青の君

 先にと勧められたのを固辞して、それでも一番最後のホリィの前に、花京院は風呂を済ませた。
 赤の他人、と言うだけではなく、大事なひとり息子──ジョセフ・ジョースターにとっては大事な孫──である空条承太郎を襲った敵だと言うのに、傷の手当てをされただけではなく、このままあっさりと解放するわけには行かないからという理由だけでもなさげに、結局今夜はこのまま空条家に泊まれ、何もかもは明日だと、そう短く言い渡されて、花京院は客間のひとつをあてがわれた。今は不在らしい、当主である承太郎の父親のパジャマも一緒に、だ。風呂の前に、それをホリィから笑顔とともに手渡され、花京院は面食らった。
 風呂でざっと眺めて、体のあちこちに大小様々アザを見つけた。触れれば痛む程度で、骨折や捻挫はなさそうだ。訊きたいことがあるから殺さない程度に、と言うことだけではなく、思ったよりも手加減された結果のようだった。
 それでも、肉の芽を取り去られた傷の疼きは軽い頭痛に変わり、みぞおちの辺りは、体を曲げ伸ばしすれば声が出る程度に痛む。その声を殺して着替えを済まして、花京院はすでに暗い長い廊下を、足音を消して渡る。
 風呂と着替えは、ハイエロファント・エメラルドに手伝わせて何とかした。とは言え、主が傷つけばスタンドも傷つく。痛みは2倍になるだけだ。今も、うっかり倒れずに部屋まで着けるように、ハイエロファントの助けを借りようかどうか、まだ迷っているところだ。
 皆もう寝静まっているらしい。どこに誰がいるのか花京院は知らず、恐らく奥の方か台所の方へいるだろうホリィに、パジャマの礼も含めて風呂が済んだとひと声掛けようかどうか迷って、初めての他人の家で、しかも屋敷と呼べそうに広い家の中を真夜中近くに歩き回るのもかえって迷惑かと思い直して、真っ直ぐあてがわれた部屋へ向かう。
 いくら広い家とは言っても、ハイエロファントを全体に這わせて、どこに何があって誰がいるか把握することなど、花京院には造作もないことではあった。けれど今夜はひどく疲れていたし、敵だと思われている自分が、偵察のようなことをするのもどうかと、助けられた形になった分の気兼ねもある。
 あまりにもいろんなことが一度に起こり過ぎて、正直なところ、少しばかり混乱もしている。
 肉の芽を取り除かれて以来、頭全体を常に包んでいた、ささやく声のようなものは消え、まるで霧でも晴れたように気分は落ち着いているけれど、代わりに、これからどうすればいいのだろうかと、つい考え込むのをやめられない。脳の奥が疼くようなかすかな頭痛が、よけいに焦りを生む。
 ジョセフは、空腹の方が大事だとでも言いたげに、何もかも明日だと言った。承太郎も、仏頂面のままそれにうなずいた。明日になればすべてがうまく行くと、芯から信じているわけでもないだろうに、それでもなぜか受け入れざるを得ない、ジョセフの、どこか面白げな口調。釣り込まれて、花京院も思わず小さくうなずいていた。
 その口調で、許されたのだと思い込めるほどお人好しでもなく、敵の刺客である自分の処分が明日に延びただけだと正確に理解して、だからこそ、花京院はホリィとジョセフの笑顔に戸惑い、そうして何より、自分を助けた承太郎に驚いている。
 もっともあれは、たまたま助けた形になっただけか。恐らくあの男は、自分の手で他の人間を始末することに慣れていないのだろう。喧嘩馴れはしていても、所詮は年相応と言うことだ。
 手加減したのは、殺さずにおこうという心づもりがあったからではなく、つまりは、いつもやっているだろう喧嘩の延長だったからだ。ごく普通の高校生──評判の不良ではあっても──である承太郎が、誰かを殺すために暴力をふるうという経験があるとは考えられず、剣呑な目つきの、自分よりはひと回りは大きな承太郎のことを思って、花京院は小さく微笑した。
 笑ったついでに腹が痛み、廊下の途中で足を止める。
 普通の高校生。自分とは違って。承太郎に向けていた微笑が、自分への苦笑へ変わり、花京院はまた、裸足の爪先をよく磨かれた板張りの廊下へ滑らせた。
 やっと部屋へ着くと、小さく明かりが残され、これも風呂の間にホリィが敷いてくれたのか、畳敷きの部屋の真ん中にふっくらと布団がある。
 急な来客──と思ってから、花京院はまた笑った──でさぞ迷惑だったろうと、思いながら布団に近づいて、畳の上に膝をつくために体をかがめようとして、花京院は思わず痛みにうめいた。
 床近くに体を伏せるのは、思ったより骨が折れそうだ。畳に向かって腕だけ伸ばしながら、痛む腹をかばうためにハイエロファントを呼び出そうとした。
 そうして、それよりも一瞬早く、自分の体を巻く太い腕を感じて、思わず肩越しに振り向くと、薄青い巨人が、自分の体を支えようとしているのを見て、花京院は思わず体を固くする。
 「おまえは・・・。」
 昼間見た時よりも、輪郭がぼやけ、向こうが透けて見えそうにやや薄い。主である承太郎は、これを何と呼んでいたろうかと、花京院は思い出そうとして目を細めた。
 殺気はない。ただひっそりと、花京院を抱いているだけだ。呼び出しかけたハイエロファントを元に戻して、花京院は、そろそろと承太郎のスタンドに体の重みを預けた。
 回された腕の確かさが変わらないのを認めてから、低い声で頼んでみる。
 「肩だけ支えてくれないか。」
 まるで外国語で話しかけられたとでも言いたげな、どこかきょとんとした表情を浮かべて、薄青い巨人は花京院を抱いた腕をそのまま動かさず、
 「僕の言うことがわからないのか。」
 思わず素の言葉で、花京院は承太郎のスタンドへ顔を近づけた。
 「生まれつきでないと言うのは、こういうものなのか。」
 伝わらないのを承知で、今は自分の中にいるハイエロファントに向かって尋ねるように、花京院は思わずつぶやいた。
 ハイエロファントが、通訳を頼まれたように、それをそのまま承太郎のスタンドに伝えると、やっとスタンドの瞳が動き、花京院のみぞおちを避けるようにその太い腕の位置を変える。
 どうやら、花京院が布団に入るのを助けてくれるつもりで現れたらしいのがやっとはっきりして、それなら主である承太郎は一体どこだと、花京院は思わず視線の先に承太郎本人の気配を探る。
 部屋の中にいるのは花京院──とスタンドたち──だけだ。それは間違いない。昼間対峙した時に、ほとんど一瞬も承太郎の傍らを離れていなかったところを見ると、このスタンドは主から距離を置いては出現できないタイプのようだ。それなら承太郎は、すぐ隣りの部屋にいるのだろうか。
 仕切りの襖の向こうで、承太郎はまさか徹夜で自分を見張るつもりかと、思ったところで、ハイエロファントが、違う、と思念を伝えて来る。
 承太郎はもう眠っている。ハイエロファントが言う。
 主が寝ているのに、スタンドが勝手に動き回っているのか。
 花京院が重ねてハイエロファントに訊くと、何やらスタンド同士で言葉──のようなもの──を交わしてから、わからない、でも承太郎は眠っている、とまたハイエロファントが伝えて来た。
 自分以外のスタンド使いに会ったことのない花京院には、他のスタンドの能力がよくわからず、主の意識無意識に関わらず、スタンドはたとえ夢の中でも主の意思を読んで出現するのかもしれないと、ひとまず自分を無理矢理納得させた。
 頼むから、おまえは僕が寝ている時に勝手にどこかへ行ったりしないでくれ。
 ハイエロファントにやや揶揄も含めてそう静かに言ってから、花京院はまた承太郎のスタンドの方へ向き直る。
 とりあえず、布団の上に降ろしてくれないか。
 今では、花京院をほとんどすくい上げる形に抱き上げてしまっている薄青い巨人に、ハイエロファント越しにそう頼むと、彼──と呼ぶのも奇妙な感じだ──は想像よりも丁寧な仕草で、言われた通りに花京院を下へ降ろす。
 「ありがとう。」
 声に出して言うと、何となく気持ちは通じるらしく、膚よりもふた色紺青に近いふっくらとした唇が、ほんのわずかゆるんだように見えた。
 今度は布団の中に入ろうと花京院が体をずらすと、そこでまたスタンドに抱き寄せられ、まるで子どものように、軽々と、持ち上げた布団の中へたくし込まれた。
 スタンドの大きな手に、病人か何かのように扱われながら、ひどい熱を出した子どもの頃を、花京院はふと思い出す。
 寒くないようにと、あごの下まできちんと毛布で覆われて、熱を確かめるために額に当てられる、母や父の手。心配そうに、ぐったりと息の早い自分を覗き込む、優しい目。
 同じだ、と花京院は思った。
 なぜだかはわからない。けれど確かに、このスタンドは自分をいたわろうとしている。
 なぜ自分を助けたのかと訊いた時に、承太郎はこちらに背を向けて、わからんと短く言った。素っ気なく、けれど決して吐き捨てるようではなく、敵に助けられて戸惑っている花京院以上に、敵を助けた事態に承太郎も戸惑っていた。
 これが、あの戸惑いの意味なのだろうかと、花京院は、承太郎のスタンドが首元まできちんと掛けてくれた掛け布団の中から、左腕を伸ばした。
 様々な濃淡の青に彩られた、その頬に触れる。体温はない。けれど彼は、主である承太郎によく似ている。花京院は、スタンドに微笑みかけた。
 「ありがとう。承太郎のところへお戻り。」
 そう言うと、スタンドはふっと顔を花京院の掌へ傾け、その掌に自分の大きな手を重ねて来る。名残り惜しげな様子が、言葉抜きに伝わって来て、まるで動物にでも懐かれた気分で、花京院は、青い手の下から自分の掌を引き抜いて、もっと腕を伸ばして頭を撫でてやった。
 自分を叩きのめしたスタンドが、今はその同じ手で自分を慰撫している。傷の痛みが、やわらいだような気がした。
 自分はもう、承太郎の敵ではないのだと思った。明日の朝に、それはもっとはっきりするだろう。何もかも明日だと、そうきっぱりと言ったジョセフの声が蘇る。
 ほんとうに、その通りだと思った。思いながら、もう一度、巨人の頬を撫でた。
 「おやすみ。」
 やっと、スタンドは花京院から少し体を遠ざけた。そうして、薄暗い部屋の空気の中に溶け込むように輪郭がさらにぼやけ、次第に闇そのものになってゆく。すっかり彼が消えた後に、わずかに青く、光のかけらのような輝きが数秒そこに残った。
 天井の小さな明かりを、ハイエロファントが消して、それから、花京院は承太郎が眠っているだろう部屋の方へ向かって、
 「お休み、承太郎。」
と、小さく言った。
 頭痛はいつの間にか消えている。今夜はここで、一体どんな夢を見るだろうかと、思いながら花京院は目を閉じる。
 まぶたの裏に、鮮やかな青が、静かに広がっていた。

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