夢の中の夢



 せめて夢にくらい出て来るやがれ。
 もう何度目かわからない毒づきをまた繰り返して、承太郎は天井を見上げたまま、身じろぎもしない。
 寝入るのに時間がかかる。眠れても、浅い睡眠はよけいに神経を疲れさせるだけで、朝鏡を覗くたびに、顔色の悪さにうんざりしながら、いつまで体が保つだろうかと、ふと弱気に考えたりもする。
 このまま衰弱して死ぬことにでもなれば、それはそれで別に構わないと、投げやりにでもなく、思う。
 そうしたら、おまえに会える。かもな。
 あれ以来、夢にすら、訪れはない。
 早く出て来いと、承太郎は思う。いつも、そう思っている。
 幽霊でも何でもいい。夢の中ででもまた会えるなら、何だっていい。現れたら、まず捕まえて、もう絶対に離さない。暴れようとどうしようと、その手を離す気はない。
 それから、思い切り薄情を罵って、泣いてやると、承太郎はまた思った。
 恨み言を並べ立てて、向こうの罪悪感につけ込んで、大声で泣きわめいてやる。とうとう、わかった、もうどこへも行かない、君のそばにいると、そう言うまで、絶対に許さない。
 あの最期の瞬間に、あれはハイエロファントの気配だった。承太郎の身内の中で、確かに声がした。
 生まれて来て、今まで生きて来て、ほんとうによかった。ありがとう、承太郎。
 一体どういう意味だと、そう問い返す間さえ与えられずに、気配も声も、まるでそれが起こったことが嘘だとでも言うように、後には何も残らない。ただ承太郎の胸のどこか、みぞおちの辺りが、すうっと嫌な感じに冷えただけだ。
 花京院。あの時繰り返しつぶやいた名前を、承太郎はまたつぶやいている。夜通し、眠れるまで、こうやって天井を見上げて、あの男のことを考え続けている。それ以外に、何も考えたいことはなかったし、そうして、花京院の面影を追っていれば、いいかげんに夢の中に現れてくれるのではないかと、そんな女々しい気持ちもあった。
 見事なほど、この世から気配を消し去って、花京院はもう跡形もない。
 承太郎は、ここに在って、確かに呼吸をしている。人の声を聞いて、時間の流れの中に、確かにいる。ひとりきりで。どうしようもなく、ひとりぼっちで。
 花京院。今度は、声に出して呼んだ。空気が応える様子はなく、闇の中にじっと目を凝らして、天井の木目の模様を、かすかにとらえた後で、それが花京院に見えてしまうほど、承太郎は、花京院が恋しかった。
 そうだろう、確かにそうだろう。何かを果たして死んだのだ。生まれて来てよかったと、あの時まで生きていて良かったと、そう思える死に様だったのだろう。それを伝えるために、最期のひと息をしぼり出したのだろう。承太郎のために。何もかも、承太郎のために。
 自惚れではなく、そう確信があった。
 だからこそ、なぜおれを置いて逝ったと、恨み言ばかりがわく。
 おまえは精一杯生きた。短い人生だった。それでも、満足気に死ねたのか。
 ならば。
 おれはどうだ。
 生き延びてしまった。生かされたのは、それにもまた意味があるのだろうと思って、同時に、ならば花京院の死もまた必然で、意味のあることだったのかと、それなら、恨む相手は運命と言う、つかみどころも実体もない、100年海の底で眠り続けた吸血鬼よりもたちの悪い何かなのか。
 一体おれは、何を恨めばいい。
 おれは。おれは。おれは。おれは。
 おれはどうしたらいい。
 ひとり生き延びて、おまえがいないこの世界に、何を求めて、止まらない呼吸を繰り返せばいい。
 突然やって来て、そして同じほど唐突に去って行った。強烈なめくらましのように、承太郎の世界の色をすべて塗り替えて、そうして、花京院は、もうどこにもいない。
 せめて夢にでも出て来い。おれに会いに来い。まぼろしでもいい、おまえに、会いたい。
 もっと、話したいことがあった。訊きたいことも、山ほどあった。何もかも、すべてが終わってからだと、そう思っていた自分の愚かさ加減を、もう罵る気力すらない。
 眠れない。現実の空気の中に、花京院の気配はなく、眠りの中にも、花京院の影はなく、せめてもう一度会えたらと、そればかりを考えながらけれど、あの姿を目にしたその瞬間が、承太郎は恐ろしかった。
 干上がってしまった涙腺は、泣くことを拒んで、泣けば、花京院が死んでしまったことを認めてしまうことになるのだと、心のどこかで思い込んでいたから、だから、承太郎はまだ泣けなかった。
 現実味のない、花京院のいない世界で、これは夢なのだと、これこそが悪夢なのだと、泣けない承太郎は、そう自分につぶやき続けている。
 夢だ。花京院がいないということも、世界と呼ばれるスタンドが花京院を壊したということも、承太郎が生きて呼吸をしているこの世界に、花京院はもう二度と姿を現すことがないのだということも、すべては夢だ。眠れないのはそのせいだ。花京院がいないという夢の世界で、承太郎は、必死に眠ろうとしながら、その浅い眠りの中で、花京院がどこにも存在しない夢ばかりを見ている。
 夢の中の夢。すべてはにせものだ。
 止めた時の中でも、ひとは夢を見るのだろうかと、ふと承太郎は思う。そこでなら、花京院に会えるかもしれない。
 ほんの数秒の、承太郎にとっての、望ましい現実へ戻れるかもしれない、瞬間。
 花京院。また、声に出して呼んだ。
 誰も答えない。応える誰もいない。
 夢で会えたら、きっと泣いてしまうだろう。会えた嬉しさか、現実ではないという悲しさか、どちらかはわからなかったけれど、不様に、泣いてしまうだろうと、承太郎は思った。
 そうして初めて、心の底から思い知るのだ。花京院が死んだのだということを。もう、二度と会えないのだということを。思い出は増えず、過ごした日は遠くなるだけだということを。
 もう一緒に、同じ星空を見上げることはない。同じ水を分け合うこともない。同じ毛布にくるまって、眠りを分かち合うこともない。
 花京院。飽くこともなく、またつぶやいた。
 朝が遠く、承太郎はまだ眠れない。
 もう、時など止めたくもないと、そう思った。花京院の、すでに止まってしまっている時間の中へ入り込めないなら、こちら側でだけ時間を凍らせてしまえる自分は、ただひたすらに滑稽なだけだと、唇の端で笑う。
 花京院の時は止まってしまっている。承太郎の時間は、動き続けている。動き続けるその時間を、数秒止められるのが何だと言うんだと、自分の能力(ちから)の皮肉を、腹の中で嘲笑う。
 笑いながら、目を閉じた。夢の中で夢を見るのだと、花京院の血まみれの顔をもう思い出したくはなくて、忘れるために目を閉じた。虚ろな世界を閉じるために、承太郎は、まぶたの裏の闇の中に、自分を閉じ込めた。
 その夜見た夢を、承太郎は覚えていない。


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