Breath



 こんな日もある。お互いに目配せし合って、一緒に外出した先から、慌てて帰る。
 どこかの、自分では手の届かない位置にあるスイッチが入ってしまったように、頭の中はそれだけでいっぱいになって、躯の熱さに耐え切れなくなって、自然に足が速くなる。
 外では滅多と触れない指先や肩先が、偶然そうなるたびに、そこから熱を増して来る。全身の神経が外側に剥き出しになって、その神経はすべて互いにだけ向いている。
 呼吸、気配、動いて揺れる空気の震え、熱っぽい視線がすべてを物語るけれど、それはふたりの間でだけ通じることだ。
 ひどく慌てた仕草で鍵を取り出し、乱暴に玄関のドアを開けて、なだれ込むように中に入る。もつれ掛ける足を、必死で自分の分だけしっかりと踏みしめて、やっと閉めたドアの鍵の掛けた音に、ふたり一緒に何もかも忘れた。
 ほんとうに、スイッチか何か、そんなもののせいなような気がすると、奥へ続く廊下へ背中を落としながら、花京院は思った。
 かろうじて靴はちゃんと脱いだ。揃える余裕などもちろんなく、かかとをすり合わせて脱ぎ捨てただけだ。承太郎の大きな革靴と、同じ色だから一瞬見分けがつかない乱雑さで、けれど廊下に転がるふたりの騒がしさとは対照的に、外からの埃と気配をそこにひっそりとどめている。
 承太郎が帽子を脱いで──そんな必要も、実のところなかった──どこかへ放り投げ、裾の長い上着を引き剥がすように脱ぎ、同じような性急さで、花京院の服にも手を掛けた。
 上着やシャツを脱がす暇すら惜しんで、無言のまま腰の辺りを剥き出しに掛かる。火照った頬そのまま、近づいた顔に当たる息が熱かった。花京院は承太郎のその頬に両手を添えて、口づけるために引き寄せながら、休まずに──けれどもたもたと無様に──動く承太郎の手を助けるために、そっと腰を浮かせる。熱い肌に、ぬるく空気が触れて、かちゃかちゃとベルトの金具が音を立て、承太郎の重い大きな体の下で、花京院は引き下ろされたズボンからやっとの思いで片足を抜いた。
 他には触れない。剥き出しにした、そこにだけ触れる。承太郎が躯を重ねて来て、普段なら先に準備しておくはずのことの何もかも、頭から飛んだ。
 喉の奥で声が尖る。承太郎の腕をつかみ、しがみつきそうになるのを必死で引き止めて、そのぶ厚い胸に額をぶつけた。
 承太郎は花京院の足をすくい上げ、腿の裏に添えた手の指先に、そうと自覚もないまま、力をこめ続けている。
 熱の中に自分を埋め込んで、拒まれているのか引きずり込まれているのかわからない狭さが、いつもよりもいっそう強く承太郎を締めつけて来る。承太郎の息も、吐くたびに激しさを増した。
 花京院が、切れ切れに何か言う。言葉にはならない。名前を呼ばれていると気づくまで、しばらくかかった。
 「なんだ。」
 その時だけ意識を集めて、承太郎は躯の動きをゆるめて声を掛けた。
 声を出した振動が、喉からもっと奥の方へ伝わったのか、承太郎の下で、内も外も花京院の全身が震える。承太郎も、それにうっかりつられそうになった。
 「君、いつもより・・・」
 それ以上は言わない花京院の熱っぽい目の潤みと、承太郎のそれに伝わる絡みつく熱の重さが、後に続く言葉をより雄弁に表していた。
 花京院に煽られて、耐えるために口の中で舌を噛んだだけだと言うのに、それだけで花京院の躯が素早く反応する。
 ちくしょう、と思わず短く吐き捨てた。
 言葉の勢いに任せて、そんなつもりはなかったけれど、常になく乱暴に躯が動いていたらしかった。花京院が喉を反らして、裂けた声を立てる。
 悲鳴に近いその声に驚いて、慌てて躯の動きを止めると、少しばかり恨めしげに──けれど、他の色も混ぜて──花京院ににらまれて、承太郎はわずかの間肩をすくめた。
 「頼むから、こうやって君の相手をする僕の身にもなってくれ。」
 咎める声が、それなのにそうとは聞こえず、もっとと誘われているのだと思ったから、承太郎はその通りに行動した。
 膝裏をもっと高く抱え上げ、腰を浮かせて、躯をもっと近寄せる。繋がる角度が変わったのに、花京院がまた声を立てる。ひと色、別の色が重なったその声と一緒に、花京院の内側はいっそう近く承太郎に寄り添って来る。
 いつの間にか握り込むようにしていた花京院の腿の裏側が、汗に湿って熱くなっていた。花京院をきちんと抱きしめようと手を離すと、そこにはくっきりと手の跡が赤く残り、指先の形はさらに緋い。そこに這い残る自分の掌の形に、承太郎は頭の後ろで深い満足感を感じた。
 満たされたのは、ひどく下らない所有欲だったけれど、花京院に向かうと底なしに深くなる自分の内側を恐ろしいと思うこともなく、承太郎はひどく優しい手つきで、花京院の首に両腕を回して、胸を重ねて抱き込んだ。
 「おれとこうするのが、いやか。」
 躯の動きは止めず、けれどさっきまでに比べれば驚くほど優しい動作で、そうすれば食らいつくだけだったそこが、不意に柔らかさを増して、承太郎に寄り添って来る。
 「いやじゃないから、困る。」
 言いながら、もっと近く躯が触れ合うように、足を開いて位置を変え、花京院は承太郎のシャツの裾に揃えた両手を滑り込ませた。脇腹を撫で、その動きでシャツをまくり上げ、肩甲骨を包み込むように、承太郎を抱きしめる。
 互いの都合などお構いなしの始まり方だったけれど、今になってようやく、互いのリズムを思い出して取り戻して、いつものように躯が重なり始めている。
 「こんな調子だと、僕はきっと早死にする。」
 花京院の両手が、承太郎の髪を撫でた。
 「させねえ。」
 動き続けながら、承太郎が応えた。
 「また先に逝こうとしやがったら、首に縄つけて引きずり戻してやる。」
 こんな時に交わすのは、熱に浮かされたせいのうわ言だ。けれど今は、ひどく真剣味をこめて、承太郎の濃い深緑の瞳が間近にあった。
 「ああ、君ならやりかねない。」
 息を止める合間に、ささやくように言う。声のひそやかさにまるで腹を立てたように、承太郎が強く躯を押し込んだ。
 また息を飲んで、承太郎の激しさに合わせながら、不意に襲ってくる欲情の衝動も、承太郎がいなければ起こらないのだということを思い知って、花京院は何度か強く瞬きを繰り返した。
 まるで昨日出会ったばかりのように、あるいは、もう明日はないのだとでも言うように、こうやって時折全身ごとさらわれるような波の激しさごと、承太郎を心の底からいとおしいと思う。死ななかったのは、承太郎のためだった。そうして、あの死を乗り越えた後で、こうやって承太郎と一緒に、小さな死と名づけられないこともないこの訪れをもたらすのは、誰にも知らせない、ふたりの間のささやかな秘密だ。
 高まる熱を重ねてこすり合わせて混ぜ合わせて、そうして生まれる小さな死を、ふたりは飽きもせずにずっと繰り返している。そうすることが、まるでいつか訪れるだろうほんものの死を避ける手立てだとでも言うように。
 無様に、脱ぎかけた服を手足に絡ませて、暗い部屋の中で音も気配もひそめる慎み深さは今はなく、次第に激しくなる息をふたりはもう止められなかった。
 今度死ぬ時は、と花京院は、熱く溶ける寸前の頭の片隅で思う。
 承太郎よりも一瞬後だ。承太郎をきちんと見送る、わずかな時間の後で、そうやって、自分の体──ひと時、確かに死体となった──を抱きしめなければならなかった、まだ17だった承太郎への贖罪のために、今度は、自分が承太郎を抱きしめるのだと思う。
 自分が逝くのは、その後だ。
 小さな死の気配を感じ取って、その時に同時に包み込まれるために、花京院は承太郎の首筋に両手を添え、床から背中を浮かせた。
 自分の上と内側で動き続ける承太郎をもっとそそのかすために、濡れた舌先がその間に見えるふっくらとした唇の中に、自分の呼吸を注ぎ込むために、花京院は伸ばした舌先を差し出して、君だけだと小さく小さくつぶやいた。承太郎の熱い呼吸の中に、その声は跡形もなくまぎれて消えて行った。


* 絵チャにて即興。
* あまやさま、鳴島さまにひっそり捧ぐ。


戻る