もらい泣き


 すっかりふさがってしまった腹の穴を、花京院は右の掌で撫でた。
 身をよじる巨大なヒトデが、べったりと張りついたようなその傷跡は、皮膚の他の部分よりもかすかに赤みが差して、触れるにはためらうほど、薄く脆く見える。同じような傷跡が、貫通した背中側にもある。1本足りなくなった肋骨のせいで、右肩が、よく見れば少し下がっている。どれほど背を伸ばしても、自然に体が傾く。
 熱い湯につかった後で、汗を流すつもりで、冷たい水を浴びるのは、退院してからの、誰に言われたのでもない、花京院の新しい習慣だった。
 自分の体を特に貧相だと思ったことはなかったけれど、こうして風呂上りに眺めれば、思い出して比較できる対象が承太郎のせいか、筋肉の厚みも骨の太さも、まるきり足らないように思えて、鏡の中の自分に向かって、わずかに唇をとがらせてみる。
 顔も体も、どこもかしこも、どうにも収まりの悪い造作だ。
 眉は細すぎるし、横に広い唇は、もう少し厚みがあれば、笑顔が冷笑に見えずにすむのだろう。あごの辺りの線も、ひどく生意気そうで、自分が誰にも好かれないのは、性根が表情に出ているからなのかもしれないと、鼻の頭の辺りを撫でながら、ひとりごちる。
 肩幅は、同級生たちと比べれば広い方だったけれど、隣りにいるのが承太郎では、実際の数字の2割引きの印象だと思っていて間違いない。
 腹の傷のせいでしばらく入院していた間に、筋肉が落ちてしまった脚は、まだ以前の形を完全には取り戻せずに、気持ちが悪いほど貧弱に見える、ような気がする。手足が長いと言えば聞こえがいいけれど、実際には、着る服を選ぶのに苦労するばかりで、意外と良いことは少ない。特に花京院は、自分が実際よりも細身に見られるのは、バランス悪くただ長いだけの手足のせいだと思い込んでいる。
 吐き気をもよおすほどではないとは言え、ようするに、醜いと称される部類に入る人間だろうと、花京院は、引いたあごを傾けて、大した失望も感じずに、冷静に自分を眺めた。
 元々醜悪だと言うのに、人目を避けずにはいられない、この大きな腹の傷と、そして両目を切り裂いた傷と、もう言い訳する余地もないなと、花京院は肩をすくめて、湯冷めをする前に風呂場から出ようと、回しかけた肩を、けれどまた元の位置に戻す。
 鏡の中で、上気した頬を光らせているのは、確かに生きている少年だ。もう1年もすれば、体は元に戻り、厚みを増し、青年と称されるのに憚りもなくなるに違いない、成長期の少年の姿が、鏡の中に見える。
 この傷はなく、肋骨もすべて揃っていた時の自分の体を、花京院はもう思い出せない。
 再生した内臓は、それでもどこか欠けてしまっているのか、みぞおちや下腹の辺りが、以前よりも薄く見えるような気がする。
 傷だらけの体だ。健やかに育っていた、今はそれを失い、それを取り戻そうとしている、育ちかけの体だ。
 この腹に穴を開けて、拳が通り抜けていったのだと、今はもう信じられず、かすかに憶えている衝撃は、けれどその時の痛みよりも、その後の激痛に直結している。
 血を失って、体温を失くした体。砕けた内臓と砕けた骨と、潰された筋肉は体の外へ流れ出て、一部は永遠に喪われてしまった。ひと時止まった心臓を動かしたのは、承太郎のスタープラチナだ。血にひたった制服の腹の辺りは、鉄臭い匂いがして、その時はほぼ消滅していた胃が、けれど吐き気を呼び起こしていたのを、花京院はおぼろに感じていた。
 吐けるのは、血ばかりだったけれど。
 意識を取り戻した後で、鎮痛剤の点滴なしにはひと時も過ごせず、生きていてよかったと思うと同時に、死というものは唐突に訪れ、自覚もないまま起こってしまえるものだということに、驚いてもいた。
 ほんの紙一重の、その程度のタイミングで、生き延びてしまったのだと心のどこかで思っていた。それには、きっと何か意味のあることなのだと思えても、だからと言って自分の存在が貴重で重要なものだと思えないのは以前と変わらず、痛みと高熱で朦朧としながら、生き延びるというもの決して楽ではないと、心の中で苦笑をこぼす。
 笑いながら、泣いた。ベッドの上で身動きもできず、ただ白い天井を見上げて、まるで止まってしまった血の代わりのように、花京院は涙をこぼした。
 命の、軽さと、重さと、儚さと、その意味深くもあり無意味でもある姿が、感動も何もなく、ただすとんと、胸の中---あるいは、腹に開いた穴の中---に落ちて来た。
 欠けてしまった体だ。何かを失くして、その重さを失ってしまった命だ。生き返る、生き延びるというのは、つまりそういうことだ。
 元々大人びた少年だった花京院は、今では、心だけ先に大人になってしまったように、少なかった口数はさらに少なくなって、親たちが戸惑っているのを知りながら、それについてはただ微笑みを浮かべて見せるだけだ。
 誰にもわからない。失うことで、大人にならざるを得なかった花京院の心の内は、誰にも理解できない。
 こうなったことを後悔しているのではなく、ただ事実として受け止めながら、それを悲しいとひとり感じているだけだ。
 以前は、重さはあっても意味はない命だった。今は、軽くなったその分意味を増した、おそらくこれからは他者のために使うべき命なのだろう。
 花京院を生かした、他者たちのために。
 生きているのではない。花京院は、生かされているのだ。さまざまなものと人たちが、花京院を生かしている。
 命とは、ひとりひとりのものではなく、どこかで繋がった、ひとつのものなのだ。ひとまとまりの、その茫としたそれの中に、花京院も含まれている。以前よりも欠けた命は、けれどその中では形すら定かではなく、だから、花京院に起こったことすら、それは包み込み混ぜ合い、海に落ちた雨の一滴のように、一瞬後にはもう跡形もない。
 自分という存在の小ささを、花京院は、今初めて思い知っている。それは、ただぼんやりと頭の中にある考えというものではなく、今では花京院の全身に、傷跡として刻み込まれている実感だ。
 小ささは問題ではない。欠けていることも問題ではない。この世にひとりで在る花京院が、ひとりではないということ、ひとりだと思うことは、ただの思い上がりに過ぎないということ、この世に在るものはすべて、世界に含み込まれているということ、そのことを、花京院は身を持って知った。
 それを思い知るための代償の、この腹の大穴だ。
 この世に含まれているということが、孤独ではないということではない。他の誰かに理解してもらえるということでもない。それでも、花京院は常に誰かと繋がっているのだ。生き長らえた命は、誰かと繋がり、繋がったその先で何かを成すためにあるのだと、今ならわかる。
 それを愉快とも有難いとも感じることはなく、ただ、それはそういうことだと静かに受け止められる自分が、ひどく大人になってしまっているのだということを、花京院は、心のどこかで淋しいと感じている。
 苦難や苦痛は、しばしば人を成長させる。好むと好まざるとに関わらず、大人になることを強制されるのだ。
 健やかな体に、まだ幼稚な心を抱え持て余していた半年前の自分を、花京院は懐かしく恋しいと思う。
 あの自分は、もうどこにもいない。あれは、永遠に失われてしまったのだ。それを、良いこととも悪いこととも思わず、ただただ、淋しいとだけ感じている。
 誰にも理解されないまま、あれは逝ってしまったのだ。誰にも心の底を覗かせず、誰にも心を開かず、そんな術も知らないまま、逝ってしまったのだ。
 誰かを大事に思い始めた瞬間から、あれは、どこか暗いところへ追いやられ、花京院自身さえ、滅多と思い出すこともなかった。
 稚なく、孤独だった自分。世界との繋がりなど、どこにも見出すことのできなかった以前の花京院は、今はどこにもいない。
 するりと、皮膚の裏側を撫でられるような感触とともに、翠の光が胸の前に現れた。
 あたたかくも冷たくもない、なめらかな感触が、腹の傷跡に触れるのが見える。
 ハイエロファント。
 呼ぶと、肩の辺りに、頭やあごの輪郭が現れる。 
 まるで花京院を抱きしめるように、ハイエロファントの翠の手足が、あちこちに絡んできた。
 ハイエロファントは、憶えているだろう。花京院のことを、すべて憶えているだろう。孤独だけを身にまとったあの少年を、憶えているだろう。いつまでも、鮮やかに。
 翠色に光る自分の分身を、抱き返すように、花京院は片腕を添えた。あたたかくもなく冷たくもなく、ただそこに在るという感触だけが、花京院を包んでくる。
 抱きしめられるその腕の中で、花京院は、不意に涙をこぼした。
 世界のどこにも繋がることのできなかった、以前の自分を思って、花京院は泣いた。孤独なまま逝ってしまった、今は失われてしまったあの自分を思って、花京院は泣いた。
 泣きながら、自分を抱きしめるハイエロファントの腕に、やはり自分はひとりではないのだと思い知る。
 ハイエロファントを抱き返した腕の辺りに、水の滴るような感触があった。
 ふと顔を上げ、そちらを見れば、翠に光る頬を、翠の涙で濡らすハイエロファントがいる。まるで花京院につられたように、ハイエロファントも泣いていた。
 孤独だった少年のために、深く彼を知るふたりは、一緒に泣いた。
 鏡の中に映る自分の泣き顔に、少し幼ない自分の姿を重ねて、花京院は冷えてゆく体をハイエロファントに預けたまま、そうして泣き続けていた。


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