屋上で、ひとり煙草を吸っている。ゆらりゆらり、そこを歩き回って、授業をさぼっている最中だと言うのに、姿を隠すこともせずに、上から下を見下ろし、見回して、小さな制服姿が動き回っているのを眺めている。
 そこを囲う、承太郎にはまるで高さの足りない鉄柵に寄りかかり、わざと大きな音を立てて煙を吐き出した。
 下にいるのは、クラスメートたちに違いない。絵の具入れやスケッチブックを抱えて、どこか楽に描き写せる場所はないか、あるいは、その色や形に目を惹かれる場所はないかと、うろうろ探し回っているのだろう。
 すでにそれらしい場所を見つけ、数人でわずかな間を空けて坐り込み、スケッチブックに鉛筆の先を走らせている姿も見えた。
 この時間の終わりには、必要な線をすべて写し終わって、色を塗り始める連中もいるのかもしれない。
 提出しなければ点がもらえないのは知っているけれど、美術で1を取ったところで痛くも痒くもないだろうと思っている承太郎は、別の理由もあって、そこへ参加する気は最初からまるでない。
 絵を描くのは嫌いだ。色を塗るのは楽しいけれど、何かの形を、見たまま描き写すという作業が大嫌いだ。上手く描けないからだと言ってしまえば身も蓋もない話だけれど、そんなことして何になると、美術の時間のたびに思う。
 ギターを一から自分で作れと言われたなら、それはそれなりに熱心にやるかもなと、無茶なことを考える。承太郎とよく似た身丈の、オランダ人のギタリストは、14の時にそうしたと、その自作というギターを抱えて、素朴な笑顔で写真に写っていた。誇らしげな、楽しげな、あるいはただただ無邪気な喜びにあふれたその笑顔を思い出して、それと同じ表情を思い出す。輝くような笑み。誰かから与えられた貌(かお)ではない、内側から、抑え切れずにこぼれ出していた、ひたすら嬉しげな表情。
 煙草の煙を目で追った振りをして、承太郎は薄青い空を、帽子のつばの陰から見上げた。


 「残念だな、こんな時でなかったら、そうだな、1週間くらい君を借りて、どこかに閉じこもりたいくらいだ。」
 承太郎は自分のベッドの端に腰掛け、花京院はそこから少し離れた位置に、ホテルの備えつけの椅子に腰を下ろしていた。
 アブドゥルに頼んで、市場で探して手に入れた、紙質のひどく悪いノートと、これもほんとうに筆記用具なのかと思うような、芯がぼろぼろと崩れる鉛筆で、そのふたつを手に、花京院は承太郎をスケッチし続けている。
 すぐに丸くなってしまう芯が、紙の表面に引っ掛かってうまく描けないと愚痴をこぼしていたのも束の間、瞬く間にそんな不自由にも慣れ──この旅には、そんなことばかりだ。文句を言っても始まらないと、真っ先に学んだことだった──、ノートは最初の10ページ以上は埋められたろうか、すらすらと動く花京院の手を、同室になる夜のたびに眺めることになる。モデルとして見つめられるくすぐったさにはやっと慣れ、それでも肩をそびやかさずにはいられない承太郎だった。
 承太郎には理解しがたい熱心さで、花京院が手を動かし続けている。
 別に動いたと言って文句を言われることはない。承太郎が立ち上がろうと寝てしまおうと、絵を描くために必要な明かりさえ残しておくなら、花京院はそのまま承太郎を描き続ける。ひどく疲れていて、じっと坐っている気になれない時は遠慮なくそうするけれど、そうでないなら、意外な辛抱強さで花京院に付き合う。そんな自分が物珍しくて、そして、わざわざ熱を込めて自分を描く花京院の、その種の人間の態度もそれなりに興味深く思えて、毎夜というわけではないこの作業は、飽きもせず続けられている。
 「酔狂な野郎だぜ、絵なんざ、何が面白い。」
 わざと悪し様に言うのは、描かれるために見つめられていることに対する照れ隠しと、この旅の仲間の花京院に対する、すっかり胸を開いた遠慮のなさゆえだ。
 手と目を止めずに、花京院が応える。
 「正直なところ、僕自身も驚いてるんだ。」
 組んだ膝の上に置いたノートから顔を上げ、何のためか、透かすような目つきをして、承太郎のどこかを凝視して、また手元へ視線を戻した。
 「絵を描くのはもちろん嫌いじゃないが、それはその程度のことであって、別に何か描きたいから絵が好きというわけじゃなかった。ただ漠然と、線を描いて色を塗ったりとか、そういう作業が割りと好きなだけだと思ってたんだが。」
 どこかが気に入らなかったのか、花京院が、左手に持っていた消しゴム──これも市場でアブドゥルが見つけてくれたものだけれど、まったくその名に相応しい使い心地ではないらしい──でノートの表面をこする動きが見える。まだかぶったままの帽子をちょっと跳ね上げるようにして、何をしているのか見えないかと、承太郎はこっそりとその辺りへ視線を当てた。
 「だから、いわゆる創作意欲と言うのか、画家やら詩人やら作曲家やらがそう言うのをちょっと懐疑的に見ていたんだが、確かにそういうことはあるんだな。僕も驚いてる。」
 ノートの、手元近くに鉛筆の先が移動する。足元か、上着の裾辺りを描いているのだろうかと、承太郎は思って、何気なく足を組み替えた。
 「木や岩は、その形に削り出されるのを待っているんだそうだ。その形が見えて、それをきちんと削り出してくれる人間を辛抱強く待っている。そういうものだと、絵を習っている時に言われた。そういうものかと思っただけで、自分の目の前に、そういう形が現れるなんて、ちっとも信じてやしなかった。」
 僕はそういう人間じゃないんだ、と、少し小さくなった声で花京院は付け加える。
 照れたように、あるいは、自分を嗤うように、花京院の横に広い唇の片端がわずかに上がるのが見える。それを見つめてしまってはいけないような気がして、承太郎は、自分の革靴の爪先に視線を移した。
 「なんでおれを描く?」
 爪先を見つめたまま訊くと、花京院が、動かし続けている腕を少し休めるように、軽く胸を反らした。
 「さあ。どうしてだろうな。よくはわからないが、僕は君の一挙一動すべて、どこかに保存しておけたらと思ってるよ。いつも。」
 苦笑めいていた笑顔が、誇らしげな色を、その上に刷く。
 「誰かのためというわけではなくて、僕は僕のために、今僕が見ている君を、全部描き止めておきたいんだ。いつか、僕が見ている君を誰かに見せられるような、そんな機会があればいい。なくても別にいい。僕は、君を描きたいという、何だろうな、ひどく浮かれた気分を楽しんでるんだ。こんなのは初めてだ。君には悪いが、こうやって君を描くのが、今僕は今死ぬほど楽しい。」
 「おめでてェ野郎だ。」
 目元を隠すために、帽子のつばを引き下げた。その陰で、花京院に向かって微笑んだ。
 「何とでも言え。不謹慎は百も承知だ。」
 花京院も微笑んだ。
 それから、鉛筆と消しゴムを左手に一緒に持って、丁寧な仕草でノートを閉じる。ありがとう、と言って椅子から立ち上がり、道具をしまうための自分の荷物を、視線の先に探す。
 承太郎も立ち上がり、やっとシャワーを浴びるために帽子を脱ぎ、それをベッドに放り投げようとした手を、ふと止めた。
 何か言いたいことが、ふと頭に浮かんだ。形のはっきりとはしないそれに、まるで深海を泳ぐ魚の影を追うように目を細め、見極めて手元に引き寄せようとする。
 絵を描くのは嫌いだ。けれど、花京院にそうして見つめられるのは、そう悪い気分ではない。自分のはずだけれど、自分の知る自分ではない自分を見ているような、その花京院の瞳の表情を、いつの間にか気に入っている自分がいる。絵を描くのは嫌いだ。けれど、絵を描く花京院を見つめているのは好きだ。
 ノートに描き止められているのだろう、花京院が見ている世界の断片を、いつか見たいと思った。
 自分の姿を通して、花京院が在るのだろう世界の、その色と形を、花京院の目を通して見ることができたらと、手の中の帽子を見つめて、思った。
 承太郎の、そんな思考の波を感じ取ったように、花京院が承太郎の方を向く。承太郎と、少し抑えた声が呼ぶ。
 「次の時は、スター・プラチナも描かせてくれないか。紙に収まるかどうかわからないが、君と一緒のところを描きたい。」
 細めた目が、承太郎の背後にスタープラチナを見ている。周囲を切り取って、もう描く絵の中に、ふたり──おかしな言い方だ──を収めて、心の中で、架空の絵の具を混ぜ始めている。巨大な、無限のキャンバスの上に色を置く筆の動きさえ、目の前にはっきりと見える。
 その視線を受け止めながら、なぜか承太郎は、嬉しさと同時に、かすかな淋しさも感じていた。なぜだかわからない、自分の感情に戸惑う気持ちを、そっと奥底に押し込めて、絵を描く時以外に、その瞳に同じような熱を込めて見つめられたいのだとは、まだ気づかないまま、承太郎はやっと手の中の帽子をベッドの上に放った。


 モデルに相応しい大きさのキャンバスに、承太郎もスタープラチナも、描(えが)かれることはなかった。色が塗られることもなく、承太郎──とスタープラチナ──を目の前に据えて、花京院がスケッチを取ることもなかった。
 あの手が動いて、承太郎を写す線を描(えが)くことは、もうない。
 熱を込めたあの瞳も、描き上がった絵を想像して、どこかうっとりと細まる目の表情も、何もかも、どこにもない。
 花京院が使っていたあのノートがどうなったのか、承太郎は知らない。形見が欲しいと、言える間柄には、ほんの少し時間の長さが足りなかった。そしてそれを思いつき、言い出せるほど、冷静でもなかった。
 あれは、花京院と一緒に灰になったのだと、煙になって一緒に空に昇ったのだと、そう思うことがある。花京院が色を塗ることのできなかった、ノートの、かすかに黄味と灰色がかった粗末な紙の表面の、そう言えばあれは人を焼いた骨の色と、どこか似ているように思える。
 空に昇ってゆく、煙草の煙の色も、同じような色をしている。
 花京院が塗りたかったのは、そんな色ではなかったはずだと、承太郎は考える。
 色を塗るつもりだったのだ。何もかもが終わった後で、今日の後には明日が続くのだと、何の疑問もなく思える日々に戻った後で、きっと花京院は、描きためたあれこれに、たっぷりと絵の具を乗せた筆を走らせて、色を塗るつもりでいたに違いないのだ。
 手に入ったのは、粗末なノートと鉛筆だけだった。色を塗る道具も暇もなかった。それでも花京院は、承太郎を描(えが)き続けた。線と影だけで承太郎を描き写し、自分の見ていた承太郎を、そこに表し続けていた。花京院の目の中には、きっと色があふれていたはずだった。そこにはまだ写されてはいなかった色が、鮮やかに見えていたはずだった。
 その自分自身を、承太郎は1枚も見なかった。花京院の見ていた自分の姿を、見ることはかなわなかった。
 君を描きたい。こんな小さなノートじゃなく、どこか大きなところに描きたいな。
 描けばいいと答えた。何もかも終わったら、好きにすればいいと、承太郎はそう言った。
 絵を描くのは嫌いだ。きっともう二度と、誰かが承太郎を描こうとすることもないだろう。誰かがあんな目で承太郎を見ることは、もうないだろう。絵は嫌いだ。何かを表さずにはいられない人間たちの、形容しがたい衝動も含めて、何もかも大嫌いだと承太郎は思った。
 花京院に描かれるために、自分は在ったのだ。花京院に描かれて、だから自分は在れたのだ。花京院のために、自分は在ったのだ。
 花京院が、承太郎を表した。表して、現した。表すその手が、消えてしまった。
 フィルターのぎりぎりまで吸った煙草が、それを挟んだ指を焼きそうになっているのに、承太郎はその手を目の前に伸ばして、まるでそこに何かあるように、指先で探るような仕草をする。
 空回るだけの自分の手が、色のない透明な、線だけの存在のような気がして、思わず目を細める。
 色を塗らずに逝ってしまった花京院の、表したまま、奥行きのない平面の、無色のままの承太郎が、そこにいた。
 「やれやれだぜ。」
 ひどく悔しげに、声が響く。
 煙草を足元に投げ、拳を握る。花京院を引き止め損ねたその手には、けれど確かに現実感があった。
 また下を見て、絵を描いているクラスメートたちの姿を眺め、それから、空を見上げた。
 空の色を写した自分の瞳の色を思い浮かべながら、その色を塗り損ねてひとり先に逝った花京院に向かってつく悪態を思いつけない。
 自分の小ささに耐え切れずに、承太郎は、足元にうつむいて歯を食い縛った。泣いていると思ったのに、小さくうめいた声が、かすかにもれただけだった。


戻る