朝の食卓


 空条家の日曜の朝は、コーヒーとオレンジジュースとパンケーキで始まる。
 それに、なるべくかりかりに焼いたベーコンと卵---焼き方の好みを、ホリィがわざわざ訊いて覚えていてくれている---を添えて、小さくて薄いパンケーキには、たっぷりのバターとメープルシロップを塗る。
 パンケーキには、たいていブルーベリーが入っていて、少しばかりの寝坊を許された承太郎と花京院は、ほとんど寝起きのまま、そんな朝食のテーブルにつく。
 けれど今朝は、ホリィはにこにことテーブルについたまま、キッチンで忙しく立ち働いているのは、承太郎の父親である空条貞夫だ。
 そして、目の前の大皿に盛り上げられているのは、クマの形のホットケーキだ。小振だけれどぶ厚くて、きちんと茶色に焦げている。クマの目は、どうやらチョコレートらしい匂いがする。
 思わず、花京院はちょっとだけ、テーブルの中央に向かって身を乗り出した。
 「ガキみてえなことするんじゃねえ。」
 妙に不機嫌に、承太郎が言う。花京院はちょっと頬を赤くして、慌てて椅子に背を戻した。
 「おい承太郎、パパの作ったクマさんのホットケーキが食べたいって言ったのはおまえだぞ。典明くんのことなんか言える立場か。」
 焼き上がったばかりのホットケーキを、新たに皿の上に乗せながら、貞夫が承太郎をたしなめる。
 「うるせえクソオヤジッ! 10何年も前のことを持ち出すんじゃねえッ!」
 にやにや笑うだけで、貞夫はまだ熱いフライパンをシンクへ置くと、ようやく椅子へ坐る。承太郎の目の前だ。ホリィの前には花京院がいる。
 この世で、承太郎とこんな和気藹々としたケンカができるのは、きっと貞夫だけだ。
 いそいそと皆の皿へホットケーキを取り分ける貞夫を見ながら、花京院は苦笑を隠せない。
 空条家へ出入りするようになってから、貞夫に会ったのは数回だけだけれど、貞夫の前になると、承太郎がやけに子どもっぽくなるのが、花京院にはおかしかった。
 貞夫は貞夫で、いつも承太郎をからかうような口調をやめずに、たまにはその矛先が花京院にも向かう。この年頃の大人の男に、親しげにされるのに慣れていない花京院だったけれど、人の警戒を解くのがやけに上手いのは、ミュージシャンという職業柄、短期で他人と接する機会が多いせいなのか、初対面からまるで年の離れた兄弟(あにおとうと)のような貞夫の態度に、気づけばすっかり心を開いていた。
 皿に、それぞれの取り分が盛られ、バターとメープルシロップがテーブルの上を回る。いつもは承太郎がまず手を出して、それから花京院とホリィが互いに譲り合う---それでもたいていホリィがいちばん最後だ---という順番になるのだけれど、今朝はまず貞夫がホリィにすべて手渡して、そこから花京院に回った。
 純日本人の花京院としては、こうなれば次は目上であり、空条家の当主である貞夫へ返すのが礼儀というもので、意図せずいちばん最後になった承太郎は、憮然と自分の皿と貞夫の皿を見比べている。
 当主手製のクマのホットケーキに彩られた、なごやかな、けれど殺伐ともした、日曜の朝の空条家の食卓だ。
 美味しいですと、世辞ではなく言う花京院の隣りで、承太郎は無言のままだ。
 貞夫は、自分の皿からあれこれ取り上げては、フォークでホリィの口元へ運ぶ作業に忙しく、ホリィはお返しだと、自分の皿から貞夫にあれこれ食べさせている。その合間に、口元にシロップがついてるだの、もっとベーコンは欲しいかだの、息子とその友人の存在はほぼ無視されて、夫婦はひたすらふたりの世界を築いている。
 なるほど、貞夫がいる時には特に、承太郎が花京院に平日でも泊まって行けと強硬なのは、こういうわけだ。
 あくまで他人の花京院にすれば、滅多と家にいない父親が帰って来ているのなら、親子水入らずを邪魔するほど不粋なことはないと、極めて日本人的に思うのだけれど、ホリィのせいなのか承太郎のせいなのか、それとも貞夫の性格か、この家では花京院は、下手をすると実の息子の承太郎以上に歓迎されている感すらある。
 それに甘えるのは、これもまた極めて日本人的に、どうかと思うのだけれど、承太郎が気の毒な気もするし、そして正直なところ、花京院は貞夫のことがとても好きだったから、礼儀知らずな自分の行動に、知らん振りを決め込んでいる。
 結局のところ、空条家は、花京院にとって、極めて居心地の良い場所であるということだ。
 承太郎は黙々と食べ、花京院はなるべく承太郎に話しかけ、ホリィと貞夫は幸せそうに見つめ合って、気づけは皿は空になっていた。
 オレンジジュースを一息で飲み干し、コーヒーのカップを抱えて、承太郎がひとり先に立ち上がる。機嫌の良い時には、うまかったと短く言い残すこともあるけれど、今朝はそれがあるはずもない。そのまま台所から消える背中を見送って、花京院も、ごちそうさまでしたと自分と承太郎の空になった皿を取り上げて、シンクの方へ向かう。
 「あら、ノリアキちゃんいいのよ、ワタシがやるから置いておいてね。」
 「いえいいですよ、ホリィさん、僕が洗いますから。」
 「あーいーよいーよ、オレも手伝うから。」
 立ち上がりかけたホリィの肩を押して、皿を取り上げながら貞夫が立ち上がる。
 「僕ひとりで大丈夫ですよ。」
 「オレの、たまーにできる家族孝行のチャンスだからね。」
 貞夫が、花京院の方へまとめた皿を差し出しながら、いたずらっぽく笑って見せる。そうですかと肩をすくめて、それ以上断らない。
 おいしかったわと言って、貞夫の頬に小さくキスをして、ホリィもコーヒーカップを手に、ふたりに向かって手を振ってから、居間の方へ行ってしまった。
 シンクに肩を並べて、花京院は皿を洗い始め、貞夫は散らかったままのあれこれを、洗いやすいようにまとめている。
 それが終わると、今度は花京院の逆隣りに立って、洗われて泡だらけの食器を、さっさとすすぎ始める。
 ふたりとも、起きてパジャマのままだ。似たところのないふたりだけれど、こうして並んでいれば、傍目には親子に見えるのかもしれないと、花京院は貞夫の濡れた手を、ちらりと横目に見た。
 「典明くんは、煙草は吸わないんだよな。」
 「ええ吸いません、未成年ですから。」
 時折、一体この人は何を考えているだろうと思わせる質問を、貞夫は唐突に投げかけてくる。最初は戸惑ったけれど、今ではさらりと返せばいいのだと、花京院も悟っている。
 「まあ未成年じゃなくても、煙草は吸わない方がいいんだけどね。身長止まったり、ロクなことないしね。」
 貞夫は花京院よりも少なくとも数センチ身長が高いし、承太郎はあの有様だ。どうだろうなと、花京院は苦笑だけ返した。
 「承太郎に誘われても、ちゃんと断った方がいいよ。煙草は良くない煙草は。」
 「はは、承太郎はそんなこと、僕に言ったりしませんよ。」
 教師たちに同じことを言われても、何を言っていると腹しか立たないけれど、貞夫に言われると、ただ笑ってしまうのはなぜだろう。承太郎よりも濃く煙草の匂いを漂わせて、ジッポのオイルの匂いも、体のどこかに染みついているような貞夫は、やはり父親と言うよりも、年の離れた兄のように、花京院には感じられる。
 食器が終わって、今度はボールや泡立て器だ。その中のひとつ、クマの顔の形をしたホットケーキの型を取り上げて、うっかり花京院のほころんだ横顔を見たのか、貞夫がそれを指差して言う。
 「それ、承太郎が4つの時だったかな、テレビで見たホットケーキが食べたいってホリィにダダこねて、ホリィはホットケーキが何かよくわからなくて、わざわざオレのところに電話して来てね、次に帰国した時に、承太郎おんぶして、色んな店回って探したんだよ。あいつは覚えてねえんだろうなあ、アレはいやコレは違うってわがままばっかり言いやがって。」
 小さく丸まったクマの耳の辺りを、よく洗いながら、承太郎のことを話す時の貞夫の口調が、いつもよりももっと砕けてそして、ひどくなごんだ表情を口元に浮かべるのを、花京院はほほえましく眺めた。
 今よりももっと若い貞夫の背に乗った、まだ4つの承太郎を想像すると、このクマよりももっと可愛らしい姿が目の前に浮かんで、うっかり声に出して笑いそうになる。
 「オレは指先が商売道具だから、ツアー中は水仕事もダメ、ナイフ使うのもダメ、犬や猫にも近寄るな、とにかく絶対ケガしないようにって、マネージャーやらスタッフやらに見張られてて、そんなんだから、たまに家に帰っても、あんまり承太郎と遊んでやれなくてね。日本に住んでるのに、一緒にいる親は日本人じゃないし、ホリィもホリィで、言葉もよくわからないところに承太郎とふたりっきりで、承太郎があんなになったのも、仕方ないなあって思うんだよね、オレは。こんなこと言うと、あいつがますますつけ上がるから、絶対内緒だけどさ。」
 貞夫が使う水だけを眺めて、花京院は、ちゃんと聞いているという相槌だけを打った。
 「昔は思わなかったけど、最近、やっぱり日本はいいなあと思うんだオレは。生まれて育った国だしね。だから、ホリィがどれだけアメリカに戻りたいと思ってるかって考えると、申し訳ない気持ちになるんだよ。」
 優しい人たちだと、花京院は、改めてこの家族のことを思う。決してあからさまにはせずに、互いを気遣い合っている。純粋な日本人よりも日本人らしく、相手には気づかせずに、自分よりもまず、他の誰かのことを心配している。
 貞夫とホリィが、あの承太郎の両親だということに、今さらのように納得して、花京院は最後の泡立て器を、貞夫に手渡した。
 「こういう出来の悪い父親としては、息子にきちんとした良い友達がいるってことだけで、誇らしい気分になれるもんなんだよ。」
 だからありがとう、と水を止めて、貞夫が言った。
 花京院は、目を丸くして、思わず赤くなった頬を隠しもせずに、ちょっとだけうろたえた。
 この率直さには覚えがある。承太郎は、間違いなく貞夫の息子だ。
 花京院のまだ泡だらけの手に向かって、水道の蛇口を差し出して、貞夫がまたいたずらっぽく笑う。つられて、花京院も微笑んだ。
 貞夫から受け取ったタオルで濡れた手を拭きながら、花京院は、同じほど率直に、素直に、貞夫に言った。
 「僕も、承太郎のことが好きですよ。」
 それは、文字通りの意味だったけれど、初めて承太郎への気持ちを、承太郎以外の誰かに打ち明けたのだと言うことに、花京院はちゃんと気づいている。貞夫とホリィなら、いつか全部、何もかもを真っ直ぐに受け止めてくれるだろうと思えた。
 「典明くん、それ、オレの分まで承太郎に言っといてくれるかな。オレが言うと、ケンカになるんだよね。」
 にっこりと、貞夫が言う。
 これもきっと、文字通りの意味だったのだろうけれど、花京院には、貞夫が花京院の真意にちゃんと気づいていて、もっと素直になれるチャンスをくれているような、そんな気がした。
 「ええ、いいですよ。」
 笑いながら言って、きれいに片付いた台所を、ふたり肩を並べて後にする。
 居間の方から、ホリィの笑い声が聞こえていた。


戻る