承花フェチ祭りJ.K.F.の肖像参加、承花フェチ×口紅

くちびるにチェリー

承太郎が部屋に現れると、座っていた花京院が立ちあがり承太郎に向き合った。
滲む視界に花京院の姿が映る。朝10時。
「おはよう。」
あいさつを交わした二人は向き合い、承太郎は花京院に口付けた。

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 まるきりいつものように朝が終わり、昼が過ぎ、さて今夜はどうするかと、ちょうど考え始める頃だった。
 花京院が妙にそわそわと落ち着かない態度で、承太郎にコーヒーのお代わりはどうかと訊いて、キッチンに向かいながら承太郎の方をちらちらと振り返る。
 「今日はこれからどこかに出掛けるかい?」
 夕食に出るとか、夜の時間つぶしのためにビデオでも借りに行くとか、あるいはちょっとした買い物だとか、よくある週末の夕方の予定を、花京院が、コーヒーのマグを手渡しながら訊いて来るのに、承太郎は濃い眉をちょっと持ち上げて、少しの間考え込む表情を作った。
 「何かしたいことでもあるのか。」
 「・・・まあ、したいことと言えばそう言えるんだろうな。」
 花京院には珍しく、何か含んだ言い方をする。
 持ち上げた眉を、今度は訝しむ形に寄せて、承太郎は上目遣いにコーヒーをすすった。
 「いや、別に大したことじゃないんだ。もし君がどこにも出掛けないなら、ちょっと頼みたいことがあるんだ。それだけだ。」
 「ならさっさと言え。」
 口振りは乱暴でも、花京院の頼みごと──滅多とない──なら、まず否などとは言わない承太郎だった。
 「ちょっと、妙な頼みなんだが。」
 まだ言い渋る。心なしか頬の辺りに血の色が上がっていて、承太郎はその眺めに数瞬視線を奪われた。
 とは言え、だらだらと事が前に進まないのは性に合わない。さっさと言え、ともう一度低く言って、もう構わない振りで、コーヒー片手に、PCの置いてある部屋に行こうとした。
 「これを、つけさせてくれないか。」
 今朝からこのために、すでにどこかのポケットに入れていたのかどうか、慌てたように承太郎の前に差し出す花京院の指先につままれた、華奢な筒状のそれは、まずは丈の短い万年筆のように見えた。
 よく見れば、万年筆にしては形が直線過ぎて、丈も短過ぎるし、丈の割りには太過ぎる。もう1度目を凝らしても、承太郎にはそれが何かよくわからなかった。
 「なんだそりゃ。」
 訊くと、今度ははっきりと花京院が頬を赤らめた。
 「会社で、取引先から大量に試供品をもらったとか何とかで、みんなに配られたんだよ。女性たちはともかく、僕らには恋人とか奥さんにって。」
 女性だの奥さんだのと聞いてからようやく、艶やかな黒の真ん中辺りに、少し抑えた金色の細い帯を巻いたそれが、いわゆる化粧品か何かだと悟る。承太郎は、いっそう濃い怪訝の色を、今度は顔全体に刷いた。
 「マスカラだのファンデーションだのいろいろあったんだが、僕はそういうのはよくわからないし、そもそももらっても困るだろう。」
 だからこれを選んで来たのだと、なぜそこでだからと続くのか、よくわからない言い訳を花京院が重ねて、優しいやわらかな音を立てて、上部のキャップを取って見せる。
 内側にはぐるりと全体に金色が見え、その中に、例えて言えばベルベットのような重たげな質感の、鮮やかな赤い口紅が、外側の艶やかさに負けない雰囲気で収まっている。
 承太郎の鼻先を、人工香料の匂いが鋭く打って来た。それに顔をしかめたのを、口紅を持って来た自分自身に対してだと勘違いして、花京院がするっと顔を曇らせる。
 「そうだな、君に口紅をつけてくれなんて、とんでもない頼みだった。悪かった承太郎、忘れてくれ。」
 「とりあえず見せろ。」
 計算だったのかどうか、花京院の表情に罪悪感を刺激され、承太郎はひったくるように、花京院の指先から口紅を奪う。
 海と海の生き物にしか興味のない承太郎は、化粧をする女性と縁がなく、化粧や化粧道具を目にしたことはあっても、それをどう使うのか、まったく知識がない。母親のホリィの化粧する姿も、よく考えればほとんど記憶にない。口紅は唇に塗るものだとは知っているけれど、それはただ知っているというだけの話だった。
 指先につまんだ華奢な容器の中身を凝視している承太郎に、花京院がそっと声を掛ける。
 「下をひねると、中身が出て来るんだ。」
 「おう。」
 言われた通りに、本体をひねりつぶさないように気をつけてそっとひねると、確かに中身がゆっくりと上に向かって伸びて来た。ああ、スティック糊と同じかと思ってうなずいてから、花京院にもよく見えるように、互いの間に、目線の高さに持ち上げる。
 「チェリーレッドだ。」
 どこかうっとりした声で、花京院が言う。
 チェリーがキーワードだったに違いないと、承太郎は口紅から目を離さずに思った。
 「で、おれにこれをつけろと?」
 「・・・せっかくもらったんだし、無駄にするのも口紅が可哀想じゃないか。他にあげられる心当たりもないし、あんまり派手な赤は、あんまり人気がないんだそうだ。」
 口紅が可哀想、敬遠されるチェリーレッドが可哀想、花京院の博愛主義が遺憾なく発揮されている。ババを引くのは承太郎、というところは可哀想ではないらしい。
 とは言え、一応は承太郎のことを考えながら選んだのだろうから、それはそれで、心のこもった贈り物と思えなくもなかった。
 先端がすでに斜めに削がれているのは、そこを唇に当てて塗れということなのだろう。そこに目を凝らしてから、承太郎は意外に丁寧な手つきで、口紅の先を自分の唇に押し当てた。
 異物はひやりと冷たく、当てた真ん中からそのまま右にずらすと、確かに何かが唇の表面に残る感触がする。細まった口辺へ行く手前で、忙(せわ)しない仕草で、花京院が承太郎のその手を止めた。
 「はみ出してしまうじゃないか。」
 親が子どもにするように、承太郎の指先を開かせ、花京院が口紅を取り上げる。ふたりは今では床に向かい合って坐り込み、間近に顔を寄せ、花京院は承太郎のあごを自分の掌に乗せて、軽く上向いた唇の真ん中に、改めて口紅の先端を押し当てた。
 口紅と唇の触れるところに、視線を据えたまま真剣になっている花京院の、ちょうど眉間の辺りをしばらく眺めた後で、承太郎は妙に照れくさくなって、上目に天井辺りに視線を投げることにした。
 少しずつ口紅の当たる角度を変え、ほとんど膝立ちになりながら、口を薄く開いておくように承太郎に言って、ゆっくりとその赤を乗せてゆく花京院は、完全に絵描きの表情に変わっている。
 そう言えば、こいつは絵を描くんだったと、久しぶりに思い出して、承太郎はまた花京院の目元と手元に視線を移し、あごに添えられた花京院の指先のぬくもりに、こっそりと目を細める。
 たっぷり5分は過ぎた頃、花京院が1度口紅を遠ざけて、唇をすり合わせろと承太郎に言う。自分の唇でやって見せながら、言われた通り承太郎が唇の上下をすり合わせると、少し遠目に成果を眺めて、また口紅を承太郎の唇に当てた。
 「ほんとうは、筆があるといいんだが。」
 はみ出してしまったのか、右側の高くなった唇の線を、花京院の左手の親指の先が撫でる。
 「絵と同じだな。」
 「唇の線をまず全部塗ってしまって、それから中を塗る。多分、3回くらい重ねた方がいい。」
 真剣な声で花京院が言って、ようやく手が止まると、口紅は容器の中に返されて、承太郎の目の前から消えた。
 仕上げのつもりか、小指だけ伸ばして、爪の先で軽く、下唇のいちばん低くなっている部分の線をひっかく。余分な口紅を削り落としているのだろう。それが終わって、承太郎はやっとあごを自分の胸元に引きつけた。
 「もっとちゃんと塗れればよかった。」
 さほど失望したようにでもなく花京院がつぶやく。
 一体自分がどんな風になっているのかわからない承太郎は、自分を見つめている花京院の瞳の中に映った小さな自分に、じっと目を細めた。
 「軽蔑されるのを承知で言うが、ずっと君に、口紅を塗りたいと思ってたんだ。」
 なぜ、と目顔で訊く。花京院が言う軽蔑も嫌悪も、承太郎は一向に感じなかった。
 「色が白い割りに、君は髪や瞳の色が濃いから、きっとこういう赤が似合うと思ってたんだ。ピンクじゃだめなんだ、もっと大人っぽい、深みと奥行きのある色。君の、この緑色の瞳によく合う色じゃないと。」
 最後の辺りは、語尾が湿ってかすれていた。ほとんど、愛をささやかれている──正確には、間違いではない、と承太郎は思った──ような気分になって、承太郎はやけにうっとりと自分の顔を眺めている花京院を眺めて、この表情は、ふたりきりで暗いところにいる時によく見るそれと同じだと、ふと気づいた。
 芸術を愛する人間に、こんな風に思われるのは悪い気分ではない。花京院の、恍惚としたこんな表情を、こんな間近にこんな明るい時間に見れるのも、思っても見ない役得ではあった。
 「・・・今度は、きちんと筆で塗ろう。そのうち買って来るよ。」
 「めんどくせえな。」
 「一緒に行ったら、君が好きな色を選んでくれるかい?」
 さすがに冗談めかして花京院が言う。赤く塗られた唇の端を上げて、承太郎は薄い笑いで応えた。
 口紅は今は中にしまわれてキャップも元に戻され、床についた花京院の掌の下にある。その手に自分の手を重ねて、承太郎は、花京院に唇を近づけた。
 口紅をつけたままの口づけは、何だか妙な感触だった。花京院の唇が直には触れて来ないのがもどかしくて、焦ったように花京院を抱き寄せ、自分の上に引き寄せる。唇を開くとそこでこすれ、花京院の唇に移った口紅がなすったように広がる。承太郎の唇からもはみ出して、ふたりの口元は一緒にべたべたになった。
 「てめーのシャツに、跡でも残すか。」
 「ああ、ちょうどいいな、恋人がちゃんといる証拠になる。」
 承太郎の冗談に乗っただけなのかどうか、花京院がそんな風に言う。
 自分の上に乗った花京院が、まだあのうっとりとした表情を消さずに、唇を撫でて来るのに、承太郎は喉を伸ばした。
 そこを滑る花京院の指の腹にも、うっすらと口紅が移る。そう言えば、これはどうやって落とすのだろうかと思って、どうやら一緒に風呂に入って一緒に洗う羽目になるようだと、承太郎は花京院の腰を抱えた腕の輪を縮めた。
 「今度は筆で塗ろう。きちんと輪郭を先に作って、はみ出したりしないように。絵の具とは違うだろうから、誰か、塗り方を教えてくれないだろうか。」
 ひとり言めいて、花京院の指先が相変わらず承太郎の唇を撫でている。
 軽く顔を振って、承太郎はその指を噛んでやった。
 「映画で、着物の女性が小指の先に紅をすくって唇に塗ってるのを見たことがあるだろう? 口紅が、貝殻の裏とか、小さなつるつるした入れ物とか、そういうものに入ってて、何もかも白いのに、口紅だけが赤いんだ。」
 言いながら、見たというその映画の場面を思い出しているのか、少し遠い目をして、花京院が小指の先で承太郎の唇に触れる。
 「女の、小さい指でやるからいい眺めなんであって、おれのごつい指でやっても面白くも何ともねえ。」
 「・・・そんなことはないさ。君は、自分の指の形がどんなにきれいか、まったくわかってない。」
 花京院の声が、また一際艶を帯びた。
 口紅を塗られた自分の唇と、その声音はどこか似ていて、正確には欲情ではないらしいこの感覚は、恐らく、芸術家が美しいものを見た時に感じる、何か感動のようなものと同じなのだろうと承太郎は思う。
 自分を美しいと思うわけではまったくなく、ただなぜか花京院の審美眼にかなってしまったのだと素直に認めて、それを幸いだと思った。
 花京院のこんな表情を無遠慮に眺められるなら、口紅くらいいつでもいくらでも塗ってやる。口紅で汚れてしまった自分の顔を想像しながら、承太郎はもっと近く花京院を引き寄せる。
 薄れた口紅の上に重なる、これも口紅に汚れた花京院の唇。人工の香料は好みではなかったけれど、湿ったような感触は悪くはなかった。
 あごから滑った唇が、首筋まで続く赤い跡を残す。口紅を移し合って、ふたりの午後が終わる。
 偶然花京院の爪先が蹴った口紅が床を転がり、キッチンの椅子の足に当たってそこで止まった。ふたりの息遣いだけが、後に残った。チェリーレッドの口紅だけが、それを知っていた。

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