この世の果て


 まるで、水の中に漂うような感覚があって、不意にそこから浮き上がったと思うと、誰かの腕に抱きしめられていた。
 体がひどく軽い。軽いというよりもむしろ、体の中がすべて空洞になってしまったようだ。
 自分を抱く腕が、背中に回って、そこで少し困惑したような動きをする。胸に押しつけられているのは、額か頬か。触れているのはわかっても、ぬくもりがない。誰だろうかと、承太郎は、数少ない他人と触れ合った記憶を、ぼんやりと手繰り寄せ始める。
 誰だと、思わず口にしていたのか、背中を抱いた腕が外れ、承太郎がそれを残念がった一瞬の後で、今度は首に腕が回る。誰かの胸に、顔を埋める形になる。頬に、何か金属のような、ざらりとした固い感触が、同じような間隔で数個当たった。
 承太郎。
 かすれた声が呼ぶ。これは、泣いている声だ。そしてこれは、ずいぶん昔に聞いた声だ。長い長い間、聞くことのできなかった声だ。
 花京院と、呼んだはずが声にならない。押しつけられた胸で、唇だけが不自由に動く。唇に触れるひときわ冷たい感触は、これは学生服のボタンだ。思わず、歯を立てて、音を立ててやろうかと、そんないたずら心が湧いた。
 承太郎。
 また、花京院が呼ぶ。承太郎を抱きしめて、その声は、耳に届いているわけではなく、頭蓋骨の中に、じかに響いているようにしか聞こえない。
 「君も、とうとう来てしまったんだな。」
 一体どこへ来てしまったと言うのだろう。なぜ、花京院が、承太郎を抱きしめているのだろう。あの学生服を着たままらしい花京院は、あれからどうしていたのか。
 初めて、ここはどこだと、疑問が湧いた。
 花京院の掌が、承太郎の髪を撫でる。うなじの辺りから、まるでぐしゃぐしゃと乱すように、乱暴に撫でる。
 「もっと、ゆっくりくればよかったんだ。急ぐことなんか、なかったんだ。」
 急いだわけじゃねえ。花京院の、今はどこか稚なく聞こえる声に応えるように、承太郎の口調も、思わずあの頃へ戻る。
相変わらず声は出ず、けれど思うことはなぜか花京院に通じているようで、抱きしめられたまま、承太郎は、花京院の制服に覆われた視界の中で、じっと目を閉じたままでいる。
 「承太郎。」
 はっきりとした声で、花京院が何度も呼んだ。懐かしげに、何度呼んでも呼び足りないとでも言うように、どこか切ない声音で、花京院が承太郎を呼んでいる。
 ここはどこだと、また思う。
 なぜ花京院がいるのかとは思わない。花京院は、いつだって承太郎のそばにいたのだ。あの時からずっと、時折気配を消しながら、けれどすぐそばに、花京院は承太郎とともに在ったのだ。
 花京院を抱き返そうとして、腕に力が入らない。投げ出した足も、自分では動かせない。
 ここはどこだと、問うように、また思った。
 「心配しなくてもいい、じきに、元通りになる。僕もそうだった。」
 悲しげな、けれどどこか喜びを隠せない声で、花京院が言う。体が動かないことを言っているのだとわかるけれど、元通りになるというのは、一体どういうことなのか。
 ようやく、花京院の胸が遠ざかり、けれど首を抱いた腕はそのまま、観察するように見下ろされているのを感じた。
 「君も、目が・・・」
 目がどうしたと、もう、声が出ないと学んだから、唇は動かさない。そう言えば、開こうとしても開かないようだ。痛みはないけれど、言われてみれば違和感がある。何が起こったのか、承太郎は憶えていない。
 深いなと、傷ついたような声が聞こえて、それから、目の辺りをすうっと、花京院の指先が滑って行った。
 「まるで、割れてしまっているみたいだ。」
 そうすれば治る---怪我をしていると悟ったので---とでも言うように、花京院が、どうやら傷らしい辺りをそっと撫で始める。目と頬と首と、ああ、そんなに傷があるのかと、承太郎は平坦に思った。
 掌が去って、それからしばらくしてから、生温かく濡れた感触が、目の傷の上をゆっくりと這い始める。痛めないようにそっと、獣の親が、仔の体をいとうように、花京院が、承太郎の傷を舐めている。そのあたたかさに、承太郎はようやく、花京院の存在を確信した。
 花京院。
 まだ声は出ない。唇も動かない。目も開かない。けれど、花京院がここにいる。抱きしめることはかなわないけれど、花京院が、承太郎を抱きしめている。
 「憶えているか?」
 睫毛に、ささやきが掛かる。
 花京院の腕の中で、承太郎はかすかにうなずいた。
 あれは、砂漠でのことだ。敵に襲われて、傷を負った花京院の、包帯を巻かれたその目を、承太郎は今花京院がそうしているように、包帯の上から舐めた。そうせずにはいられずに、砂でざらつく乾いた白い布を、承太郎は、何も言わずに舐めた。
 触れていなければ不安で、失うことが恐ろしくて、そこに花京院が在るのだと、自分がここにいるのだと、そう確かめたくて、承太郎は花京院を抱きしめた。
 埃っぽい空気の中、熱に燻られる昼と、骨を凍らせる夜と、朝が来るかどうかわからない、旅の途中でのことだった。
 それだけだ。他には何もない、ふたりの結びつきだった。
 そこから先へはどこにも行けず、先を与えられないまま終わった、ふたりだった。
 また始まるのか。また、始められるのか。
 とても悲しいことばかりをくぐり抜けて来た。来ざるを得なかった。喪うばかりだった。得たと思ったものは、この手からすべて滑り落ちて行った。
 来た道を累々と埋め尽くす記憶の遺骸の、その巨大な山の後で、今承太郎の目の前にいるのは、あの花京院だ。
 おれは、許されたのか。
 失い続けることに傷つき、失うことを恐れて、だから手に入れることを拒んで、いつも誰かを傷つけて来た。傷つけるしか、失わない方法はなかった。そして結局は、手に入れなくても失わなくても、傷つけ傷つく結果だけが、いつも承太郎に残された。
 それでも、花京院に会うということだけは、許されたのか。
 指先の感触に気づき、試すように拳を作ろうとする。指先も手首も動く。少しずつ、元通りになるのだ。
 動く腕を持ち上げ、やっと、花京院に自分から触れようとした。あの、裾の長い学生服だ。するりと掌の滑る、なめらかな生地に触れて、背中を抱こうとした。
 その手を、花京院が止める。突然厳しい表情をして---見えないけれど、感じる---、まだ開かない承太郎の瞳を、じっと見つめてくる。
 「やめた方がいい。きっと、後悔する。」
 やんわりと止められた手を、それでも強引に外して、承太郎は、花京院の背中を抱き寄せようとした。
 腰の辺りから肩甲骨の辺りへ向かおうとして、途中で、掌が外れてしまう。不意に、花京院の背中が消える。何も触れない。広げた掌より大きな空間が、ぽっかりと口を開けているのを、指先に探る。混乱する承太郎を、花京院が、ひどく悲しげに見下ろした。
 「そこには、何もないんだ、承太郎。」
 言いながら、花京院が承太郎のその手を取る。背中から腹へ、手が動く。そうして、花京院が触れさせたそこにも、何もなかった。
 「承太郎。」
 花京院が導いた手は、きっとその穴の中を通っているのだろう。何の手応えもなく、そこを素通りする自分の手に、承太郎は初めて、自分が死んでしまったのだということを自覚した。
 「ごめんよ、承太郎。」
 なぜ花京院が謝るのかわからず、花京院から取り返した手で、花京院を抱き寄せる。
 ひとは、失わずには生きられないのだ。失うことを恐怖して、失うからこそ得ることに夢中になって、そうして、失うことを繰り返しながら、いつかどこかで、失ったものすべてに再会できるのだと、そう愚かにも信じているのかもしれない。
 その愚かしさこそが、ひとらしさに違いないと、その愚かしさに背を向け続けて来た自分を、承太郎は、声もなく、腹の底から笑った。
 花京院。
 やっと呼ぶことのできるその名を、思う存分繰り返しながら、承太郎は、片腕だけで花京院を抱いた。自分に重なってくる、血と肉と骨の一部を失っているその、やや軽くなった体を抱いて、承太郎は、口づけるために唇を探す。
 ひとは、得るために失い、失うために得るのだ。それが、生きるということなのだ。
 悲しみと喜びに同時に満たされながら、承太郎は、広げた掌に、花京院の背中の傷を探る。抗おうとするのを許さずに、ようやく重なった唇を外すこともせず、まだ開かない目から、涙がひと筋こぼれた。その涙を、花京院の指先がすくい取る。
 重なった体にぬくもりはなく、血の流れる音もない。けれど確かに、ふたりは結ばれていた。もう引き裂く何ものもない、この世の果ての、ふたりの恋だった。
 承太郎と、花京院がつぶやいて、それきりふたりは静かになった。


戻る