本人にしてはかなり背の高い花京院が、ソファにあったクッションを、ハイエロファントに投げつけさせた。どこにいようと大男の承太郎は、スタープラチナにそれをよけさせて、やれやれだとため息をつく。
 日本人てのはめんどくせェなと、半分だけ日本人の承太郎は、藪をつついて大蛇を出した野暮を悔やんで、とりあえずコーヒーでもいれようと、キッチンに向かって肩を回した。


 男ふたりの所帯で、年末年始の準備など大してあるわけでもないのだけれど、それでも買い物の用はあって、大した距離でもないし、大した買い物でもないと、ふたりは肩を並べて歩いて出掛けた。
 今でもうんざりするくらいなのに、これから人出は多くなる一方だ。クリスマスと正月に浮かれて、誰も彼もふわふわと実体なく見えるこの時期、路上にはろくなすき間もなく、ふたりはいつもよりも体を寄せて歩いているけれど、両手はそれぞれ、しっかりとジャケットのポケットに差し入れられている。花京院はマフラーでしっかり鼻先まで覆って、その間から白い息を吐いていた。
 「寒いなあ。」
 もごもごとつぶやく声が、妙に上っ面なのは、機嫌があまり良くないせいだ。花京院のこの気鬱は、正月が終わるまで続くのだろうかと、それまでの日数を数えようとして、承太郎は軽く頭を振る。特効薬があるわけでもなく、花京院自身があまり愉快ではないだろうこの状態に、承太郎まで引きずられてしまっても仕方がない。
 なるようにしかならんと、承太郎も、自分の吐く真っ白い息を視線で追った。
 そうして、花京院が、ちらちらと流れる人込みを見ているのに気づく。普段なら、真っ直ぐ前しか見ないくせに珍しいと、花京院の目の動きを追って、その先にあるものを見定めようとする。
 小さな子の手を引いた親子連れ、腕を組んで、世界で一番幸せだと誇示して歩く---男女の---カップル、楽しげに声を張り上げている、まだ幼げな男たちのグループ。
 通り過ぎるたびに、マフラー越しに吐き出されている白い息の量が増えている気がするのは、きっと承太郎の気のせいではないだろう。
 うらやましいかと、直に訊けば、何のことだいととぼけるに決まっている。張りついたような笑顔をわざわざ浮かべて、何言ってるんだい承太郎と、痛々しいほど明るい声を上げる。
 花京院の仮性鬱は、承太郎の神経を尖らせることはしないけれど、無理に明るく振舞おう---そうやって、暗くなる気分を明るくしようと、必死に---とする姿が、滑稽なくらいに芝居がかっていて、もういい、やめろと、人目もはばからずに抱きしめたくなる。
 そんなにつらいなら、家族のところへ帰れと、そう言うことはできた。少々無理をして、普通に女性と付き合えば、こんな状況で、そんな表情を浮かべる花京院を、見ずにすむことは間違いない。
 けれど、あの家族のところへ帰って、そんな普通の仮面をつけたところで、花京院は別の種類の痛々しさを身につけるだけだ。
 自分に正直に生きて、世間に傷つけられるのと、自分に嘘をついて、自分で自分を傷つけるのと、どちらを選ぶかの違いだ。
 少なくとも、自分のそばへいる方が、花京院自身には幸せなのだと、承太郎は、自惚れでなく、思う。
 ちくしょう、と胸の中でひとりごちて、承太郎は、少し歩調をゆるめた。
 「花京院。」
 肩越しに、小学生くらいの男の子を連れた母親を見送っていた花京院が、承太郎を振り仰いだ。
 「スタンド出せ。」
 「え?」
 「いいから早く出せ。」
 何か、不審な気配でもあったのだろうかと、すっと鋭くなった視線を周囲に巡らせてから、花京院が静かにハイエロファントを背後に呼び出す。その隣りに、寄り添うように、承太郎は自分のスタープラチナを出現させた。
 「何だい、一体。」
 「何でもねえ。」
 怪訝そうに訊く花京院を、ちらりと横目で見てから、承太郎は、背後のスタープラチナに、ハイエロファントの手を取らせた。
 「何やってるんだ、承太郎。」
 スタンド同士が恋人同士のように、掌を重ねて、スタープラチナのごつごつとした指が、滑らかなハイエロファントの指にかかる。花京院が驚いて、ハイエロファントの腕が、逃げるように動いた。
 「誰にも見えやしねえ。」
 触れ合うスタンドの感覚は、それぞれの主のふたりにもきちんと伝わる。花京院は、ポケットに差し込んだままの掌に、承太郎のぶ厚い掌が重なるのを感じて、ぎゅっと手を握りしめた。
 「・・・変だよ、承太郎。」
 「うるせえ、黙ってろ。」
 スタープラチナの指が動く。指の腹をくすぐるように動くのに、花京院は、手首の辺りの筋肉が縮まるのを感じて、ひとりで頬を赤らめた。
 それから、スタープラチナは、空いた方の手でハイエロファントの頬に触れると、主たちの背後で、プロテクターに覆われて、直には触れられないハイエロファントの唇---の辺り---に、自分の青い唇を重ねた。
 「承太郎ッ!」
 花京院の手がポケットから飛び出して、口元を覆う。弾けるように足を止めた花京院の後ろで、ハイエロファントが腕を振り上げ、エメラルドスプラッシュを繰り出す仕草をする。慌てて飛びのいたスタープラチナが、ファイティングポーズを取って、青い唇を尖らせていた。
 「やめてくれよ、不自然だ。大体不謹慎だろッ、スタンドをそんなことに使うなんてッ!」
 マフラーがゆるんで、口元が剥き出しになっている。よく動く、横に広い薄い唇から白い息が吐き出される様が、存外色っぽくて、承太郎は花京院の少し上ずった声を、右から左に聞き流している。
 人込みの中で立ち止まって、何やら言い争いを始めたふたりに、けれど忙しい人たちは振り返りもしない。
 「相変わらず、頭の固ェヤツだな。」
 「固くて結構。君みたいに能天気になんか、頼まれてもなりたいもんかッ!」
 その方がいい。自分そっくりな花京院なんか気味が悪いと、花京院がいきり立てば立つほど、承太郎の口元には笑みが濃くなる。
 堂々としたくて仕方がないくせに、そしりを受け流せるほどはず太くはなれず、けれどそれは、傷つくのが怖い自分可愛さではなくて、すでに自分の家族から攻撃されてしまっている承太郎が、これ以上攻撃されることに耐えられないからだ。自分が傷つくのはかまわない。けれど、承太郎が傷つけられるくらいなら、僕は死んだ方がマシだ。真顔でそんなことを言ったのは、一体いつのことだったか。
 花京院がこんなことにこだわるのは、承太郎への罪悪感ゆえだと、承太郎はとっくに気づいている。花京院は、自分が承太郎を、こんなことに引きずり込んでしまったのだと、心の底から信じ切っている。
 僕はいいよ、自分が真っ当でない自覚がある。でも君は、いくらでも普通になれたのに。
 確かに、花京院ほどきちんと自覚があるわけではない。女性という生物に対して、ろくに好意すら抱けないという花京院ほど、同性だけに対する関心が強いわけではないけれど、花京院という存在に対する執着なら誰にも負けないと、承太郎は思う。
 選んだのはおれだ。
 だからこそ、いくら罵られようと、軽蔑されようと、殺されでもしない限り離れられないと、自分を恨みがましい目つきで見ている花京院に向かって、承太郎は、知らずにうっすら微笑んでいた。
 時を止める、自分のスタンドの名をつぶやく。小さな声で、それがかすかな白い息になって吐き出されたのを、自分の目で追って、そして、止めた時の中で、すべてが停止するのを見た。
 吐き出す息が、口元を白く覆って、空気に紛れる途中で凍りついたように動かない。あまりぐずぐずもしていられない、けれど案外と長いその間に、承太郎は足早に花京院に近づいて、身をかがめて、口づけをする。
 冷たい唇は、けれど柔らかくて、承太郎は、花京院の動かない瞳と視線の高さを合わせると、赤みの差した冷たい鼻先の、触れる近さのまま、
 「花京院、おれは、てめーに殺されてもかまわねえくらいに、てめーに惚れてる。」
 あと2秒と数えながら、もう一度、触れるだけの口づけをした。
 そうして、時は動き出す。
 花京院は、さっきまで1歩分向こうにいた承太郎が、目の前にいるのに驚いて、喉の奥からつぶれた声を出す。
 動き出した人たちに押されて、よろけた体が、うっかり承太郎の胸に寄りかかる形になった。
 「承太郎・・・時間を、止めたな。」
 自分を支える承太郎の腕に、けれど逆らおうとはせずに、まだ体勢を立て直せないふりをして、花京院が下から睨んでくるのを、承太郎は、さあなと笑って受け流す。
 花京院を、止まった時の中へ引きずり込むことはできないだろうかと、ふと考えて、その中で永遠に一緒にいたいと、そんならしくもないことを口にしたら、花京院は何と答えるだろうかと、承太郎は、花京院を支える腕に力を込めた。
 せわしく流れる人込みの中、今はふたりの周りだけ、時間が止まっていた。


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