砂漠の夜

 枕が変わると眠れないと言うような繊細さはないつもりだった。けれど砂漠の夜に野宿はさすがに経験がなく、どれほどもぞもぞと寝返りを打っても、体に馴染んではこない寝袋と毛布と、そしてそのすぐ下の砂の感触と、花京院はついに我慢できずにそっと体を起こし、そこから静かに這い出した。
 砂漠の夜は冷える。毛布だけは取り上げて肩に乗せて体に巻き、なるべく足音を忍ばせて、花京院はすでに眠っている皆の輪から離れてゆく。
 砂に爪先が埋まる。すでに傷だらけで埃だらけの革靴は、夜目にはぼんやりとしか見えず、こんなところはやや潔癖症の花京院には、この暗さが今はありがたかった。
 月と星しかない──そして振り仰いでも、今は月はどこにも見つけられない──夜は、けれど案外と薄明るい。砂の白さに、弱々しい星の明かりが反射するせいだ。
 もちろん、ひとり砂漠にさまよい出れば、次第に暗さが心に迫って来るのだろう。それでも、今は傍に皆がいるという安心感が、その暗さを寄せつけない。
 花京院が寝床を抜け出すのを待っていたように、すぐ後ろから、砂を踏む足音が近づいて来る。花京院よりももっと深く砂に埋まるその足音は、軽やかな弾みが、ジョセフとは間違えさせない。
 「何だ、君も眠れないのか。」
 確かめることもせず振り向きながら、花京院はごく自然に日本語で話し掛けていた。
 別に、と承太郎が、丈高い体で肩をそびやかす。足元に丸く薄い影がまとまり、花京院の隣りに立つと、花京院の影と承太郎のそれは、まるでそこがふたりの場所だと示すように、ふたりを小さく囲む形をそこへ映す。
 花京院は、絵を描く人間の視線で、承太郎の体の動きと影がひとつになる様を見守って、それからまた空へ向かって顔の位置を戻した。
 「寒くないのか。」
 制服の下は薄いシャツ1枚、それも前をきちんと閉めていたことなどない承太郎に向かって、花京院はすでに、自分の毛布を半分分け与える仕草に移りながら言う。また承太郎が肩を振って見せた。花京院はそれにはまったく構わず、まるで保護者のような手つきと表情で、承太郎の肩に向かって毛布を持ち上げ、別に逆らいはしない承太郎の体を、自分の体と一緒に、その毛布で何とか包み込む。そうなれば、承太郎はおとなしく花京院の方へ体を寄せ、毛布がきちんと体──花京院の──を覆うように、やや上体を傾け気味に、毛布の端を、ずり落ちないように軽くつかんだ。
 日本と数時間しか時間の違わないここの夜は、日本はもう薄明るく夜明けになっている。新聞が配達され、早起きの人たちは、もう仕事へ出掛ける準備をしながら、存外騒がしい日本の早朝かもしれない。
 ふたりが今いるこことは違い、街灯にはきちんと灯がともり、どこも明るい。人も車も通りが絶えることがなく、花京院が知る限り、こんな澄んだ空気は滅多と吸えないし、星の明るさも空の高さも段違いだ。
 「空は、どこも同じだな。」
 それでも、気づけばそうつぶやいていた。
 毛布を分け合って隣りにいる承太郎にと言うわけではなく、ほとんどひとり言めいて、見上げる空は切れ目なく繋がっているのだと、それがとても不思議で、陸に隔てられてしまう海とは違い、空はどこにいても必ず頭上に広がっていると言うことが、けれど何となく信じ難かった。
 こんなに違って見えるのに、でも同じ空だ。
 花京院と一緒に空を見上げていた承太郎は、そんな必要があるとも思えないのに、律儀に首をいっぱいに伸ばし、
 「ああ、そうだな。」
 素直な反応が、花京院には意外だった。
 日本を出て何日だろうかと、心の中で両手の指を折りかけたところで、花京院はそれを止めて、空を見ている振りで、横目に承太郎を盗み見る。今考えていることが同じわけはなかったけれど、それでも承太郎の心の動きは何となくわかるような気がして、承太郎は日本のことを考えているのだと、花京院はそう思った。
 それを率直に訊いてしまえる、年相応の幼さはなく、逆に花京院はもっと幼い仕草で、毛布の中で承太郎の手を取った。
 驚いた承太郎が花京院を斜めに見下ろす。花京院はそれには知らん振りのまま、承太郎の手を強く握った。
 呼吸3回分の後、承太郎は空へ視線を戻し、花京院におとなしく預けていた手を、そっと握り返して来た。
 母親が心配だ。そして日本が恋しい。繋いだ手から、互いの思考が穏やかに流れ込んで来る。承太郎を慰めたいような気分になりながら、花京院はそれでも承太郎のプライドの高さを尊重して、それ以上のことはまだせずにいる。
 いつもならほとんど無意識に自分の周囲へ這わせているハイエロファント・グリーンのことも忘れて、花京院は、スタンド使いではないただの少年として、同じようにただの少年の承太郎を気遣い、掛ける言葉は見つけないまま、砂漠の夜の真ん中に、ふたり揃わない肩を並べてただ突っ立っている。
 夜空を見上げながら、見ているのは空ではなかったし、見たいのも空ではなかった。
 承太郎の指が、花京院の手の上で時々動く。そのたび親指を滑らせて、花京院は承太郎の手を指の腹で撫でた。
 言葉は交わさずに、掌と指先で、言葉のようなものを交わして、こんな風に伝え合うこともできるのかと、ふたりは繋いだ手をまた時々互いに握り返しながら、いつまでもこうしていられたらいいと、いつの間にか考え始めている。
 夜が明けなければいい。いつまでも星の浮かんだ暗い空のまま、時間が止まって、何もかも凍結されて、そうすれば、胸につかえたあれこれがすべて、もう心配事ではなくなる。
 そういうわけには行かないのだ。砂が崩れて流れるように、時間は止まらず動いているし、今こうして見上げている星も、一瞬の後にはわずかに位置を変え、空はいずれ次第に明るくなる。時を止めることはできない。前を向いて進むしかない。そこには、困難しかないとわかっていても、それへ向かって進む以外に選択はない。
 それでも、ひとりでないなら、前へ出る爪先が鈍ることもない。
 朝が永遠に来なければいいと思ったことは、胸の奥底へ押し込めて、花京院はもう一度承太郎の手を強く握りながら、体の向きを変えて、承太郎の方へ向き直った。
 見上げれば、改めて丈高い承太郎に驚いて、花京院は目を見開く。遠い、と思った時に、承太郎がいつもぶら下げている襟元の鎖が、鈍く視界を真二つにしていることに気づく。
 毛布の端から手を放し、花京院はその鎖に手を掛けた。
 威圧や威嚇の象徴に違いないこの鎖は、けれどこうして手の中に収めると、まるで首輪に着けられたそれのようだ。こんな風に引っ張られることなど、承太郎は考えたこともないのだろう。何しろ、こんな風に誰も寄せつけることをしないのだから。
 こんな風に近々と寄れば、こんな風に触れることができる。
 どうしたと、自分を不思議そうに見下ろしている承太郎のその鎖を、花京院は思い切って手前に引き寄せた。
 承太郎の体が、引かれてこちらへ傾いて来る。顔が近づく。隔たりが減る。帽子の陰になっている目元が突然近寄って来て、花京院は自分で招いた事態のくせに、思わずその眺めに頬を赤らめた。
 どうして逆らわないんだ。鎖を引く手を止めずに、花京院はそう思った。
 全身に棘をまとったような風体をして、そのくせ、こうなってしまえばひどく従順に、花京院の手の動きに従いながら、それを面白がっている風もない。
 おかしなやつだな、君は。
 妙なヤローだな、てめーは。
 同じことを、ちょっと違う風に考えている。
 承太郎の帽子のつばを、自分の頭を押し上げるようにしながら、花京院は承太郎に向かって顔を近づけていた。
 こんな時には斜めに顔を傾けるのだと言う知識などなかったから、正面からそうすると、互いの鼻先が触れ合う。そう言えば、彫刻とキスの練習をする女の子の話があったな、あれは何だったろう、そう考えながら、気づけば承太郎の唇に届いていた。
 暗さが、花京院を、そしてふたりをそそのかしたのかもしれない。手を繋いだ後で、見つめ合ってしまえば、もう他に考えつくことがなかったのかもしれない。
 ああそうか、僕は承太郎が好きなのか。
 自覚はあった。そして、こんな風にだと、気づいてもいた。それを、承太郎が今こんな風に受け入れているというのは埒外だったけれど、それでも承太郎の唇の柔らかさは想像していた以上で、そんなことを想像していたことに、花京院は承太郎に触れて初めて気づいていた。
 触れた時と同じように、唇を離したのは、花京院の方が先だった。伸ばしていた首を元に戻して、それでも鎖はつかんで引き寄せたまま、承太郎も前へ倒した体をまだ元には戻さず、自分からそうしたくせに、顔を真っ赤にしている花京院を、今は面白そうに見下ろしている。
 承太郎に、繋がったままの手を強く握られ、はっと我に返る。
 「もう1回するか。」
 帽子のつばが押し上がり、顔がきちんと見える承太郎が、近々とそう言った。
 答えないけれど逃げもしない花京院に、承太郎が言い継ぐ。
 「今度は目、つぶれ。」
 繋いでいた手がするりと外れ、承太郎の長い腕が花京院の腰に回った。毛布の中で、花京院も、空いた手を承太郎の背中に当てた。
 鎖を相変わらず握ったままの花京院の手に、承太郎の手が重なって来る。
 どちらからと言うわけでもなく、腰を落として肩の位置を揃えた承太郎の唇と、花京院の唇が、きちんと今度は丁寧に、正面から重なった。
 肩からずり落ちた毛布が足元へ滑り、その上に、ぽとりと承太郎の帽子が落ちた。
 時間が止まればいいと、花京院はまた思う。押し当てただけの唇を、どうしていいのかはわからず、それでもふたりはそのまま幼い口づけを続けていた。
 襟につけた鎖は、威嚇だけれど、同時に、承太郎の胸を開く鍵でもあったらしい。口づけに戸惑いながら、花京院は鎖をつかんだ手にそれを伝えて、細長い輪の中に、指先を滑り込ませた。承太郎の手が、花京院の動きに応えるように、鎖ごと花京院の手をまた強く握り込んで来る。
 不器用な抱擁の間に、鎖が無粋にきしむ音が挿し込まれる。その音すら耳に心地良い、他には何の音もない、砂漠の夜だった。

☆ KISS×JOJO企画@PXV参加。
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