違い・差がある2人@お題場
価値観
カプチーノが飲みたいなと、急に花京院が言った。
時計を見ればもう深夜に近く、大抵のカフェはとっくに閉店済みだろうし、こんな時間に空いているコーヒーショップに、ちゃんとしたカプチーノマシンがあるところはほとんどないと思って間違いない。
それでも承太郎は、読み掛けていた本にしおりを挟み、財布と車の鍵を取り上げて、
「いや、言ってみただけなんだ。どこも空いてないし、きっと行っても無駄だよ。」
と、自分から言い出したくせにぐずぐずとソファから立ち上がろうとしない花京院を、承太郎は無理に車まで引きずってゆく。
「どこも開いてねえなら、何か別のものにすりゃいい。」
車も人も見当たらない、深夜のドライブというのも悪くないと、車を動かしながら承太郎は思った。
まだそれなりに人出で賑わうダウンタウンまでは、車でせいぜい15分だ。そこまでの道のりに、煌々と明かりのついた終夜営業のコーヒーショップを何軒か通り過ぎて、
「・・・ほんものじゃないホットチョコレートでもたまにはいいかな。」
花京院が後ろを振り返りながらつぶやく。
大きな通りにずらりと並ぶバーはどれも賑やかで、滅多と酒も飲まないし、飲んで騒ぐこともしないふたりにはそんな喧騒が珍しく、承太郎は気をつけただけではなくて車のスピードを少し落とし、酔って大声で笑っている人たちを、ふたり揃って眺めて通り過ぎた。
「バーにはカプチーノマシンなんか置いてないだろうな。」
「だろうな。普通のコーヒーくらいならともかく、カプチーノなんぞ頼んだら何が出て来るかわからねえ。」
「・・・もっともだ。」
「デニーズ辺りに何かあるんじゃねえのか。」
「どうだろうな、ファミリーレストランだし。まあ、今度電話でもして訊いてみるよ。夜中にいきなりカプチーノを飲みたくなる場合に備えて。」
「なんだ、そんな歌があったな。」
「なんだっけな、聞いたことはあるが、誰だったか忘れた。」
「血液型がどーのだったか。」
「・・・承太郎、運転に集中した方がいい。酔っ払いが道路をふらふらしてる。」
数メートル前を花京院が指差す。
邪魔にならない程度にスピードをやや落とし、きちんと注意深く運転しているけれど、あえて反論はしない。花京院の言う通り、ふらふらと店を出て、そのまま道路を意味もなく横切ろうとする数人が確かにいるからだ。承太郎はブレーキを踏み気味にしたまま、大通りのいちばん最後へ向かってゆく。
端から端まで歩いても、せいぜい15分がいいところの狭い区域だ。やはりカフェはどこも開いておらず、花京院がちょっと唇をとがらせた横顔をちらりと見て、承太郎はダウンタウンの南の端でゆっくりと右折した。
「すまなかった、どうしても飲みたかったというわけじゃなかったんだが。もういい、帰ろう。」
右折した道をまた短く右へ曲がる。来た方向へ戻るそちらへ車を向けてから、けれど承太郎はまだ諦めてはおらず、車のスピードは落としたままだった。
「そこはどうだ?」
車の窓を開け、運転席から道路の向かい側を指差す。対向車も後ろから来る車もいないから、承太郎は遠慮なく車をそこで止めた。
「バーじゃないのか? こんな時間に開いてるなら、カフェじゃないだろう。」
「・・・カフェと書いてあるがな。」
狭い入り口の上の看板には、確かにカフェと書いてあって、さらに湯気の立つコーヒーカップの意匠もある。バーにしては確かに中はやや明るさが強く、ふたりは一緒に顔を見合わせた。
「入ってみるか。見掛けだけで酒しか出さないなら、そのまま出て来りゃいい。」
「こんな時間に入って来る客がアルコール目当てじゃないってのは、きっと僕らの方が変に思われるだろうな。」
「カフェインとアルコールに大した違いはねえ。」
「・・・カフェインの摂り過ぎで肝硬変になったりするのかな、どうだろう。」
承太郎が車を駐め、ふたり揃って車を降りた。肩を並べれば、ごく自然に触れ合う近さになり掛けるのを、こんな時間だからこそ気をつけて、きちんと友人らしい距離を取る。
承太郎がドアを開け、いつもそうするように頭の位置を落として中に入りながら、次にやって来る花京院のためにドアはきちんと押さえておく。
入ってすぐにカウンターがあり、比較的きっちりと──けれどそれなりにゆったりと──置かれたテーブルと椅子の体裁は確かにバーと言うよりはカフェに近く、奥に深いその店のいちばん奥で、若い男がギターを弾き、同じ年頃の女が照れくさそうに歌っていた。
へえ、と花京院が承太郎に並びながらちょっと目を輝かせる。
ふたりとも白人だ。男の方の赤っぽい髪の色に、アイルランド系かとふたり同時に思いながら、つたないギターの音と明らかに練習の足りない歌い方にはそれほど心をそそられず、カウンターの中でふたりの視線をとらえようとしていたバーテンダー──ウェイターと言うべきだろうか──の方へ、一度視線を交わした後で一緒に向いた。
カウンターの中の壁にはずらりと酒のボトルが並び、けれど一緒にどんな種類か茶葉を入れたガラスのビンもずらりと並んでいる。そうしてその棚の下に、花京院は素早くカプチーノマシンを見つけていた。
「カプチーノをふたつ。」
やたらと背の高い混血らしい承太郎と、明らかに東洋人の花京院の組み合わせに、バーテンダーは特に視線も動かさず、承太郎が音楽の音量に負けない程度の注文したのを、聞き返しもせずに受け取ってうなずいて見せる。
「どこでも好きに座って。テーブルに持って行くから。」
そう言われて、承太郎が花京院に好きな席を選ぶように目配せして、花京院は思い切って店の中ほどまで進んだ。
「カフェで生演奏なんて珍しいな。」
「決まった時間だけ大学生辺りに開放してるんじゃねえのか。オーナーが元ミュージシャン志望とかな。」
ステージに当たるところへ、横に向く形にテーブルを選び、通り過ぎる時に軽く浴びる視線をふたりはさらりと受け流してて、承太郎は誰かの視線を塞いでしまわないように、壁に近い方の席を取った。
素人臭い演奏に、けれど敬意を表してふたりは交わす言葉を少なめに、花京院はテーブルに掛かった布を撫でて、形にばらつきのある、けれど色はみな同じに塗ってあるテーブルと椅子をそっと眺めた。
自分の趣味の良さに確信のあるタイプのオーナーらしいと思って、承太郎の言う通り、いわゆる若い貧しい芸術家の卵たちに金をばらまく代わりに、彼らの才能に理解のある態度で接しようとする人なのだろうと勝手に考えた。
そう思えば、今ステージで歌っている若い女の声に親しみが湧いて、花京院はステージの方へやや首を伸ばし、そこへ向かって目を細めた。
ふたりが入って来てから2曲終わったところで、男がギターを片付け始め、女の方はありがとうと、盛大に拍手する客たちに向かって繰り返し、そのままステージ部分からひっそりと立ち去る。
演奏の合間を狙ったように、バーテンダーがカプチーノを運んで来た。
特に見掛けに気を使っているわけでも、やたらに愛想がいいということもないバーテンダーは、異人種の客ふたりのその違いにまったく頓着しない様子で、いまだ不躾けに視線を投げ掛けられることもある花京院は、バーテンダーのその無関心さを好ましく思いながら、受け取ったカプチーノに礼を言った。
「こんな時間にカプチーノを飲めるとは思わなかった。」
いろいろと重なった偶然がすべて自分の好みの方向へ転がっているのに、花京院は珍しくあからさまに浮かれていて、熱いカプチーノを目の前に口元がゆるむのを止められない。
「ここに連れて来てくれてありがとう、承太郎。」
承太郎は無表情のまま花京院のうれしげな様子に浅くうなずき、花京院が先にカプチーノに口をつけるのを待っている。
髪の短い、折れそうに体つきの薄い若い女が、ギターを抱えてひっそりと歌い出した。
音色に妙に情感がこもり、そこに乗る声は、女の体つきと同じほど細いのに通りが良く、今にも途切れそうなその声に不思議と魅きつけられる。花京院は思わずステージを凝視して、それからやっと、持ち上げたカップの縁に唇を寄せた。
「・・・美味い。」
歌声とは対照的に、奥行きのある深い味が喉を流れて行った。
「ああ。」
花京院に続いて最初のひと口を飲んだ承太郎も、帽子のつばの陰で意外そうに眉の端を上げた。
「人を見掛けで判断しちゃいけないってことだな。」
ステージとは逆の方向にあるカウンターへ振り向く。バーテンダーはのっそりとした動作で、別の客の注文を取っているところだった。
ごく普通のカフェに行っても、なかなか好みの味とは出逢えない。こんな、バーも兼ねている場所で、しかもこんな時間に、こんなに美味いカプチーノを飲めるとは思っていなかった。最初から味には期待していなかっただけに花京院はよけいに浮かれて、店の薄暗さをいいことに、テーブルの下で承太郎の革靴の爪先に自分の爪先を当てた。
「今日は、とても運がいい。またここに来たいな。」
「また深夜のカプチーノか。」
「次の時は少しくらい飲んでもいいじゃないか。」
ふっと承太郎が笑う。その笑いの意味がよくわからず、花京院はわからなくてもいいと思ったまま、つられて微笑んだ。
「ああいいな、僕がまだ学生なら、ここに昼間来て絵を描いていたいくらいだ。」
承太郎は椅子にやや寄り掛かる姿勢で、テーブルから腕を遠ざけている。そうしないと、今カプチーノと歌声を存分に楽しんでいる花京院に、うっかり触れてしまいそうになるからだ。
「スケッチブックと旅行用の絵の具のセットを一緒に持って来て、いちばん隅の席に座って、閉店までずっといるんだ。1時間か2時間置きくらいに好きなものを頼んで、他には何もせずにひたすら絵を描く。来ている客でもいいし、テーブルと椅子でもいい。壁に掛かってる絵を写してもいいな。ずっと、ただ絵を描いてるんだ。」
女の歌声に混じるように、花京院の声がつぶやく。承太郎にとっては魅力の足りない女の歌よりも、熱っぽい花京院のつぶやきの方がよほど心をそそられる。どこか、承太郎には踏み込めない、自分だけの小さな世界に足を踏み入れている花京院の、不意に遠くなった横顔を、承太郎はそうとは知られないように、いとおしげにじっと見つめている。
カプチーノに目を細め、歌声に耳を傾け、花京院の指が時々かすかに動くのは、きっと架空の絵筆を動かしているのだろうと思えた。
心の中に絵を描いている花京院の、それをきちんと作品として眺められないことを残念に思いながら、こんな花京院自身が、承太郎にとっては価値ある作品そのものだと思って、またカプチーノをひと口飲んだ。
演奏の時間は決まっているのか、30分ほどで女は客に礼を言い、ギターを抱えたままステージから去って行った。
やっと花京院が詰めていたような息を吐き、わずかに残ったカプチーノを全部飲み干す。それを潮に、ふたりは一緒に席を立った。
バーテンダーはふたりに、作り笑いでもなさそうな笑顔を見せ、また、と軽く手を振る。それがまた仕事用の仕草ではないように見えて、花京院は思わず彼に手を振り返していた。
何だか、とても幸せだ。車に乗り込みながら思って、心の中でそうつぶやいたことにさらに心が浮き立つ。深夜過ぎに摂ったカフェインで酔ったのだろうかと、ちょっと軽く頭を振った。
「久しぶりに生で誰かが歌うのを聞いたなあ。」
「今度、親父のツアーにでも顔出してみるか。」
承太郎の提案を、まんざらいやでもなさそうに、花京院は軽くうなずいて見せる。
「親父くらいのなら聞きに行くのに間違いがねえ。」
「・・・君は、たまに容赦のないことを言う。」
こと音楽に関しては、父親の貞夫がプロのミュージシャンであると同時に、承太郎自身も自分でギターを弾いてそれなりに耳が肥えているせいで、プロの音にすら時折厳しい意見を言う。
「仕方がねえな、どうしてもリズムがどうの音程がどうの、そういうことばっかり気に掛かる。何も考えずに聞くのは無理だな。」
「僕は、音楽は気持ち良ければそれでいい。君と違って素養がないから、技術的なことはわからないし、自分ができないことをやってるってだけですごいと思う。そういう点で、君は可哀想だな、単純に没頭できない。」
「まあ、否定はしねえぜ。」
暗い道を来た通りに戻り、少しずつふたりの住む家に近づいている。
「君は、退屈だったのかい。」
少し淋しそうに花京院は訊いた。数拍間を置いて、承太郎が応えた。
「カプチーノは美味かったな。」
前を向いたままそう言った承太郎の膝に、花京院がそっと掌を乗せる。
「てめーが楽しそうだったのが何よりだ。他のことはどうでもいい。てめーがあそこで絵を描きたいなら付き合うぜ。」
承太郎がハンドルを切る。車が左へ曲がる。真っ直ぐ進めば、もう家の前だ。
「じゃあ、また行こう。一緒に。」
「おう。」
明かりを全部消して出たから、家の中も外も暗い。
車を出て玄関までの数メートルを、ふたりは肩を並べて歩いた。歩きながら、そっと手を繋いでいた。今は音のない夜気の中に、かすかに濃いコーヒーの香りが、ふたりの吐く息の中に混じっている。
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