違い・差がある2人@お題場

瞳の色


 今日は雨だ。
 閉め切った窓から、ぶ厚いカーテンを通して、湿り気が忍び込んでくる。太陽は見えないけれど、窓から顔を出すのは危険だ。どんなに弱々しい光であろうと、この膚を焼き焦がすには充分だ。そのことを、もうあまり忌々しいとも思わずに、DIOは真っ赤な唇の端をねじ曲げた。
 この湿り気には覚えがある。もちろん、覚えのあるあの湿り気は、何もかもを陰鬱にし、腐らせてしまう、まるで澱んだ池の中を歩いているようだったけれど。今のこの湿り気は。それにくらべれば、まさしく舗道の水たまり程度だ。髪や膚を湿らせるほどのこともなく、ただ、鼻先に届く水の匂いだけが、外の雨の鬱陶しさを確かに伝えてくる。
 あの街は、相変わらず海や川に囲まれて、雨と霧に包まれているのだろうか。100年前と変わらずに、誇り高さだけで腹を膨らませて、そのプライドしか売るものがないというのに、胸を反り返らせて前だけを向いて歩き続けているのだろうか、あの街の住人たちは。
 誇り高さなど、何ほどにもなりはしない。胸を張り続けたところで、足元をすくわれれば、地に膝をつくしかないのだ。丸まった背中を踏みつけて、人というもののもろさと弱さを思い知らせてやればよい。そのために、太陽を捨てて得た、この身だ。
 DIOは寝台からゆっくりと下りて、窓の傍に、陽が当たりはしない位置に注意深く置かれた肘掛け椅子へ、音もさせずに体を収める。
 椅子へ座ると、そこから5歩分ほど離れて、大きな鏡が置いてある。なぜか、椅子に座れば自分の姿が見えるように、言いつけて置かせたものだ。
 すっかりと馴染んではいるけれど、まだ馴染み切ってはいない、己れの体だ。鏡に映さなければ見えない、大きな首の傷跡は、100年経った今も生々しく、今にもそこから首が落ちてしまいそうに、そうして、それが元の持ち主の秘かな反抗であり、真摯な自己主張の証しなのだと、DIOに訴え続けているように見えた。
 ふん、と鼻先で笑う。
 長い足---DIOのものではない---を組み、肘を立てて、軽く握った拳に頬を乗せる。
 思い通りに動く体だ。皮膚の色も、陽を避けている間に、すっかり同じように白くなってしまった。
 裸足の爪先を動かして、失くしてしまった自分の足の爪は、一体どんな形をしていて、どんな色をしていたかと、ちょっと遠くを見つめるように、憶い出そうとしてみる。
 爪先など、しげしげと眺めたことはなかったから、そんなことをしても無駄だった。それでもふと、もうおぼろになってしまっている記憶を手繰り寄せて、憎しみしか湧かない父親よりは、美しかった母に似ていたならいいと、そんな人間くさいことを考える。ああそうだ、ひとは、誰かの腹から生まれるのだったな。忘れていたらしい自分を、薄く笑う。
 あれもきっと、自分の爪先など、いちいち覚えておこうと眺めたこともなかったろうな。
 見上げるような大男のくせに、足元に咲く花をいちいちよけて歩くような、そんな男だった。
 ずいぶんと薄くなってしまっているけれど、この体は、あちこち傷だらけだ。
 子どもの頃の傷や、学生の頃の傷や、あるいは、DIOがその原因の傷跡も、両手に余るほどあるのだろう。
 あれにつけられた傷は、どこに残っていたか。今はない自分の体を思い出している。指の長さや爪の丸さや、脚の線や胸の形や、細かなことは、もうほとんど憶えてはいない。あれに比べれば、少しばかり背は低くて、ひとであった時には、肩の幅も胸の厚さも、あれには追いつけなかったような気がする。
 ほとんど黒に近い、色の深い髪。いかにも健康そうな、桃色の唇。日焼けした肌は、こちらの指を弾くほど張りつめていて、あのままならきっと、幸せに長生きしたに違いない。
 カーテンの重なりに視線を移して、そこから奥へ、微かな陽が差し込んでいるかもしれない辺りへ、目を凝らす。眩しいと、細めることさえできないその瞳は、血のように赤い。夜の闇を透かして見るために、まるで滴る血を固めたように、赤い。
 同じように、血の色ばかりが鮮やかな唇よりも、そこから覗く鋭い牙よりも、DIOがひとではないことを表している、その瞳の赤さだった。
 元の瞳は、明るい青だった。今は見ることのかなわない、空と同じ色をしていた。そう思い出すのは、美化されてしまっている記憶なのだろうか。誰かに問うこともできず、確かめることもできない。自分の瞳の色を、正確に思い出すことができない。そうだったと思う、そうだったはずだと、曖昧な思い出を引き寄せて、自分が間違っていることを確かめてしまう前に、その思い出をまた奥の方へしまい込んでしまう。
 母だったあの美しいひと---それもまた、都合の良い記憶なのか---と、同じ色だったはずだと、それもまた思い出せずに、そこで思考を停止する。ひとであったディオ・ブランドーは、母親譲りの、とても美しい青い瞳で、世界を斜めに眺めていた。瞳の美しさを自ら嘲笑うような腹黒さは、誰にも悟らせずに、きちんと隠して。
 いや。
 紅い唇の端が、きゅっと下がる。
 あれにだけは、隠すことができなかったようだ。
 だから。
 ひとであることをやめなければならなかった。その代わりに強大な力を得て、あれとあれの血を、叩き潰さなければならなかった。
 あの日、海に沈む直前に、あの首に牙を立ててすすった血の味を、なぜか鮮やかに思い出す。すでに死んでいるというのに、あの血は、そして体も、まだ温かく、自分の身を救うに充分なだけ血を飲んで、沈みながら、あの体を奪った。切り落とした首から流れ出す血が海水を染め、その赤い海水が、DIOの髪と視界を染めた。
 体の断面の触れ合う感触。まだ残る血と血管と骨と筋肉と、何もかもがじかに触れ合う感触。これが欲しかったのだと、沈みながら、恍惚となったのを憶えている。
 皮膚と肉を縫い合わせ、あれの首を抱きしめて、棺の中へ閉じこもる。最期に見たのは、1メートル先さえ見えない、蒼緑の無限に重なった、光の届かない闇の色だった。
 あれの瞳の色だと、そう思ったのだ。
 緑がかった、深い茶の瞳。暗い色をしているくせに、透き通るような、こちらを突き通すような、あの瞳だった。
 死んで閉じたまぶたを無理矢理に開かせ、眠る以外にはすることのないあの棺の中で、あの髪を飽かずに撫でた。闇の中でも見える目は幸いだった。死人の肌の色さえ、眺め愛でるに値いした。
 最初に牙を立てたのは、唇だった。乾いた土の色をして、もう弾力はなくしていたけれど、それでも間違いなく、あれの唇だった。
 それから、あごへ向かい、喉をぐるりと骨にしてしまい、剥き出しになったその骨も、乾いた頃に、牙で砕いて飲み込んでしまった。頬の肉を剥ぎ取り、耳を頬張り、髪の毛は、頭皮ごと食べてしまった。
 すっかり骨だけにしてしまっても、まぶたさえ失くしてしまった眼球は、どうしてか触れる気にならず、長くなった爪を差し込んで遊んでみたりしたけれど、そこからえぐり出すことはしなかった。
 あの瞳の色を、憶えている。
 舌の先ですくうように取り出し、まだ繋がっていた神経を噛み切り、噛んだりはせずに、口の中で転がした。腐りかけていたらしいそれは、触れれば頼りない感触しかなく、熟れ過ぎて溶けかけた、外国の果実を思わせた。
 たっぷりと、舌と口内の粘膜で感触を楽しんだ後で、ようやく、喉の奥へ送り込んだ。喉の闇と、胃の奥の闇と、そこを通って、内臓のどこかへ落ち着き、一体それからどうなったのか、体の中へ入ってしまえば、気配はまったくない。
 もうひとつ、残っていた右目も同じように、口の中で存分に味わった。楽しむためだったけれど、それだけではなく、あれを、よく憶えておくためだったのだと、今ならわかる。
 あれが流した血の色を映して、この瞳は赤いのだ。
 あれと沈んで行った海の底の色を映して、あの瞳は深く吸い込むような色をしていたのだ。
 あれが、あの瞳で見ていた空は、どんな色をしていたのだろう。抜けるように高い空の下で、焼け焦げるような陽の光を浴びて、あれが見ていた世界は、一体どんな色をしていたのだろうか。
 薄暗い部屋の中で、そこだけ奇妙に明るく光る赤い瞳を、爪の長い掌で覆い隠す。
 ひとだった頃に見た世界は、一体どんな色をしていただろうか。
 もう、思い出せない。
 思い出す必要もないことだと、首から下が伝えてくるわずかな感触に、DIOは眉をしかめた。
 あれの血だ。
 あれの赤い血が、繋がって、続いている。
 唇を開けて、口の中で舌を軽く丸めた。まるで、そこに何か乗っていて、転がして遊ばせているように、口の中で舌を動かす。
 血の味が蘇る。腐りかけた眼球の、丸さと頼りなさが蘇る。
 逆らうように、右手が喉に伸びて、その大きな掌が首を絞めつける仕草をする直前に、左手で止めた。
 「無駄だ。」
 左手につかんだ右手に、嘲笑を込めて、低く言う。
 あれの残した血は、この瞳と同じ色をしているだろうか。
 牙を立てて、すすらなければならない。この体の血肉と同化させて、取り込んでしまわなければならない。
 ぎくしゃくとした動きで、椅子から立ち上がると、左手で、改めて首の傷を撫でた。
 また、あれと同じ瞳の色が見れるかもしれない。
 薄闇の中で嗤う。瞳と同じほど紅い唇が、ねじ曲がる。そこから覗く牙が光る。
 雨はまだ降り続けていた。湿った空気の中を泳ぐように、自分のものではない足を伸ばして、DIOは窓に背を向けた。


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