熱狂



 花京院が持って来た、Stingを聞いていた。
 ベッドに寄りかかって、花京院は膝に歌詞カードを置いて、承太郎はその傍で、花京院の肩に頭を乗せて、けだるげに手足を伸ばして、だらしなく煙草を喫っていた。
 承太郎の、ちょっと眠そうな表情が、まるで酔っているように見えて、珍しく帽子のないその頭に、花京院は時々あごをこすりつける。
 さっき承太郎がB面に引っくり返したそのアルバムを、花京院はいつもはカセットテープで聞いている。滅多とレコードそのものをプレイヤーに乗せることはないのだけれど、承太郎の部屋に来た時だけは別だ。
 大きなスピーカーから流れる音は、一音一音の粒が立って、様々に重なった音色がそれぞれ際立っていながら、心地良い塊まりになって耳に流れ込んでくる。
 この部屋で、だらだらお気に入りのアルバムを聞くのが、ふたりともとても好きだった。
 もう、何度聞いたか知れないアルバムだ。それでも、聞くたびに新しい発見がある。聞くたびに、新しいところを好きになる。あるいは、同じところをもっと好きになる。
 花京院も承太郎も、好きな音楽の種類は違ったけれど、音楽に向かう姿勢はとても似ていて、だから、互いの趣味に率直な意見は言っても、貶めるようなことは絶対に言わない。相手が、何についてにせよやけに熱く語るのを、とりあえず微笑ましく聞ける程度には大人な態度で、それも実は、エジプトへ向かうあの旅の間に学んだことだった。
 おぼつかない唇の動きで、けれど歌詞を追えるところは一緒に歌う。目に入ってくるアルファベットよりも、耳から入る音に舌が先に反応する。
 どちらかと言えば高くて細めのStingの声は、何かを鋭く引っかく音に似ていて、けれど決して人工物の匂いはせず、この声を聞くたびに、花京院はとても大事にされている、ブリキの玩具を思い出す。どこか懐かしい、子どもの頃に聞いた子守唄のように、胸に暖かなものが広がる。
 花京院は、思わずまた、承太郎の頭にあごの先をすりつけた。
 やっと煙草を喫い終わって、承太郎は平たい腹の上に掌を置いて、ほんとうにそのまま眠ってしまいそうに、花京院にもたれかかっている。
 B面もそろそろ終わりだ。レコードを片付けたら、もう家に帰ろうかと、承太郎のぬくもりに自分も眠気を誘われながら、花京院は思う。
 承太郎が、また煙草に手を伸ばしながら、不意に訊いた。
 「音楽聞いてて、勃ちまったことがあるか。」
 たつ、と承太郎の言った言葉の意味がわからず、花京院はちょっと瞳を上に押し上げて、承太郎の方へちょっと顔を近づけた。
 「たつって・・・たつって?」
 花京院にまだ寄りかかったまま、にやっと承太郎が笑う。そうして、その笑い方に、どうやら正しい意味を悟ったと思ってから、花京院は、自分の下腹の方を指差して、
 「・・・そういうことかい?」
と、ちょっと小さな声で訊いた。
 おう、と承太郎がおかしそうにうなずいて、その類いの話題につきものの、ちょっとだけ照れたような色を頬の辺りに浮かべる。
 「ないよ。」
 即座に花京院は答えた。
 承太郎がまた、ちょっと喉を鳴らして笑った。
 「その様子じゃあ、君はあるんだろう。どの曲だよ。」
 「聞くか?」
 からかうように承太郎が言う。花京院から体を離して、もうステレオの前へ行く素振りを見せた。ちょうどB面が終わって、ぷつんと音を立てて、レコード針が元の位置に自動的に戻ってゆく。
 「いいよ。」
 軽くうなずきながら、眠気を覚ますだけのつもりでそう言った。
 承太郎がやけに楽しそうにステレオの方へ這ってゆくと、花京院のStingをジャケットに収めて返して、それから、いつもの素早い、けれど丁寧な手つきで、わざと取り出したレコードのジャケットを、花京院には見えないように大きな背中の陰に隠して、どれも同じ大きさと色の、ただ真ん中の丸いレーベルだけが時々違う、どれがどれか花京院には見分けのつかないレコードを、1枚プレイヤーに乗せる。
 針がゆっくりと動き始めると、承太郎はさっさと花京院の隣りに戻って来て、今度は花京院には触れない位置に腰を下ろした。
 10ほど数えた時に、ざくざくと切り刻むようなギターの音が始まり、別のギターがその上に重なると、腹に響くようなバスドラムがすぐにうねり始める。
 床から響く振動に驚いて、その、覆いかぶさってくるような音量に驚いて、花京院は思わず肩を引く。驚いている間に、高音が、いきなり脳天を貫いた。知らずに、口が開いた。戦車か何かが突然目の前に現れて、叫ぶ間もなく全身にのしかかってくるような、ひずませた音の洪水に、花京院はあっと言う間に飲み込まれる。
 叫ぶように歌う声が、どこまでも伸びてゆく。どの音よりも鋭く、かきむしるように、何の前触れも与えずに、頭の中を突き抜けてゆく。
 「誰だこれ。」
 すぐ隣りにいる承太郎に、うっかり大声で訊いた。
 「Judas Priest。」
 承太郎が、うっとりとその名前を発音する。
 何となく韻を踏んでいるように聞こえるその名前を、口移しにして、また花京院はスピーカーの方へ向き直った。
 ギターの音をそのまま写したような声が、何よりも耳に引っ掛かる。上手いのかどうか、今ひとつよくわからないのは、花京院がこの類いの音楽を聞き慣れていないせいだろう。けれど、騒音めいているくせに、雑音とは違って、ひとつひとつの音の絡まりははっきりと印象的だ。
 ほんとうに、何もかもが疾走するように、辺りを駆け回ってゆく。例えば、高速を、凄まじいスピードで走ってゆく大きなバイクのような、見ているだけで、体が粉々になりそうな、そんな衝撃に似ている。
 スピードも、音の重なりも絡まりも、緩急自在に、体全体を揺り動かすようなドラムの音は、見てくれの音量に頼らずに、しっかりと底ですべてを支えていた。
 気障なことを言えば、いきなり胸の中に手を突っ込まれて、魂全部をその手に掴まれたような、知らずに息の詰まるその迫力は、確かににせものではない。好きか嫌いかはともかく、これはほんものとわかる音だ。
 聞いているだけで、上へ引き上げられるような、そんな力強い声に揺さぶられて、気がつけばまるで音を見ようとするように、目を細めている。
 全身を絞るその高音は、時折ひどく凄艶に響いて、とても人のものとも思えないその声の高さは、機械で増幅されて歪められた音の中で、負けるどころか、鮮やかにすべてを引き寄せて引きつけて、その孤高を保っている。けれど孤高さは、そこからまずく浮き上がってしまうものではなくて、調和しながら、その存在の輪郭を、決して埋もれることなく、周囲の音に合わせて自在に変える柔軟さが、明瞭に含まれていた。
 印象深い旋律と、声と、何よりも怒涛のような音の連なりと、圧倒的なその迫力に、ねじ伏せられてしまえば、後はもう熱狂するしかない。
 花京院がそう思った通り、承太郎はまるで目の前に、音符が流れてでもいるかのように、空に視線を泳がせて、すっかりその中に入り込んでしまっていた。
 性的な興奮ではない。何かに屈服するという、少しねじれた快感だ。そこに自分を解き放ってしまえば、自我を保つという努力を放棄して、誰かの自我に溶け込んでしまえる。共感は、共有の感覚に繋がって、自分がこの世界にひとりぼっちではないのだという安心感を生む。誰かと、どこかで繋がっているのだという、奇妙な確信。
 欲情ではない。安堵だ。けれど、確かにこの音は、ある意味ひどく官能的だ。
 この音に浸っているうちに勃起したという承太郎の気持ちがわかるような気がして、花京院は思わず微笑んでいた。
 何ものにも揺るがない、どんな思想にも染まらない、それほど強固とした自身を持っているように見える---そして、おそらくそのまま事実だ---承太郎が、こんなふうに、音の洪水で洗脳されるように、呆気もなく自分を引き渡して、その中に取り込まれているという珍しい状態に、花京院は思わず見惚れる。
 それだけの何かが、間違いなくこの音の中にはあるのだ。承太郎ほどは脳を真っ白にすることのできない花京院にさえ、それは理解できる。
 承太郎でさえ、何かに自分を委ねたいと思うのだという、そのひととしての当たり前の弱さを、そこに持っている。花京院と同じほど、承太郎もただの人間なのだと、やかましい音に身を任せて、どこかを漂っている意識を手元に引き寄せておこうとすらしていない、その完全に無防備な姿が、あやうくて、ひどくいとしかった。
 その承太郎の弱さを含めて、承太郎をすべていとおしいと思って、花京院は、曲が終わる前に、思わず承太郎に抱きついていた。
 曲が変わって、けれど同じように脳をじかに揺するような音が、ずっと続いている。
 花京院の腕に従って、承太郎は、床の上に寄り添うように、体を横たえた。
 互いに、そこに伸ばした掌に、確かに触れるものがあって、口づけられるほどの近さで、ふたりは一緒に笑った。
 承太郎は、その重低音と高音の絡まりのせいで、花京院は、そんな圧倒されている承太郎を見ていて、けれど導かれた同じ結果を、ふたりは互いの掌の中に確かめ合っている。
 この、叩きつけるように無限にあふれる音を、花京院は今は好きだとはとても思えなかったけれど、いずれ夢中になる時がくるだろうと、そんな予感がした。今承太郎が夢中なように、今、花京院が承太郎に夢中なように、がらくたの詰め込まれた脳を空っぽにして、さまよい出すのは、きっと無我の境地だ。
 凄まじいバスドラムの連打に、ふたりが横たわった床がかすかに揺れている。
 そこで、ふたりは抱き合って、深くはならない口づけを始めていた。
 今までのどんな時よりも、今承太郎をいとしいと感じていて、花京院は、音と同じにあふれる自分の気持ちを止められずに、承太郎の中をすべて自分で満たしてしまいたくて、必死に注ぐように、いっそう近く体を寄せる。
 いつかあんなふうに、とろけそうな顔で、自分の名前を呼んでくれる時が来るだろうかと、そんなことを思いながら、承太郎の掌のあたたかさに、花京院はすべてを委ね切っていた。


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