その翌日



 2月15日の朝、花京院が学校へ行くために家を出ると、数メートル先の電柱のそばで、承太郎が花京院を待っていた。
 所在なさげに、いつも家を出るよりもきっと20分以上早い時間に、承太郎が、白い息を吐きながら、花京院を待っていた。
 「どうしたんだよ。」
 当然そう訊く花京院をじろりと見ただけで、何も言わずに肩をすくめ、行こうぜとあごをしゃくって、花京院より先に歩き出す。
 その後を慌てて追って、花京院は揃わない肩を、承太郎と並べた。
 学校へ行く道を承太郎と歩くことなど、滅多とない。図書室へ行くために、8時に間に合うように家を出る花京院に付き合う気はさすがにないらしく、昼休みと放課後も図書室通いを欠かさない花京院にすでに閉口しているらしいのに、一体どうしたんだろうかと、花京院は戸惑って承太郎を見上げていた。
 路上で見かけるのは、仕事にゆくらしい人たちばかりで、まだ学生の姿はほとんど見えない。
 こんなに朝早く承太郎と一緒にいるのは、何だかとても変な感じだと、花京院はちょっと肩を縮めて、足早に歩く承太郎に遅れないように、いつもよりも歩幅を大きく踏み出していた。
 学校にいちばん近いコンビニエンス・ストアの前で、承太郎が急に足を止めた。
 「すぐ戻る。」
 ぶっきら棒に言う声が、いつもよりも低くて、機嫌が悪いのだろうかと思いながら、花京院はとりあえず微笑んで、自動ドアをくぐり抜ける承太郎を見送る。気恥ずかしいほど明るい店の中で、肩を揺らさずに歩き回る承太郎は、完全に異分子だ。駐車場の半ばで、店の中の承太郎を、見るともなしに眺めている。
 煙草でも買うのだろうかと思ってから、さすがに制服でそれはないだろうと思い直して、今朝の承太郎は何だか変だと、さして時間も掛けずに用を済ませて出て来た承太郎を、待ち受けながら、花京院は好奇心にちょっと唇の端を曲げた。
 「ほれ。」
 あと1歩分、という距離から、承太郎が花京院に向かって、何か放り投げてくる。
 慌てて胸の前で揃えた掌にそれを受け取ると、包装のビニールがかしゃりと音を立てて、掌よりも少し長い箱は、中身を揺らして、がさがさ鳴る。
 「やる。」
 それが一体何かと、確かめようと目を凝らしている花京院に、人差し指を突きつけながら---承太郎の、お得意のポーズだ---、短く言い捨てる。
 「おい、なんだよ承太郎、一体。」
 そのまますたすたと歩き出した承太郎を、また花京院は慌てて追いかけて、そうすると、箱の中身が、またがさがさと手の中で鳴った。
 チョコレートの菓子だ。短く切った木の枝のような---名前もそのままだ---、齧るとさくさく砕けて、小さなアーモンドのかけらが、溶けたチョコレートと口の中で絡む、花京院が嫌いではない菓子だ。
 こんなものをわざわざ承太郎からもらういわれはないと思ってから、いつもよりも唇を突き出すようにへの字に固く結んで、花京院の方を見ようともしない承太郎を隣りから見上げて、ようやく、昨日が何の日だったかと思い出す。
 過ぎてしまえば、拭ったように忘れる程度の、けれど騒がしい日だ。
 主には、教師たちに対しての感謝のしるしという建前で、ほんとうのところは、意中の男子生徒への告白の意味も込めてという、可愛らしい校内行事ではあるけれど、花京院は昼休みに、わざわざ自分のクラスまでやって来た1年生に、廊下に呼び出されるまでは、自分にはまったく関係がないものと考えていた。
 センパイ、という可愛らしい声で、いかにも恥ずかしそうに小さな箱を差し出して、受け取って下さいと、去年はまだ中学生だった小柄な女の子に言われても、基本的には自分を常に遠巻きにしているクラスメートたちの好奇の視線が、今は背中に集中しているのを感じながら、花京院にはさしたる感動もなく、むしろこの子はもしかして目が悪いのだろうかと、妙な心配が湧くばかりだった。
 彼女を、教室の中から背中の陰へ隠して、花京院は他の誰にも聞かれないように、小さな声でささやいた。
 悪いけど、僕、チョコレートは食べられないんだ。病院に行く羽目になるから。ごめんよ。
 2年生の教室までやって来るのも、1年生にはずいぶんな冒険だったろう。その努力に報いるためにも、受け取るくらいのことはしてやるべきだったかもしれない。自分を見上げる幼い目が、花京院の拒絶にぐさりと傷ついて、みるみるうちに潤んでくるのが見えた。
 幸いに、気の強い子ではなかった---その場で泣き出さない程度には、強かったようだけれど---らしく、廊下で花京院を罵ったり、責めたりするようなことはせずに、差し出したままだった小さな箱を手元に戻してから、すみませんでしたと、深いお辞儀をして、自分の教室の方へ歩き去ってくれた。
 自分の机に戻りながら、教室中で、たった今起こったことについてささやき交わす声が、耳に痛かったけれど、受け取りたくないものは受け取りたくないんだ、大体僕になんか、とことさら胸を張って、顔を上げて、けれど残りの授業を、とても肩身狭く過ごす羽目になった。
 承太郎は、チョコレートについては一言も触れず、一体いくつ、誰と誰から受け取ったのか、あるいは、そんな度胸のある女生徒はこの学校にはいないのか、花京院に尋ねるチャンスさえ与えず、下校の時間までには、2月14日というのが何の日かということもさらりと忘れて、ふたりはまったくいつも通りの1日を過ごした。
 なるほど、当日に、あからさまなことをするほど軽薄ではなく、けれどしないというのも何だか妙だと、そういうわけかと、花京院はようやく声を立てて笑って、承太郎の前で、わざとその箱を振って見せた。
 「ありがとう。後でゆっくり食べるよ。」
 ふん、と承太郎が、わざとまた不機嫌な横顔で肩をいからせる。
 正門を一緒にくぐって、下駄箱で靴を脱ぐと、てっきり教室へ行くものだと思っていた承太郎が、逆方向へ向かおうとする。
 「どこ行くんだ承太郎。」
 今朝からほとんど喋っていない---もちろん、照れ隠しだ---承太郎は、今度も言葉で言う代わりに、唇の前で指を揃えて煙草を喫う仕草を見せる。花京院はそれに苦笑を返してから、承太郎の方へ体の向きを変えた。
 「図書室に行くんじゃねえのか。」
 「まだ開いてないよ。」
 ほんとうかと、承太郎がちょっと疑うように、同じ方向に一緒に歩き出そうとする花京院を見下ろす。
 「君、歩くの早いからな。」
 言いながら、花京院は承太郎の腕を取った。
 校内のどこにも、まだ人の気配はない。空気は冷え切っていて、校内でさえ、外に近ければまだ息が白い。
 ふふっと笑って、花京院は、承太郎の手を引いたまま、屋上へ向かって歩き出した。


 屋上に出ると、さすがに冷たい風が頬に痛い。
 かじかみかける指先を、花京院は何度か息を吹きかけてあたためようとした。
 学生かばんの持ち手は、ここを去る頃には氷のように冷えているだろう。それでも、悠然と煙を吐いている承太郎のそばで、花京院は微笑みを絶やさないままでいる。
 2本目の煙草に火をつけて、承太郎は、ついに花京院を自分の隣りに抱き寄せた。それから、冷たい手を取ると、指先をあたためようとするように、自分の手の中に握り込む。
 「無理して付き合う必要はねえ。」
 そろそろグラウンドの方が、少しばかり騒がしくなっている。生徒たちが登校し始めている。そちらの気配にちらりと目をやってから、花京院は、承太郎の肩に頭をもたせかけた。
 「君こそ、僕を待ってることなんかなかったじゃないか。」
 都合が悪くなると、今朝の承太郎は即座に黙る。それを、花京院は小さく声を立てて、また笑った。
 制服も冷たい。それでも、触れているところはあたたかい。握られている自分の手を、承太郎の掌の中で、ぎゅっと握る。そうして、もっと近く、承太郎に体を寄せた。
 何か言った方がいいような気がして、けれど何を話せばいいのか思いつかず、頭の中で、あれこれ考える。けれどすぐにそれも面倒になって、花京院はただ、承太郎のぬくもりだけに心を傾けた。
 寒いけれど暖かいと、ノートのすみに落書きでもするように、言葉が浮かんで、それをまたひとりで笑う。
 煙草を消すために、承太郎が花京院の手を一度離した。
 手元に視線を落とした承太郎の、いつもより稚なく見える顔立ちに目を奪われて、花京院は、また繋ごうとして伸ばしていた手を、そのまま承太郎の頬の方に上げた。
 そんなことをする気はなかったけれど、気がつけば、承太郎に向かって背中と喉を伸ばして、凍るほど冷たいだろうコンクリートの床から、かかとが少し浮いていた。
 触れた唇からは、白い息がこぼれていて、どちらの息かわからずに、唇の合わせ目から、途切れ途切れにこぼれ続ける。そして承太郎の唇は、煙草の味と匂いがした。
 この味と匂いを消すために、さっき承太郎がくれたチョコレートの菓子を食べるという手があるなと、そんなことを考えながら、まだ唇は離さない。
 自分を抱き返してくる承太郎の腕に、体の重みを預けて、花京院は、傾けている顔の角度を、少し変えた。
 「図書室に、行かねえのか。」
 唇が離れて、白い息をひとりで吐きながら、最初に承太郎がそう言った。
 花京院は首を振りながら、今度は承太郎の上着の内側に両腕を滑り込ませながら、また胸を合わせて少し背伸びをして、ささやくように言った。
 「昼休みに行くからいい。」
 承太郎のあたたかな背中に両方の掌を押しつけて、真冬にもシャツから剥き出しの鎖骨の辺りに、頬をすりつける。風のせいか、目の前の承太郎の首筋は、少し赤くなっている。
 「寒いんなら校舎の中に入れ。」
 両腕は花京院を抱きながら、承太郎が憮然とつぶやく。ただでさえ、体温の低い花京院に、こんな吹きさらしの屋上で抱きつかれて体温を奪われるのが、少々業腹らしい。それともこれも、照れ隠しなのだろうか。
 承太郎に、いっそう近く抱きつきながら、花京院がそこでそのまま首を振った。
 「いやだよ。中に入ったら、君とこんなことできないじゃないか。」
 残念ながら、人前では、抱き合うことはおろか、正式な日付のその日に、チョコレートのやり取りもできないふたりだった。
 花京院が苦笑をもらしかけると、その前に、承太郎の腕が動いて、上着の前を花京院の背中で合わせて、すっぽりとその中に包み込もうとする。
 「勝手なヤローだな、てめーは。」
 承太郎の制服からは、煙草の匂いがした。襟の辺りからは、おそらく承太郎が使っているのだろう、石けんかシャンプーの、爽やかな香りがかすかに立つ。そのどちらも、チョコレートの甘い匂いには似合わないだろうなと、どうしてかそんなことを思って、花京院はゆっくりと目を閉じる。
 「君ほどじゃないよ、承太郎。」
 まだそこは冷たい頬に、承太郎の頬が触れた。
 吐いた息が、肩の辺りで一緒に交じる。
 顔を上げた花京院に、口づけようと顔の位置を落としてくる承太郎を真っ直ぐに見つめて、花京院は、
 「生まれて初めてもらったチョコレートだって言ったら、信じるかい。」
 昨日、廊下を去って行った、丸くて薄い小さな背中を思い出しながら、訊いた。他の誰を傷つけても、承太郎だけは傷つけたくないと、奇妙に真摯な自分の本音に気がついて、花京院はそれを隠すために、眉をしかめた承太郎に、薄く笑いかけた。
 また照れ隠しのつもりか、返事はしないまま、承太郎の唇が落ちてくる。
 承太郎の制服と体温に包まれて、あたたかな唇の中で、呼吸が溶け交じる。花京院は、感じている寒さをもう感じることもなく、次第に騒がしくなる校内の気配にも気づかないまま、承太郎に抱きついている。
 承太郎にもらった菓子は、記念に開けずに取っておこうかと、そんなことを考えながら、来年はちゃんと2月14日に、承太郎にチョコレートを送ろうと、そう心に決めていた。


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