2) ふわふわ花京院


 空条承太郎は、海洋学者だ。行くところへ行けば、空条博士と呼ばれる立場にいる。学者にはとてもみえない、2m近い長身に、すべてを見下ろしてねめつけている目つきの悪さで、実は人付き合いがとても下手なのだけれど、何が原因なのか、本人はちっとも気がついていない。
 人と付き合わなくていいから、海の生きものを相手にしたいと、本人がそう思ったかどうかはともかく、今はとりあえず、イルカやサメやヒトデを観察することをもっぱらにしている。
 そして承太郎は、実は以前結婚していたことがあった。
 凛々しいその顔立ちと、口下手を、恥ずかしがり屋の純情と誤解され、気がついたら押し倒されていたというのが真相だけれど、とにかくも、合意した大人ふたりが結婚するというのには、大した手間は掛からないものだ。
 相手の女性は、ひとりで盛り上がって、ひとりで盛り下がって、ただ静かに海を眺めていた承太郎にある日、
 「もう、耐えられないの。」
 そう一言だけ告げて、承太郎を、ふたりが一緒に住んでいた家から追い出した。
 あなたはわたしに何もしてくれなかったんだから、せめて最後に、わたしに優しくしてくれたっていいでしょう、というのが彼女の言い分だった。
 わけのわからないうちに、ようやく馴染んだ住処を突然失い、身の回りの手荷物だけで、承太郎は途方に暮れていた。途方に暮れて、とりあえず飲み慣れない酒を飲んだ。飲んで、酒に飲まれて、酔っ払った。
 最初に酔っ払った時は、何とか祖父の家にたどり着いて、そこにしばらくの間、身を置かせてもらった。
 2度目に酔っ払ったのは、やっと新しい部屋を借りて、唯一親しいと言える古い友人のポルナレフが、引っ越し祝いだとおごってくれた時だった。
 そして3度目は、一体どういうことだったのかは覚えていないけれど、とにかく、結果として、承太郎はウサギ1匹と一緒に暮らすことになった。
 朝起きたら、ウサギがそこにいたのだ。結婚する羽目になった時だって、何がどうなってそうなったのかちゃんと覚えていたのに、このウサギを連れ帰った経緯は結局わからないまま、ズボンの後ろのポケットに入っていた小さな手書きの領収書---ウサギ代として。金5000円。音石明---が、ウサギの謎を、ますます深めてくれた。
 うっすらとグレーがかった毛色のウサギは、とても小さくて、承太郎の大きな掌半分の大きさしかない。妙に長い耳の、右側だけ、茶色い毛に覆われて、へろんと目の前に垂れ下がっている。
 承太郎が、いくらぴしりと伸ばして立ててみても、右側の茶色い耳は、またすぐへろんと、目の前に垂れてきてしまう。ウサギは、その耳を、時々ふん、とでもいうように顔を振って、ちょっとよけるような仕草をした。
 赤みがかった目で、ウサギは、ちょっと上目遣いに承太郎を見上げてくる。大きな承太郎を怖がる様子もなく、掌の上で、もじもじと両手---足?---をこすり合わせて、それから、承太郎の鼻先に、こしこしと頬をすり寄せてきた。
 毛の生えた、地上を歩く、あたたかな生きものに、それまであまり縁のなかった承太郎は、その感触がひどく気持ちの良いことに驚いて、そして、そのウサギのことを、いっぺんで好きになった。
 ウサギなら、もう終わりにしましょうと言って、自分をここから追い出したりはしないだろうと、そう思ったのはウサギには内緒だ。


 承太郎が、大きな指で、小さくちぎってくれたレタスを、もしゃもしゃと食べる。
 承太郎はとても大きいけれど、とても優しい。
 よく掌に乗せてくれて、何だかよくわからない話を、海がどうとかサメがどうとかイルカの赤ちゃんがどうとか、それからヒトデがどうとか、眠くなってしまうまで、たくさんしてくれる。
 承太郎のつけてくれた名前は、少し難しくて、全部覚えるのが大変だ。
 花京院テンメイというのがそれなのだけれど、花京院というのは、承太郎が大好きなどこかの街の名前で、テンメイというは、承太郎が大好きな絵を描く人の名前なのだそうだ。承太郎は、そのテンメイという人の絵の載っている雑誌やら本やらを、これも眠ってしまったくらいにたくさん見せてくれた。
 花京院、と承太郎が呼ぶと、花京院はぷるんっと耳を揺らして振り向く。承太郎は、普段はあまり笑わないのに、花京院と一緒にいる時は、いつもとても優しい顔をしている。
 獣医さんのところへ行くと、問診票に花京院テンメイと書く承太郎の字は、いつもとても誇らしげだ。獣医さんが、おとなしくしてたねー言うこと良く聞いたねーいい子だねーと花京院を誉めてくれると、承太郎は家---あんまり広さはない、マンション---に帰ってから、よしよしよしよしよしよしよしよしーと花京院を撫でてくれる。
 花京院は、承太郎の掌の上で毛づくろいをするのが大好きだ。承太郎の手は大きくてあたたかくて、右側の茶色いへろんと垂れた耳をきれいにしているうちに、時々、あんまり気持ちよくてそのまま眠ってしまうことがある。目が覚めれば、承太郎がよく着ている、青いシャツの大きな胸ポケットの中だ。このシャツは、承太郎が、わざわざ花京院が中に入れるようにと選んで買ったものだ。買い物に、一緒に店に連れて行かれたから、花京院はよく覚えている。
 承太郎は、どこにでも花京院を連れてゆく。この間は、花京院を連れていることを隠すあまり、挙動不審になって、大きな本屋の中で警備員に後をつけられていた。手していた本が、ミッフィーの絵本と、ウサギの雑誌と、そしてぷれいぼーいという、黒ウサギのマークがついている雑誌で、警備員に呼び止められた承太郎は、いつもかぶっている帽子をもっと目深にかぶって、やれやれだぜ、とつぶやいていたのが、ポケットの中にいた花京院の耳にも届いた。
 そのぷれいぼーいという雑誌は、大きくて紙がつるつるしていて、かじるととても具合が良かった。ちょうど歯がかゆかった花京院は、それを承太郎のベッドの下から引きずり出して、承太郎の留守中に、思う存分かじりまくった。とても楽しくて、歯が気持ちよかった。部屋中を、ぼろぼろになったぷれいぼーいで散らかしてしまった花京院を、外出から帰ってきて見つけた承太郎は、
 「やあれやあれだぜッ!」
と、何だか涙目で、花京院を怒りもせずに、でもがっくりと肩を落として、部屋を片付け始めた。
 花京院は、元気のない承太郎を見たくなかったので、坐り込んでいる承太郎の膝に、必死でよじのぼって、そして、腹の辺りにすりすりする。何度も何度もすりするしていると、やっと承太郎が花京院の、ほわほわの後ろ頭を指先で撫でてくれたので、花京院はお返しに、その指を毛づくろいのつもりでぺろぺろした。承太郎が、くすぐったがって笑った。まだ泣いているみたいな顔だったけれど、確かに承太郎は笑っていた。
 ふたりは、そんなふうに、今日も一緒に暮らしている。


 最近、承太郎は、花京院をからかうのが大好きだ。
 この間は、花京院のお気に入りの皿をわざと隠して、花京院がそれを探してウロウロするのを、ずっとポーカーフェイスで眺めていた。
 つい昨日は、りんごを剥いた皮を、いつもはすぐに花京院にくれるのに、わざと待っている花京院を無視して、キッチンの生ゴミ入れに入れてしまうふりをした。花京院は慌ててぴーと鳴いて、だんっとテーブルを後ろ足で蹴って、承太郎に抗議した。
 くるっと振り向いた承太郎は、
 「冗談だ。おれがそんなことをすると思うのか。」
と言いながら、とてもおかしそうにりんごの皮を、ようやく花京院に渡してくれた。
 そして今日は、花京院の大好物のさくらんぼを、きれいに洗って、皿に盛って、細い枝を持って花京院の目の前でふらふらさせると、それに花京院が飛びつこうとしたところで、ぱくんと自分で食べてしまう、ということを繰り返した。
 もちろん、皿の半分くらいは、最終的には花京院にちゃんとくれたのだけれど、花京院は、承太郎の指先でふらふら揺れるさくらんぼに飛びつくのに疲れてしまって、皿が空になった頃には、すっかりぐったりだった。
 という話を、承太郎は楽しそうに、友人のポルナレフに語っているところだった。
 あんまり売れないコミック作家をやっているポルナレフは、どういう経緯だったかは詳しくは語らないけれど、歳の離れた弟くらいの、ちょっと変わった髪型 ---ポルナレフの突っ立った銀髪も相当なものだから、もしかすると変な髪形を愛好する連中の集まりなのかもしれない---の男たちと一緒に暮らしている。不幸な事故で両足が不自由なポルナレフは、車椅子を乗り回して、この大きな屋敷の1階の一部を自分のものにしていた。
 大きな机に向かって、今日も売れるかどうかわからない原稿を描きながら、ポルナレフがちょっと声をひそめて言った。
 「だけどよー承太郎、動物をあんまりからかうのもどうかと思うぜ。」
 すぐ後ろで、小さなテーブルの上に花京院を遊ばせて、ジュースのグラスを片手にゆったりと長い手足を伸ばしている承太郎を、ポルナレフが肩越しに振り返る。
 「動物なんてよォ、案外デリケートなもんだぜ。オメーがからかってるだけのつもりでも、動物の方は案外傷ついてるかもしれねえぜ。」
 承太郎が、いきなり厳しい顔で、びしりと指先をポルナレフに突きつける。
 「おれと花京院は、心の底からわかり合っている。ちょっとのことで揺るぐような関係じゃねえ。」
 言い切って、そして、テーブルの上の花京院に顔を近づける。花京院は、会話の内容がわかっているのかいないのか、すぐにすりすり承太郎の頬に、自分の鼻先をすりつける。
 「ほれ見ろ、花京院はおれのことが好きだ。」
 また厳しい顔になって、ポルナレフに言う。
 へいへいと答えておいて、ポルナレフはまた机に向き直った。
 離婚を言い渡されて、家を追い出されて、やっとひとりの住処が決まった頃は、ずいぶんと目つきが穏やかではなくなっていて、元々図体のせいで怖がられている上に、もっともっと若かった頃は、怪しいと思ったら即殴ってみる、という過激な性格のせいで、友達のひとりもいなさそうだったと言うのに、小さなウサギ1匹に顔をゆるめている承太郎を見るのは、下手なコミックよりも面白かった。
 ポルナレフは、こいつもずいぶん変わりやがったぜと、そう思いながら、今度のコミックは、そんなストーリーにしてみるかなと、そんなことを考えている。
 とてもハンサムなコミック収集家の男と、変人でやたらと態度のでかい、ウサギが大好きな男の物語だ。悪役は吸血鬼で、吸血鬼は、変人の男のウサギを、太陽の光に負けない力を手に入れるための生贄にしようと、自分の部下を次々に彼らの元へ送り込む。ハンサムな方は、いつも変人の窮地を救ってやり、そのうちにヒロインが登場して、ハンサムに惚れるけれど、ハンサムは、変人がひそかに彼女を好きなのを知って、オレに惚れるのは危険だと彼女を退ける。
 ポルナレフが、未来の売れっ子コミック作家を夢見ている間に、承太郎は、また花京院をからかいたい気分に襲われて、振り返ったポルナレフが、おいちょっと聞いてくれよと、そのとても感想に困る微妙な、ハンサムと変人とウサギの物語のアイデアを語り始めたのを右から左に聞き流しながら、目の前の花京院を、自分の方へ手招きした。
 「花京院、いい子だな、オレンジジュースをやろう。」
 自分の飲んでいたジュースを、上向けた掌のくぼみにちょっと移して、それを花京院へ差し出す。花京院は、甘い匂いにピンクの鼻をひくひくさせて、承太郎の掌の中に顔を突っ込む。そうして、小さな小さな舌をちろっと出して、甘いジュースを飲む。
 「おい! ちょっと待て承太郎ッ! それは炭酸---」
 吸血鬼の手下の描写をしていたポルナレフが、慌てて承太郎を止めようと、届かない腕を精一杯伸ばしたけれど、時はすでに遅かった。
 泡がいっぱいぷつぷつの炭酸ジュースを舐めた花京院は、小さな舌と喉がぴりぴりする感触に、途端に飛び上がって、テーブルの上で大騒ぎを始めた。
 ぴきぴき鳴き---泣き---ながら、炭酸の刺激で痛む口を、両前足で押さえて、飛んで跳ねて、テーブルの上に置いてあった、雑誌やら空のビール瓶やらコーラの缶やら、承太郎が飲みかけで置いておいたジュースのグラスも、何もかもを思い切りもがいて蹴飛ばす。床に物が落ちる音、がたがたと揺れるテーブル、承太郎とポルナレフの慌てた大声、それに炭酸の刺激に、花京院はすっかり怯えて、部屋の隅のチェストの、床とのわずかなすきまに逃げ込んでしまう。
 承太郎は、元はテーブルと呼ばれていた残骸を、少しでもましにしようとしていた努力を即放棄して、そちらへ走って行った花京院を追って、床に這い蹲る。
 「花京院ッ!」
 大きな体で床にぺたりと蛙のように這って、わずか10cm程度のそのすき間を、必死で覗き込もうとする。目を凝らせば、闇の中に、確かにわずかに白っぽい丸い影が見える。
 「花京院・・・。」
 うっかり声が、涙に潤みそうになった。
 後ろでポルナレフが、すっかり散らかってしまったテーブルの上を見て、あーあと声を出している。
 「おい承太郎、ちっとここを片付けるのを手伝え。怯えちまってるんだ、しばらく出て来やしねえ。おめーの自業自得だぞ。」
 「・・・やかましい。」
 けれどポルナレフの言う通りだったから、承太郎は素直に立ち上がって、胸の辺りをぱんぱんと叩いて埃を払う仕草をした。
 車椅子で、思う通りには動けないポルナレフが、ああだこうだと指示するのを、今日は黙っておとなしく聞きながら、床に落ちた雑誌をまとめ、ビールの空ビンとコーラの空き缶を、この際だったので、部屋の隅にある大きなごみ箱に放り込んだ。それから、こぼれてテーブルを汚している、さっき花京院にいたずらで飲ませた炭酸ジュースの残りを、手渡されたペーパータオルで拭き取る。先に、横倒しになっているグラスを元通りにするべきだったのに、何を慌てていたのか、そのまま転がっていたそれが、表面を拭う動きで傾いて、からから見事に床に落ちた。
 承太郎もポルナレフも、途中で受け止めようと手を伸ばしたけれど、わずかに届かず、ポルナレフの足元---車椅子の---で、かしゃんとはかない音を立てて、大きな破片で---幸いに---割れてしまった。
 「あーあー。」
 ポルナレフが、床の方へ体を倒して、ちょっとからかうような声を出す。
 「・・・わりぃ・・・。」
 珍しく素直に謝って、承太郎が床に膝を落とす。かけらを拾おうと伸ばした指先が、けれど思ったよりも鋭い断面で、きゅっと音を立てて切れる。
 う、と軽く引いた指先に、みるみる血の筋が盛り上がって、つーっと掌の方へ流れて行った。
 「お、おい、切っちまったのか。気をつけろ。」
 「・・・大したキズじゃねえ。」
 「ちょっと待ってろ、絆創膏でも持って来る。」
 くるりと車椅子を回して、机の引き出しを開けると、中を引っかき回し始めたポルナレフのそばで、承太郎は切った指先をかばいながら、グラスの破片を、全部ちゃんと拾い上げた。
 「てめーも案外そそっかしいな。」
 一番薄い雑誌を広げて、そこに壊れたグラスを包んで、ごみ箱へきちんと捨てた承太郎の指に、ポルナレフが絆創膏を巻いてやりながら、苦笑混じりに言う。
 こういうことは下手くそなポルナレフが、ぶ厚い絆創膏を、承太郎の指にぐるりと巻きつけるのに悪戦苦闘している間、ようやく静かになったと思ったのか、気がつくと、テーブルの下に、花京院が姿を現していた。
 「花京院ッ!」
 承太郎が、ポルナレフの手を振り払うが早いか、テーブルの下に滑り込むように飛び込んで、まだ少しおびえたように肩を丸めている花京院に向かって、土下座の格好をする。
 額を床にこすりつけながら、
 「おれが悪かった・・・。もう、あんなことしねえ。おさまらねえなら、おれを好きに殴りやがれ。」
 そんなちっこいウサギに、どう好きに殴れってんだよこのバカと、ポルナレフは思ったけれど、口にはしないことにした。それが、承太郎への友情のあかしだと思ったので。
 それにポルナレフは、こんなふうに変わってしまった承太郎のことを、少しばかり気に入り始めていたので。
 花京院は、承太郎の平謝りの態度に、ちょっと慌てたように承太郎の帽子にすがりついて、そこをぺろぺろ舐め始めた。ようやく、仲直りの合図だった。


 やっと落ち着いて、そろそろ帰ると腰を上げた承太郎を、ポルナレフはわざわざ部屋を出て、玄関まで見送ってくれた。
 「テンメイまたなー。悪さして承太郎を困らすんじゃねーぞ。」
 ぴ、と応えるように花京院が、承太郎の手の中で鳴く。
 ポルナレフが指先を差し出すと、花京院はためらいもせずに前足を、それにくっつけるために差し出して応えてくる。それを承太郎が、ちょっと複雑な、かすかにやきもちの見える表情で見下ろしている。
 家に帰ると、承太郎はすぐに花京院の食事の用意をした。
 レタスをちぎって、トマトを小さく切って、それから、ぴかぴかに洗ったさくらんぼをひと山。大騒ぎがあって空腹だったのか、花京院は皿に顔を突っ込んで、むしゃむしゃ一生懸命食べる。
 それを眺めて、承太郎は、とても暖かな気分になる。
 結婚は不幸な形で終わってしまったけれど、花京院と家族になって、このままずっと幸せに暮らせたらと、心の底から思う。
 花京院は人間ではないけれど、花京院を大事に思う気持ちは、実のところ、いわゆる妻と呼んでいた女性へよりも、もっととても深いところから湧き出てくるような気がする。それを軽率に口にしてはいけないのだろうけれど、自分がどれほど花京院を大切に思っているか、ちょっと誰かに言ってみたいと、初めてそんなことを思った。
 花京院はすっかり皿を空にして、さくらんぼの種だけをきれいに残すと、満足げに腹の辺りを撫でながら、承太郎に、ぴぴっと礼を言うように鳴く。それから、またいつものように、顔と前足と耳をきれいにし始めた。
 承太郎は、どうしても気になる、花京院のへろんと垂れた右の耳をつついて、花京院を怒らせない程度にからかう。
 自分の耳をつつく、承太郎の指先の絆創膏の匂いが気になったのか、突然花京院は承太郎の指先に飛びつくと、がじがじとその絆創膏にかじりついて、べりりっと一気に剥がし取ってしまった。
 「おいッ。」
 ちょっと慌てた承太郎が手を引こうとしても、花京院はしっかり承太郎の長い指にしがみついてしまっていて、ぺっと絆創膏を吐き捨てると、グラスの破片で切った傷を、小さな舌でぺろぺろ舐め始める。
 妙な匂いがするのがいやで、それを舐め取ろうとしていただけなのかもしれなかったけれど、妙に必死で真剣な花京院の表情に、承太郎は、もしかしてその傷を治そうとしてくれているのだろうかと、そんなことを考える。
 いつまでも、承太郎の指にしがみついて、切り傷を一生懸命舐めている花京院の、へろんと垂れた耳が揺れるのを眺めながら、わかり合うということが、言葉ではなく心で理解できたような気がした。そう感じていた。
 承太郎は、いい加減に、舐められすぎてふやけてしまいそうな指を、やっと花京院から離して、そして、もう一度冷蔵庫を開けると、さくらんぼをもうひとつぶだけ取り出して、切り傷の礼のつもりと今日の詫びのつもりで、花京院に手渡そうとした。
 花京院は、ちょっときょとんとさくらんぼを、両前足で受け取って眺めて、いつもなら間髪入れずにむしゃむしゃ始めるのに、いつまでも見ているだけでいる。
 「どうした、てめーにやる。食え。」
 そう言った承太郎のそばに、とことこと近づいてきて、ちょっと背伸びをするような仕草をする。そして、承太郎の指に触れる辺りに、さくらんぼを置いて、また承太郎を見上げた。
 「なんだ、もう腹いっぱいか。」
 承太郎の言っていることがわかるとでも言うように、花京院が、ふるふると首を振った。それにつれて、へろんの右耳が揺れた。
 丸いさくらんぼは、ちょっと指でつつけば、小さなボールのようにテーブルの上を転がりそうだ。そうして遊びたいのだろうかと、そんなことを考えてから、ようやく承太郎は、自分をじっと見つめている花京院に、
 「おれに、やるって言ってるつもりか。」
 ぴ、とうれしそうに花京院が鳴いた。なるほど、確かに心は通じている。ウサギに食べ物を分けてもらうなんて初めてだと、承太郎はちょっと苦笑しながら、ありがたくそのさくらんぼをつまみ上げた。
 「・・・美味い。」
 花京院を見下ろして、ゆっくりと口を動かして、花京院の思いやりを、承太郎はしっかりと味わった。
 種を吐き出すふりで、ありがとなと言って、花京院を撫でてから立ち上がる。
 「指先に、絆創膏を巻かねえとな。」
 さくらんぼの種を舌の上で転がして、くるりと花京院に背を向けた。そうしないと、花京院の目の前で、うれしさのあまり泣き出してしまいそうだったからだ。
 本棚の間に、埋もれるように置いてある机の引き出しから、ようやく絆創膏を見つけて、左手でちゃんと巻くのに苦労しながらキッチンに戻って来ると、テーブルの上に脱いでおいた帽子の中で、花京院が、もう体を丸くして、すぴーすぴーと寝息を立てているのを見つけた。
 花京院の小さな体は、承太郎の帽子の半分も埋められずに、それでも体を小さく縮めて、花京院は、見ているこっちが微笑まずにはいられないほど、安らかな姿で寝入っている。
 ふわふわの毛が、とてもやわらかそうに見えた。
 「・・・やれやれだぜ。」
 優しい声が、思わずこぼれた。
 コーヒーを入れて、お気に入りの、イルカについて書かれた本を開いて、承太郎は、自分の帽子の中で眠っている花京院のそばで、小さく笑みを浮かべたまま、静かで穏やかな夜を過ごした。時々、起こさないように気をつけながら、花京院の頭や腹の辺りを指先でそっと撫でて、そうして、寝る時間になると、帽子ごと花京院をベッドのそばへ運んだ。
 枕のそばへ、注意深く花京院を置いて、ベッドにもぐり込んで、花京院の小さな小さな鼻先の近くに、そっとお休みのキスをする。
 イルカやサメよりも柔らかくてふわふわで暖かな花京院に、これから毎朝おはようと言うために、自分は生きていくのだろうと、承太郎は思った。思って、眠るために目を閉じた。


* 2006/3/4〜開催、承花ダブルパロ祭り@レトロアクティブさま提出作品。

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