1) オラオラ承太郎


 編集のポルナレフと、一晩中飲んで、目覚めた翌日、ベッドの中に、見知らぬうさぎが寝ていた。
 「え?」
 片手にすっぽりおさまりそうな小さなうさぎは、仰向けに、花京院の枕の大半を占領して、もうずっと前からこのベッドの住人であるかのように、すぴすぴ寝息を立てている。
 「えええええええ?」
 たてじまのパジャマの胸やら背中やらを叩いて、他にはうさぎなんていないことを確かめて---我ながら、とても意味不明な動作だった---、あんまり驚いた花京院は、ちょっと後ろに体を反らしすぎて、ベッドから転げ落ちてしまった。
 床で打った肩をあたたと撫でて、またベッドの上を見る。小さなうさぎは確かにそこにいて、それに痛いから、夢でもない。
 ふわふらの柔毛が、うっすらとピンクの腹を透けさせていて、わずかに寝息と一緒に動いているのを、花京院は思わず伸ばした指先で、そっとつついた。
 ひくりと、うさぎが寝息を止める。起こしたかと慌てて指を引っ込めると、うさぎはまたゆっくりと寝息を再開する。
 「・・・うわあ。」
 やわらかなあたたかさに触れた指先を、目の前に伸ばしたまま見つめて、花京院はうっかり口を開いた。
 「一体どこから来たんだこのうさぎ。」
 真っ白な体に、鼻と口と耳だけが淡いピンクだ。そして、一体何の冗談か、首には金色の小さな鎖が巻いてある。首輪のつもりなのだろうか。それにしてもうさぎに鎖なんて、どこかのヘビーメタルバンドのコンサートで血糊だらけで出て来る、生贄もどきじゃないんだからと、花京院はちょっと顔をしかめた。
 4階立てのマンションの最上階に、うさぎが勝手に入り込んでくるということはありえない。となると、花京院が自分で連れて来たとしか思えない。けれどどうして?
 花京院は後ろを振り返って、そこにくしゃくしゃと脱ぎ捨ててある、脱いだことすら記憶にない夕べ着ていた服に飛びついた。ジーンズのポケットを全部探ると、右の後ろポケットから、手書きの領収書が出て来た。
 ウサギ代として。金5000円。空条貞夫。
 誰だこれ。声に出してつぶやいて、走り書きだけれど、丁寧に並んだ字を4回読み直して、花京院は、長いひとり暮らしの間にすっかり身に着いてしまった、やたらとひとり言を言う癖に自分で気づいていない。
 なるほど、酔った勢いで、どこかで売っていたうさぎを衝動買いしてしまったらしい。
 あまり酒を飲まないから、こんなばかなことはそう滅多と起こらないけれど、起こってしまうと、こんなことになってしまうらしい。
 ポルナレフはどうして止めてくれなかったのだろう。それとも、別れてここに帰ってくるまでにしでかしてしまったことなのか。
 手書きの領収書を手に、脱ぎ捨てた服のそばで呆然としていた花京院の背を、必死でのぼってくる小さな感触に慌てて振り返ると、もう肩まで這い上がってきたうさぎが、花京院の耳のそばで、ふん、ととても生意気な感じで、鼻を鳴らした。


 「とりあえず、自己紹介をしておくよ。」
 キッチンの小さなテーブルに、自分のために焼いたトーストにピーナッツバターを塗って、うさぎのためには、さっき冷蔵庫の野菜室をあさって、小さな皿に、切った人参とちぎったレタスを乗せてみた。
 すぐさま皿に顔を伏せたうさぎの仕草に安心して、テーブルの上で食事をさせるのは、しつけに悪いだろうかと思ったけれど、一心不乱に食事をするうさぎの可愛らしい様子に、ついつられて微笑んで、そのまま椅子に腰を下ろす。
 「僕は花京院典明。これから君の飼い主ってことになるのかなあ。」
 一体いつから食事をしていなかったのか、うさぎはまたたくまに皿を空にして---皿までかじり出してしまいそうな勢いだった---、小さいくせに一人前の仕草で、前足で顔をきれいにし始めた。
 花京院は自分の薄いトーストを、少しずつかりかりとかじりながら---そちらの方が、よほどうさぎっぽく見える---、うさぎの一挙一動がいちいち物珍しくて、それを全部じいっと眺めている。
 「酒の上のこととは言え、僕だって男だ、ちゃんと責任は取るよ。」
 まるで何か別のことを言っているように聞こえるけれど、うさぎは一向にかまう素振りもない。
 動物を飼ったこともなければ、実家を出て以来、ひとり住まいに親しく呼びつけるほどの友人もいなかった花京院は、ひとりのはずの部屋の中に、自分以外の生きものの気配があるのが珍しくて、ついうさぎにちょっかいを出したくなる。
 口の周りをきれいにしたら、今度は、長い耳を手前に折り曲げてきて、それもぺろぺろと舐める。器用だなあと眺めながら、からかうつもりで、後ろ頭の辺りをつついた。
 うさぎは驚いて、耳から手を離して、つつかれた方へ振り向く。何もないのを、きょろきょろと確かめてから、また耳をつかんでぺろぺろ始める。また花京院が、同じ辺りをつつく。うさぎがぺろぺろを止めて振り向く。花京院をにらむようにじっと見る。ちょっと驚いて、花京院はあごを引く。両手をテーブルの下に隠すと、うさぎはよし、とでも言うような顔つきで、改めて耳をぺろぺろし始める。また花京院は、懲りずにそうっと頭をつつく。今度は弾けるように激しく振り返って、うさぎはぎっと花京院を眼光鋭くにらんだ。そして、その目つきの悪さに驚いて---ビビって---、手を引っ込め忘れている花京院に向かって、後ろ足で、だんっとテーブルを蹴った。
 「・・・うお。」
 小さいくせに、可愛らしい外見のくせに、生意気に怒っている。しかも、ちゃんとこわい。よくよく見れば、目つきが悪くて鋭いのは、どうやら生まれつきらしい。
 花京院は、今度こそちゃんと膝の上に両手を置いて、
 「・・・ごめんなさい。」
 まだ自分をにらみつけている小さなうさぎに向かって、軽く頭を下げた。
 ふん、とまたとても生意気に聞こえるやり方で鼻を鳴らして、うさぎは肩をいからせて、やれやれだぜとでも言いたげにあごを軽く振ると、花京院に背中を向けて、今度は胸や腹を舐め始める。
 もうふざけかけるのはやめようと、花京院は空になった皿をテーブルから取り上げて、シンクの方へ歩いて行った。
 汚れた皿は後で洗うつもりでそこに残して、コーヒーを飲むことにした。
 「僕はイラストレーターなんだ。締め切りがあるから、あんまりかまってあげられないこともあるかもしれないけど、頑張っていい飼い主になるように努力するよ。とりあえずは、君の名前を決めよう。どんな名前がいいか---」
 コーヒーのマグを口元に近づけながら振り返ったキッチンのテーブルに、うさぎの姿はなかった。
 花京院は、途切れた語尾で半開きになった唇のまま、テーブルの周りを見渡した。それでもうさぎの姿が見当たらない。
 「ど、どこに行ったんだ!」
 がたんと乱暴に置いたマグから、また熱いコーヒーがこぼれて、指を焼く。けれどそれにもかまえないほど慌てて、花京院はキッチンとひと続きのリビングへ向かって走り出す。
 キッチンに背を向ける位置にある大きな仕事机の上に、よじのぼろうとしているうさぎの姿が見えた。
 机の上には、刃が剥き出しのままのトーンカッターや、鉛筆や、消しゴムや、その他さまざまな形や種類のペンが転がっている。そして、すでに下書きを始めている、再来週が締め切りの仕事の絵が、そこにはあった。
 「あーッ!」
 花京院の叫びに驚くこともなく、うさぎは机の上での冒険を開始して、着々とカッターやペンに短い前足を伸ばしつつあった。
 からころと転がして、ついでに勢いをつけて、鉛筆を数本机から落とす。消しゴムを抱え上げて、がしがしかじってみる。匂いも味も気に入らなかったのか、ぺっとすぐに吐き出して、代わりにカッターに興味を移して、ぎらりと光る刃の方へ、ふわふわの前足を伸ばしてゆく。
 そうなって初めて、花京院は、事の次第に体が動いた。
 机まで、飛ぶように3歩、カッターに触る直前に、すくい取るように、うさぎを両手で取り上げた。
 「ダメだッ! 危ないッ!」
 両手にしっかり抱え込んで、机の上が大惨事になる前に、鼻先が触れそうに近くうさぎに顔を寄せると、花京院は精一杯こわい顔を作った。
 「机の上に上がっちゃダメだ。危ないものが山ほどあるし、仕事の絵を汚されたら、僕が困るんだ。僕が困ると、君が困ることになるんだよ。わかるかい?」
 それなりの年齢の男が、小さなうさぎに向かって真剣に説教する姿ほど笑えるものもなさそうだと思っても、当の本人は気づくはずもなく、花京院は必死でこわい顔のまま、うさぎをにらむ。
 「僕ら、これから一緒に暮らすんだから、お互いに助け合わなきゃいけないと思うんだ。僕は君に安心を提供するし、君は僕を困らせたりしないようにする。公平だと思うんだが、どうだろう。」
 うさぎは、花京院の手の中で、ちょっと斜めに体を傾けると、胸を反らすようにして、長い耳をぴくぴくさせた。
 人間なら、ふんと眉をしかめたような、そんな表情を確かに浮かべて、了解、とでも言うようにうさぎは肩を軽くすくめる。
 「よし。」
 うさぎと心が通じ合ったように感じて、花京院はやっと微笑みを取り戻すと、こんなに短時間で動物と理解し合えるなんて、自分もそう捨てたものではないと、人間の友人のいない引け目をちょっとの間忘れて、うさぎの、鎖の首輪を巻いた喉の辺りを指先で撫でて、そのふかふかの感触を楽しんだ。
 花京院の指の動きに合わせて、花京院の手の中で体を伸ばしたうさぎは、目の前でふらふら揺れている、そこだけ長い花京院の前髪に興味が湧いたのか、前足でちょんちょんつつき始める。
 「いろんなものが好きだなあ、君は。」
 ふと思いついて、おどかさないようにゆっくりとうさぎを肩に乗せてやると、うさぎは、そこでバランスを取るように数秒じっとしていたけれど、高さを気に入ったのか、まだ花京院の髪をつつきながら、そこから逃げようとはしない。
 「皿を洗い終わったら、着替えて君の買い物に行こう。ペットショップはどこにあったかな。」
 ゆっくりと体を回して、キッチンへ戻ってゆく。うさぎはそこから動かずに、揺れる花京院の肩から落ちないように、ちょっと足に力を入れる。
 「君の名前は、承太郎ってどうだろう。男らしくて、君にぴったりだと思うんだけど。」
 キッチンに向かいかけた足を止めて、肩に乗せたうさぎに話しかけると、うさぎは、何だかその名前を吟味しているような、考えるような表情になって、また眼光鋭く花京院を見返してきた。
 いいぜと、うさぎが無愛想にうなずいた気がして、花京院はにっこり笑うと、
 「じゃあ、改めてこれからよろしく、承太郎。」
 握手のつもりで、指先をうさぎに---承太郎に差し出した。承太郎は、その指に両方の前足を添えると、応えるように頬をすりつけて、ふるふると耳を揺らす。
 目つきの悪さと態度のでかさと愛想のなさに似合わない、そのやけに可愛らしい仕草に、花京院の心臓が、3拍ほど跳ねた。
 君を、絶対に幸せにしてみせるよ、承太郎。それが僕の使命だ。
 自分に懐いてくる小さな命と、それを守ろうとしている自分の心意気に、花京院がひとりで感動している間に、承太郎は、次にかじる標的として、部屋の隅に伸びている電話線に、すでにじっと目を凝らしている。


 「おまえ、うさぎ飼うより先にやることあるんじゃねえのか。」
 編集者でもあり、花京院の長い友人でもあるポルナレフが、締め切り前の偵察にやって来ていた。
 「仕方ないじゃないか。酔った勢いで買ってしまったんだから。捨てるわけにいかないだろう。」
 「そりゃそうだけどよ。」
 遠慮のない口ぶりで、ポルナレフは足元にいる承太郎をもっとよく見ようと、床に向かってしゃがみ込んでくる。
 承太郎は、ちょっと体を引いて、斜めにポルナレフを見上げる。すり寄る気も、なつく素振りも見せず、ひたすら目つき悪く、なんだてめえはという態度を、承太郎はまるきり隠さない。ポルナレフが、差し出しかけた途中で止めて、机に向かっている花京院の方へまた話しかけた。
 「うさぎって、もっと人なつっこいもんじゃねえのか。」
 「僕にはなついてるよ。きみには今日会ったばかりじゃないか。」
 「こんな愛想のねえうさぎ飼うよりおまえ、先に彼女作れよ彼女。」
 「そんな時間なんかないよ。」
 「時間がないんじゃなくて、惚れてくれる女がいないんだろ?」
 「ああうるさいなもう。」
 振り向きもせずに、花京院がいやそうに言う。動かす手は止めずに、少しばかり予定よりも進みの遅れている絵を、明々後日にはポルナレフにちゃんと渡せるように、花京院は必死で描き進めようとしているところだった。
 「ったくおめーは、イラストレーターのテンメイっていやあ、それなりに女の子だって寄って来るだろうってのに、顔出しはいやがるは、本名公開はまっぴらだは、おめーほんとに彼女作る気あんのかよ。」
 「彼女作れってうるさいのはきみだろう。僕は別に女の子なんか---」
 ポルナレフが、一向に近寄って来ない承太郎をかまうのに飽きたのか、ずかずか机の方へ寄ってくると、背後から花京院の手元を覗き込むようにして、腰に手を当てて、唇をへの字に曲げる。
 「そんなこっちゃ一生女の子に縁がないまま終わっちまうぜ。おまえ、この無愛想うさぎとだけ一緒に暮らす気かぁ?」
 承太郎を指差すポルナレフに振り返って、花京院は、ポルナレフに負けずに唇をとがらせる。
 「承太郎はちっとも無愛想じゃないよ。ちゃんと僕になついてくれてるし、名前を呼べばそばに来るし、夜だって一緒に寝てるんだぞ。僕が忙しくても邪魔もせずにおとなしく待っててくれるし・・・第一、きみは僕じゃなくて自分の心配をしろよ、ポルナレフ。」
 「あ?」
 ついに手を止めて、椅子の中で体をひねると、花京院は腕を椅子の背もたれに乗せて、じろりとポルナレフをにらみ上げる。
 「いつまで妹にかまって、新しいボーイフレンドができるたびに大騒ぎする気だよ。かわいそうじゃないか、せっかく好きな人ができても、片端からきみが邪魔するから、彼女こそいい迷惑だ。」
 「何言ってやがんだッ! 妹の行く末を心配するのは、兄貴として当然だろうがッ!」
 「きみの妹こそ、一生結婚どころか、恋人も作れなさそうだけどな。きみのせいで。」
 最後の部分を、わざと声を低める。うるさくわめいていたポルナレフが、さすがにうっと口ごもって、花京院に図星を指された痛みに、反論したくてもできずに、黙っていれば端正な顔を歪めた。
 「とにかく、締め切りはちゃんと守るから、僕の個人的な件については心配しないでくれよ。」
 花京院はうるさそうに、冷や汗をかいているポルナレフに向かって手を振ると、また机の方に向き直ろうとした。
 「待てよ花京院。」
 背もたれから滑り落とした腕を、ポルナレフがいきなりつかんで、自分の方へ軽く引き寄せた。
 「いいこと思いついたぜ! なんでもっと早く考えつかなかったんだろうな。」
 さっきまでの渋面がうそのように、いたずらっぽい笑みを浮かべて---ほんとうに、楽しそうな笑顔だ---、ポルナレフが勢い込んでまたしゃべり出す。
 「おめーがおれの妹と結婚すりゃいいんじゃねえかッ! おめーなら大事な妹やったっていいぜ! どうだ? ん?」
 ぐいと、花京院に顔を近づけて、心底素晴らしい思いつきだと信じている表情で、うっかりつられて微笑んでしまいそうなほど、うれしそうにポルナレフが弾んだ声で言った。
 こんな笑い方のできるポルナレフを、花京院はとても好ましい人物だと思っているし、妹のためなら世界中を敵に回すことなどへでもなさそうな彼が、その妹をくれてやるというのは、つまりは自分に対する深い友情の現われなのだとわかっていて、それでも花京院にできることは、せいぜい感謝の意を示すために、苦笑交じりに唇の端を吊り上げることくらいだ。
 仕事をさせてくれよと、心の中でつぶやいて、さてどんな声でどんなことを言えば、自分を放っておいてくれるだろうかと、花京院が少し真剣に考え始めた頃、突然ポルナレフが悲鳴を上げた。
 「イテッ! イテテテテテテッ!」
 足を抱え上げて、けれどまだ悲鳴を上げ続けているポルナレフの足元で、承太郎が何やらやらかしているのが見えた。
 「なんだこのウサ公ッ!」
 後ろ足でポルナレフの足を思い切り蹴り上げ、前足で鋭くジャブを食らわし、ついでにくるぶしの辺りに噛みつこうとしている。
 「承太郎!」
 いつもよりいっそう目の据わった凶悪な顔つきで、さらなる攻撃を仕掛けようと身構えた承太郎を、ポルナレフが応戦し始める前に、花京院は素早く床から抱き上げて、胸の中に抱え込んだ。
 「こんのウサ公ッ!」
 痛みに涙目になっているポルナレフが、あちこち赤くなった足を花京院に見せつけるようにしながら、承太郎を奪おうと腕を伸ばしてくる。
 「やめろよ、こんな小さい動物相手に。」
 「おめーのしつけのせいだろうがッ!」
 「きみがあんまりしつこくあれこれ言うから、僕がいじめられてると思っただけだよ。」
 「く・・・クソ生意気なッ・・・。」
 花京院に抱かれていても、承太郎はぴんと両耳を立てて、まだポルナレフに飛びかかろうとじたばたもがいている。ポルナレフは、動物相手とも思えない半ば本気の表情で、こめかみに青筋を立てていた。全身が震えているせいで、ハートを半分に割った形のイヤリングが、一緒に揺れている。
 「このウサギ野郎ッ! 今度おれに立てついてみやがれッ! ウサギ鍋にして食っちまうからなッ!」
 花京院がたしなめる前に、承太郎に向かってびしりと指を突き出して、ポルナレフが怒鳴った。
 承太郎は、ポルナレフの剣幕にひるむどころか、ぴたりと体の動きを止めて、軽く開いた口元から、鋭い前歯をわずかに覗かせて、ぎろっとポルナレフをにらみつけた。真っ白い毛が、見た目だけは可愛らしい分、ポルナレフを威嚇するために逆立ったのが凄みをさらに増している。声が出せるなら、犬のようにうなっているところだろう。
 承太郎の変貌加減に驚いて、花京院は言葉を失っていた。
 ポルナレフは、承太郎に真正面からにらみ上げられて、思わず一歩後ろに足を引くと、それ以上は怒鳴ることもできずに、行き場を失った怒りで喉の辺りを痙攣させていた。
 ようするに、うさぎににらまれてビビったということなのだけれど、それを素直に認めるポルナレフではなく、ようやく承太郎の眼力から逃れると、じりじりと玄関の方へ後退さりながら、花京院に、せめて負け惜しみの台詞を吐き残してゆこうとする。
 「いいか、締め切りは延びねえからなッ! そんなウサ公にかまってねえで、ちゃんと仕事しろよッ!」
 ウサ公と呼ばれたところで、承太郎がポルナレフに飛びかかろうと体を伸ばした。ポルナレフは、逃げたとしか言いようのない素早さでくるりと背中を向けると、短く悲鳴を上げて、玄関から飛び出して行った。
 数秒後、花京院は知らずに止めていた呼吸を再開して、承太郎を撫でながら、大きくため息を吐く。
 「悪いヤツじゃないんだ、悪いヤツじゃあ。」
 自分に言うように、承太郎に言い聞かせるように、ひとり言めいてつぶやいて、やっと玄関のドアの方をにらみつけるのをやめた承太郎を、両手の中にそっと抱きしめる。
 「とりあえず助かったよ。ありがとう承太郎。これで静かに仕事ができるな。」
 目つきは相変わらず悪いけれど、とりあえずは体の力を抜いて、承太郎は花京院の掌に、ふわふわの毛をこすりつけた。
 「・・・ポルナレフが心配してくれる気持ちはわかるんだ。僕は友達もロクにいないし、女の子と付き合うなんて興味もないし。絵を描くしか能のない人間だし。」
 やっと机の方に向き直りながら、花京院の声が少しばかり沈んでゆく。手の中から、承太郎がへたりと耳を後ろに寝かせて、そんな花京院をじっと見上げていた。
 「でも、無理に誰かと付き合うよりは、君と心が通じてるって感じられる方が、今は大事な気がするんだ。そう思わないか、承太郎。」
 顔を近づけると、承太郎が花京院の前髪に前足を伸ばしてくる。そこに頬ずりするのが大好きな承太郎は、さっきまでの攻撃態勢がうそのように、髪と一緒に、花京院の目元に体をすり寄せてくる。
 出会ってたった2週間だというのに、人間の友達---いないに等しい---よりももっと親 (ちか)しい気のするうさぎの承太郎に頬ずりを返しながら、花京院は涙ぐみそうになるのをこらえて、目の前の仕事のために気分を引き締めようと、とりあえず承太郎を膝の上に置いた。
 「さて、仕事に戻ろう。イラストレーターのテンメイは、締め切りだけは絶対に守る、というのが信条、と。」
 硬い声でそう言いながら、片手で承太郎を撫でて、花京院は紙の上に視線を据えて、けれどもう一度だけ、自分の膝の上で毛づくろいを始めた承太郎を見下ろして、いとしげに笑いかけた。


 狭い箱の中に、自分と同じくらいの大きさのうさぎがたくさんいて、押し合いへし合いしながら、目の前を通り過ぎてゆく大きな生きものを、見るともなしに眺めていた。
 自分が一体何なのか、正確なところはわからず、母うさぎや兄弟姉妹うさぎと引き離されて、回りにいるのは赤の他人のうさぎばかりで、通り過ぎる大きな生きものたちは、たまにこちらにやって来て、そしてさらにたまに、箱の中からうさぎを抱き上げて、歩き去ってゆく。
 ゆらりと、影が差した。白くて細い指が、そっと優しく頭に触れた。
 へえ、かわいいな。連れて帰りたいな。
 柔らかな声がして、振り仰ぐと、そこだけ一房長い髪が、声と一緒に揺れているのが見えた。
 なんだこいつは。そう思ったけれど、目の前で自分に向けられた笑顔がとても優しげで、思わず、長い耳がぴくぴくする。
 その大きな生きものは、妙に赤い顔をしていて、息が変に匂った。それが、大きな生きものが好んで飲む、アルコールというものの匂いだと知るのは、ずっとずっと後のことだ。
 他のうさぎたちほどは暖かくはなかったけれど、大きな生きものもほっこりと暖かくて、胸の中にふわりと抱かれて、そして、他のうさぎの気配のないところへ連れて行かれた。
 ここはどこだろうと、ちょっとの間考えたけれど、すぐそばですやすやと眠ってしまった大きな生きものを眺めているうちにつられて眠くなって、危険はなさそうだったから、うっかり手足を伸ばして眠り込んでしまった。
 ぼくはかきょういんのりあき。きみのなまえはじょうたろうだ。
 花京院。承太郎。大きな生きものの言葉は何だか難しい。それでも、何度も聞くうちに、それが大きな生きものの名前で、それが自分に与えられた新しい呼び方なのだと悟った。
 ここには、他の生きものはいない。花京院とふたりきり、一緒に起きて、ごはんを食べて、遊んで、寝る。
 花京院は、滅多と大きな音を立てない。静かに動いて、静かにしゃべる。承太郎に、いつもたくさん話しかけてくれる。そんなふうに話しかけられるのに慣れていなくて、最初は警戒していた承太郎だったけれど、花京院がとてもうれしそうに承太郎に話しかけるので、そのうち、それにちゃんと応えなければという気になった。
 最初の夜以来、あのアルコールの変な匂いがしたことはなく、花京院はいつも果物みたいないい匂いをさせて、柔らかい前髪はいつだってほわほわ気持ち良い。
 しゃりしゃりの人参やレタス、きれいな水、ねだれば、りんごの皮はちゃんと剥いてくれる。赤いさくらんぼを一緒に食べる時、花京院はいちばん幸せそうに見える。
 大きな机に向かって、花京院は白い紙に何か描いている。机の上に上がると、叱られる。さわると危ないものがたくさんあるし、失くなったり汚れたりしたら困るものがたくさんあるからだと、花京院は承太郎に説明してくれた。
 よくわからなかったけれど、花京院の、何か大事なものだと思ったから、承太郎は素直に言うことを聞いた。
 初めての夜以来、承太郎は、花京院をどんどん好きになってゆく。
 壁際に這っていた黒いつるつるした線をかじった時は、少し大きな声で怒られたけれど、その後で花京院は少し背中を丸めて、しばらくつらそうな顔をしていたから、承太郎は自分なりに必死に花京院を慰めた。
 頬ずりして、前足を花京院の手に乗せて、それから、レタスと人参のかけらを、花京院の前に持って行った。
 元気出しやがれ花京院。
 そう言うと、聞こえなかったに違いないのに、花京院が承太郎に向かって、弱々しく微笑んだ。
 あんなふうに叱って、君が怒ってるんじゃないかと思ってたんだけどな。
 ちょっと目元を拭って、花京院がもう少し深く笑った。
 レタスと人参は食べてくれなかったけれど、花京院は、承太郎をたくさん撫でてくれた。承太郎の真っ白いふわふわの毛がくしゃくしゃになるくらい、たくさん撫でてくれた。そして、承太郎が首に巻いている金色の小さな鎖を、とてもよく似合うと言ってくれた。
 そんなふうにして、ふたりは、お互いをどんどん好きになって行った。
 承太郎の、花京院と呼ぶ声は、残念ながら花京院にはわからないらしく、けれど花京院が承太郎と呼ぶその声を、承太郎はとても気に入っている。花京院は大きな生きもので、承太郎は小さなうさぎだけれど、花京院は、承太郎を大事な友達だと、何度も言った。
 ずっとふたりきりだったのに、銀色の髪の大きな生きものが突然現われて、そして、何か花京院を困らせ始めた。
 おれの花京院になにしやがる。
 精一杯大きな声で怒鳴ってやったけれど、大きな生きものが承太郎の言葉を理解しないことはわかっていたので、手っ取り早く実力行使に出ることにした。
 やっつけてやるぜ、オラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオッ!
 大きな生きものは案外とひ弱で、すぐに情けない悲鳴を上げ始めた。
 花京院がポルナレフと呼ぶその銀色の髪の大きな生きものは、承太郎を殴り返したそうだったけれど、にらみつけてやると、何かわめきながらそのまま姿を消した。
 あんなに失礼なヤツなのに、花京院はポルナレフをいいヤツだと思っているらしい。花京院がそう言うなら、悪いヤツではないのだろうと一応納得して、次に会った時は、少し歩み寄ってやろうかと、ちょっと寛大に思う。
 花京院は、今はとても忙しい。膝に乗れば撫でてくれるけれど、机からほとんど離れることがない。
 ごめんよと、とても悲しそうに花京院が何度も言うから、承太郎は花京院にそんな顔をさせたくなくて、ひとりで遊ぶことにした。
 キッチンのつるつるの床を滑ったり、冷蔵庫とシンクのすき間に入り込んだり、冷蔵庫のドアを開けようとしてみたり、カーペットで爪を研いだり、ここ2日ばかり空っぽのままのベッドで、ひとりで転げ回ってみたり、毛布の下に入り込んで、出たり入ったりを繰り返したり、花京院の洗濯物の中に飛び込んでみたり、潜ってみたり、這い出てみたり、ティッシュの箱に顔と前足を突っ込んで、中身を全部引っ張り出してみたり、本棚に上がって、本の上で寝てみたり、他にもたくさん、いろんなことをひとりでした。
 そうして最後に思った。ひとりで遊ぶのはつまらない。花京院の声が聞きたくて、かじってはいけないと言われたつるつるの線をまたがじがじオラオラしようかと、そこまで思ったけれど、やっぱりやめておいた。
 きっともうすぐ、花京院は机を離れて、承太郎に声を掛けてくれるだろう。
 もう少ししたら、またいつものように、たくさんいろんなことを話してくれるだろう。
 それまではおとなしく待とうと思って、けれど花京院の様子が気になって、承太郎は机のあるところへ近づいて行った。
 ソファに坐って、花京院の丸まった背中を、あのポルナレフが見張っている。今日はポルナレフも、とても静かにしている。
 ポルナレフは、足元に近づいてきた承太郎に気がついて、よおと床にかがみ込んで来た。
 「えらいな承太郎、邪魔せずにおとなしくしてろよ。花京院のヤツ、もうちょっとで終わるからな。」
 この間とはずいぶん態度が違う。ポルナレフも花京院に怒られたのかもしれない。まあいいと思って、自分の頭を撫でてくるポルナレフに向かって、承太郎はちょっと胸を張った。
 花京院の背中を見ているポルナレフの目が、優しげで心配そうで、自分を見つめる花京院の目ととてもよく似ていたから、承太郎は、その時初めて、花京院とポルナレフも友達なのだということを理解した。
 今日はオラオラしないでおいてやるぜ。
 ちょっと肩をいからせて、ポルナレフに向かって前足を、大きな生きものが指差しするように突き出しながら、承太郎はポルナレフには聞こえないのを承知でそう言った。
 それから、くるりと背中を向けて、花京院には声を掛けずにその場をクールに去る。
 もう、ひとり遊びをする気にもなれず、ひとりで食べるごはんもおいしくないとわかっていたから、くーっと鳴った腹を前足で押さえて、ひとまずまたベッドに上がった。
 一眠りしようと体を丸めるけれど、すっかり花京院の匂いの薄れてしまっているベッドでは、何となくそんな気になれず、承太郎は、やれやれだぜとつぶやいて、ぴょんとベッドを飛び下りた。
 寝室の中をうろうろして、どこか心安らかに一休みできる場所はないかと探して、ふと、ベッドの端から床に垂れている、花京院のパジャマに気がついた。
 初めて一緒に寝た夜にも花京院が着ていたパジャマだ。
 承太郎は、歯と前足でそのパジャマを床に引きずり下ろすと、ふんふん匂いをかいだ。
 果物みたいな花京院の匂いがする。もう少し青っぽい感じの、あのほわほわの髪の匂いもちゃんとする。
 ここでちょっと一休みしようと、やっと体を落ち着けて、承太郎はパジャマの内側に体を滑り込ませた。袖の中に入り込んで、胸いっぱいに花京院の匂いを吸い込んで、そうして、耳を寝かせて目を閉じた。
 ぐっすり眠ってしまうわけではない。ちょっと一眠りするだけだ。花京院を待つ間に、ほんの少しだけ休もう。花京院が来たらすぐにここから這い出るつもりで、承太郎は、くるりと体を丸めて、手足を縮めた。


 深夜を過ぎずに、ポルナレフは、上機嫌で帰って行った。
 机の上は散らかったままだったけれど、それを片付けるのは明日にすることにして、花京院はまずは深呼吸をひとつした。
 今回も締め切りは守ったと、心の中で自分を誉めてから、さてとと体を回す。
 「承太郎。」
 どんな時も花京院の声を聞きつけて飛び出してくる承太郎の気配が、部屋のどこにもない。
 「承太郎?」
 少し音量を上げて、また呼んだ。けれど承太郎は姿を現さない。
 ぐるりと見渡した部屋の片隅に、見事にばらまかれたティッシュの海が見えたけれど、怒る気にもならないほど疲れていた。
 あーあと苦笑だけ口元に浮かべて、花京院はベッドのある部屋へ行った。
 承太郎が自由に出入りできるように、開け放したままのドアから顔だけ入れて、明かりをつけた部屋の中を見回す。
 ベッドの上は、シーツと毛布がくしゃくしゃになっていて、床には、洗濯物の山が崩れている。承太郎のひとり遊びの跡も何もかも、すべては明日だと思って、また承太郎を探す視線を部屋のあちこちにめぐらせた。
 「承太郎?」
 まさかどこかすき間に入り込んで出られなくなっているのかと、不吉なことを考えて青くなった一瞬後で、花京院は、床に広がった自分のパジャマに気がついて、袖の真ん中辺りの不自然なふくらみに、全身が溶けるような安堵の笑みを浮かべた。
 足音を忍ばせてそれに近づいて、パジャマの合わせを持ち上げると、そっと袖の中を覗き込む。承太郎が、くるりと小さな体を丸めて、白い毛糸玉のように、そこで眠っていた。
 「・・・待ち疲れて寝ちゃったのか。」
 起こさないように、パジャマを静かに元に戻して、袖の上から、ふくらみにはぎりぎり触れない近さに、掌をかざした。
 疲れて、泥のようになった全身を、花京院は床に横たえた。承太郎にちゃんと手が届くように、パジャマの半分に体を乗せて、一度伸ばした手足を、胸の前に引き寄せる。
 「冷蔵庫のさくらんぼ、一緒に食べようって思ってたのになあ。」
 相手がいれば、もうひとり言ではないのだ。際限なくおしゃべりを始めてしまいそうな唇は、けれど疲労困憊していて、残りは聞き取れないつぶやきだけになる。
 仕事をきちんと終えた自分へと、そしておとなしく自分を待っていてくれた承太郎への褒美にするつもりで、きんと冷やしておいたさくらんぼの、丸くしっとりした感触を舌の上に甦らせながら、前足でちゃんと抱えたさくらんぼにかじりつく承太郎の仕草を思い出して、花京院は、重くなるまぶたを、もう引き止めることができなかった。
 仕事を終えた解放感と、そして、ひとりではないのだというかすかに甘い気分が、花京院の全身を包み込んでいる。
 起こしたりしないように、けれど丸まって眠る承太郎のそばに掌を置いて、花京院は、わずかだけれど確かにに伝わってくるぬくもりに、承太郎の見ている夢を想像する。その夢の中に自分が登場しているのだろうかと思いながら、もううっすらと目の前に浮かび始めた夢に、承太郎の白い姿がにじんで映る。その首に巻いた金色の鎖が、しゃらんと音を立てると、花京院は、知らずに承太郎と寝息を重ねていた。


* 2006/3/4〜開催、承花ダブルパロ祭り@レトロアクティブさま提出作品。

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