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妹背

 ふたりで一緒に住むマンションの小奇麗なキッチンに、成人の男ふたり暮らしにはまったく似合わない、小さく紅梅の花びらの散った湯のみがある。
 湯のみ自体の大きさも、男飲みにしてはずいぶん小さく、花京院の片方の掌の中にすっぽりと覆われて見えなくなってしまう。
 引越しの時に花京院が持ち込んだそれは、花京院の荷物のどこへ紛れても異彩を放っていて、それをキッチンの棚へ仕舞うのに承太郎は数瞬迷ったほどだった。間違えて持って来たのかと控え目に問うと、
 「いや、僕のだ。」
と、顔色も変えずに花京院が言う。
 「選んで買ったのは母さんなんだが。」
 続けてそう言うのに、ああこの男も、自分ほどではなくてもそれなりに母親っ子なのかと、承太郎がちょっと内心でくすりと笑いを漏らしたところで、まるきり見当違いの方向から、この明らかに女持ちの湯のみの話を、花京院が荷解きの合間のお茶の時に、その湯のみで早速淹れたお茶を飲みながら語った。


 僕が小学校の6年生の時だったと思う。まだ中学の制服は着てなかったから。
 母さんが、買い物に行くからちょっと一緒においでって言うんだ。いつも忙しい人だから僕と一緒に外出なんか珍しいし、僕は別にいやとも思わずに一緒に家を出たんだ。
 駅のちょっと西の方に、長い通りの商店街があってね、最初はそこに和菓子を買いに行ったんだ。母さんがたまに仕事の帰りに遠回りして買って来ることのある店で、そこの和菓子は父さんのお気に入りで、でも父さんも忙しくてふたり揃って家にいることなんて滅多とないから、母さんがそこで何か買って来ることはまったく稀なんだが。
 父さんの分に3つ、母さんに2つ、僕にひとつで6つ買って──え?ふたつずつじゃないのかって? いやウチは平等に分けるってことはなかったなあ。僕は子どもだからそういうものはひとつでいいって、いつも言われてたんだ。え?君のところは君が3つでホリィさんがひとつ? ひどいなあ。今度ホリィさんに、ケーキかパイでも丸ごと買って行こう。
 で、その和菓子屋を出て──箱は母さんが持ってた──、そのまま通り過ぎるところで、母さんが急に足を止めたんだ。
 そこは陶器を売ってる店だった。母さんは不意に思いついたみたいに、ふらふらっとその中に入って、ぐるっと中を見回してから、それからやっと僕に気づいたみたいに振り返って、こう言ったんだ。
 ──典明、父さん用に、湯のみを選んで。
 僕、ちょっとびっくりして、3秒くらい言われたことがよく分からなかった。どうして僕が選ぶんだろうって思ったし、どうしてわざわざ父さんに、湯のみなんか買うんだろうって思ったんだ。父さんも母さんも、滅多と家でゆっくり夕飯を食べることすらないのに。それに、特別のじゃないけど、僕らが今使ってる、4つだか6つだかの揃いの湯のみがちゃんとあるのに。
 でも別に逆らう理由もなかったから、僕は素直に湯のみの並んでる棚の前に行って、母さんに言われた通り、父さんのために湯のみを探し始めたんだ。
 夫婦茶碗みたいな、そういう揃いの湯のみもあったよ。でも母さんは、父さんの分だけ選べって言ったし、だから僕は、それらしい大きさでそれらしい色のを探したんだ。
 母さんはその間、僕より少し離れたところに立って、棚に手を伸ばすでなくぼんやり目の前の食器を眺めてた。
 結局僕は、渋い灰色寄りの茶色の、ざらざらした表面が指の形にでこぼこした大きな湯のみを選んで母さんに差し出した。
 ──・・・いい色ね。
 何だか、普段の母さんらしくないやけに優しい声でそう言って、僕の手からその湯のみを取り上げて、それから母さんは、
 ──あんたもひとつ、自分の分に選びなさい。
って言うんだ。今度こそびっくりしたよ。父さんの湯のみを僕にわざわざ選ばせるのもびっくりだったし、その上に、僕にも新しい湯のみを買ってくれるなんて、別に欲しかったわけじゃないけど、明日は赤い雨が降るって思ったよ。
 僕がその頃欲しかったのはマンガとかゲームとかだったけど、それでも何か買ってもらえるって特別じゃないか。ちょっとうれしくなって、多分その時僕は小さく足踏みしてたと思う。
 あんまり考える必要はなかった。父さん用にって選んでる時に、これがいいなって思ってたのがあったんだ。父さんのよりちょっと小さくて、表面はつるつるしてて、父さんのと同じような色合いの、でもそっちは抹茶色で、縁のところは何も掛かってなくて焼いた土色だった。
 少し高くて、手が届くかどうかちょっと分からない棚の上にあったんだが、僕は一生懸命背伸びしてその湯のみを取ったんだ。落とさないように気をつけて片手に取って、振り返ったら、母さんがちょっと驚いた顔をしてた。多分僕が、その棚に手が届くと思ってなかったんだろう。
 僕が必死になってる間に自分で選んだのか、母さんの手には、さっき渡した父さん用の湯のみと、それからこの白い湯のみがあったんだ。それも買うのって僕が訊いたら、母さん何だか照れたような表情(かお)して、そうよって言ったんだ。
 店のおばさんは、僕らが選んだ湯のみをひとつひとつ新聞紙で丁寧に包んでくれてから、箱に入れて、それから持ち手のついた紙袋に入れてくれた。それは僕が持って、それから僕と母さんは家に帰ったんだ。
 父さんが、新しい湯のみを使ってるのを見たのはそれから1週間くらい後で、別にうれしいもありがとうもなかったけど、父さんは今もその湯のみを使ってるよ。


 「で、なんでその、お袋さんが選んで買った湯のみを、てめーが今使ってるんだ?」
 承太郎が、まったく訳が分からないと言いたげに訊く。花京院も不思議そうに、けれど微笑んで湯のみの縁に人差し指を滑らせながら、テーブルに肘をついて、そこに軽く頬を乗せた。
 普通に日本茶を飲むと言う習慣のない承太郎は、今はひとり分のコーヒーを自分で淹れて、それにはもちろんごく普通のマグカップを使っている。
 ふたりの食卓は、まだ何だか少しちぐはぐだ。
 花京院の湯のみ話が、茶とコーヒーの冷めると同じ速度でゆっくり再開する。


 最初は母さんも、ちゃんと自分の湯のみを使ってたんだよ。でもひと月もしないうちに、母さんがお茶を飲む時は僕の抹茶色の湯のみを使うようになって──母さん曰く、こっちの方が気に入ったからって。
 まあ何て言うか、親の権限で有無を言わせないって言うのか、僕には逆らう権利はない感じだったんだ。家で使う分には、いかにも女性っぽい湯のみくらいどうってこともないし、何だかちょっとずるいような気もしたんだが、僕も僕で、親に逆らうなんてまだ考えもしなかった頃で──僕は別に、食後必ずお茶を飲むってわけでもないし、だからまあいいやって思ったし。
 父さんと母さんと揃って夕飯を食べると、食後に母さんがお茶を淹れるんだ。父さんとふたり分。食事の後に、洗いものかごに食器が並ぶだろ、父さんと母さんの湯のみ──元は僕のだけど──が、まだ濡れたまま伏せてあって、そうやって並ぶと、その湯のみふたつは何だか似てて、それを見て僕は、ああ父さんと母さんは夫婦なんだなあって思ったんだ。
 ずっと、父さん母さんを自分の親だとは思ってたけど、ふたりきりで夫婦だって思ったことはなくて、僕が選んだ湯のみをふたりが一緒に使ってるのが、何だか象徴的だなあって思ったんだ。まあそんな風に理屈っぽく考えたのはもっと後の話だが。
 今回の引越しの前に、次がいつになるか分からないからって、母さんと差し向かいでお茶を飲んだんだ。当然僕がこの湯のみで、母さんが僕の選んだ抹茶色のだ。お茶は僕が淹れた。それで、思い切って訊いたんだ、別に何とも思ってないけど、どうしてその湯のみを僕から取ったのって。
 ──両方とも、あんたが選んでくれたから。
 母さんが、湯のみを顔の前に抱えたままそう言ったんだ。
 それだけだよ、母さんが言ったのは。その後で、僕は荷作りしながらずっと考えてた。この湯のみを、他の食器と一緒に、新聞紙でくるみながら考えた。
 母さんは、多分いかにもな夫婦用の湯のみは欲しくなかったんだと思う。恥ずかしいとか照れ臭いとか、色々理由はあるんだろうが。でも、父さんの湯のみとあの湯のみは僕が一緒に選んで、だから何となく似てるところがあって、母さんには充分お揃いみたいに見えたんじゃないかな。だから母さんは、自分が選んだ湯のみじゃなくて、僕の湯のみを取ったんだ。
 父さんが気づいてるかどうかは知らない。でもあれは、母さんの、ものすごい遠回しな、何て言うか──


 「愛情の告白ってヤツか。」
 言葉を探してか、あるいは単に照れてか、言い淀んだ花京院の語尾を、承太郎がさらりとすくい取った。
 花京院がうっと唇を結んで、頬を薄赤く染める。承太郎と違って、花京院はごく普通に、自分の両親の仲について語るのが苦手だ。
 「遠回しどころの話じゃねえな。」
 ちょっと苦笑を混ぜて、承太郎は言った。
 いかにもこの花京院の両親らしい話だ。微笑ましさと気恥ずかしさと、そして奇妙な切なさのようなものも混沌と入り乱れて、なるほど、この両親に育てられた花京院も恐らく、これから承太郎に、そんな風な分かり難い表現の仕方をするのかもしれないと思った。
 自分と一緒に暮らすと言うのなら、今さらその気持ちを確認することもないだろう。それでも、折に触れて承太郎が、好きだぞと言い続ければ、そのうち花京院も、僕だって好きだくらいは言い返して来るようになるかもしれない。
 湯のみの縁をなぞっていた花京院の指先を、テーブルの向かい側から腕を伸ばして、承太郎はそっと取った。こんな風にしても、これからは誰に見咎められる心配もない、ふたりの住み処だった。
 「今度、カップでも買いに行くか。」
 承太郎に取られた手を気にしてか、ちょっと肩の辺りを揺するようにしてから、花京院が軽く唇をとがらせる。
 「君とお揃いかい? それは何だかちょっと僕らには似合わないような気もする。」
 「いいじゃねえか、似合おうと似合うまいと、てめーとおれ用に、一緒にふたつだ。」
 花京院の瞳がちらりと動き、白い湯のみを見る。それから承太郎を見て、ほんのわずかにうなずいた。
 「──そうだな、そのうち。」
 承太郎と花京院が一緒に選んだカップがふたつ、棚に並ぶキッチンで、揃わない肩を並べて一緒に食事を作る。食べるのも一緒だ。後片付けも一緒だ。
 ああそうだ、これからはずっと一緒だ。自分たちの両親と同じに。
 両親とは少し違う生き方を選んだふたりは、テーブルの上で指先を絡め合ったまま、まだ残ったお茶にもコーヒーにもそれきり口をつけようとはせず、見つめ合うだけで過ぎてゆく時間を、惜しいとは思わなかった。

突発の気まぐれで、おきむくさんへ押し付けー。ハピバーっす☆
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