Forget Me Not

 大学の構内に住みついた猫が出産し、生まれた数匹の子猫たちを、母猫ごと、ある学部の教授と学生が世話を焼いている。教授が、餌代や病院代の半分以上を出し、残りは学生たちがカンパし、子猫の調子が何となく悪そうだと言えば、ごく自然に誰かが猫たちの様子を見に大学へ順番に泊まり込む、学業の場である大学で、良いことか悪いことか、その学生の中に、花京院も含まれていた。
 「正直、人間相手ならこんなに熱くなったりはしないんだが。」
 猫家族へのカンパのせいで、少しばかり懐ろが淋しいので、近頃は必ず弁当持参だ。何となく承太郎も付き合いで、夕食の後で翌日の昼食用の残り物を、きちんとふたり分に分けてタッパーに詰めておく。
 積極的に友人を作ろうとはしない──それでも、向こうから近寄って来て、花京院と友人になりたがる連中はそれなりの数がいた──花京院が、珍しく他の学生たちに交じって、猫たちのための緊急連絡網にも電話番号を提供し、挙句には来年の大学祭に動物愛護の呼び掛けをする催しでも考えようかと、承太郎にこぼす始末だ。
 「外にいる動物が、みんなイギーみたいにスタンドの持ち主で独立独歩なわけじゃないからな。」
 「そこらの野良猫が全部スタンド使いでたまるか。」
 砂漠を一緒に越えた、今はどこにもいない仲間だった犬のことを口にする時、少しだけ花京院の横顔が淋しそうになる。
 夕飯の後片付けをふたりで一緒に終えて、今は承太郎が、食後のコーヒーを淹れているところだ。花京院は濡れた手を拭いて、先に居間へ行った。
 子猫たちは可愛い盛りの生後2ヶ月を少し過ぎたところで、すでに飼い主を探すのにどうするかと、世話をしている学生たちの間で相談が始まっている。教授ももちろん協力しているけれど、すでに2匹の元野良猫が自宅にいるらしく──道理で、と承太郎は思った──、これ以上自分で引き取るのは無理だと残念がっているそうだ。
 承太郎と同居の、ジョセフからの手回しで住めることになった、大学生には不相応なこのマンションはもちろんペット厳禁で、それ以前に、ジョセフのおかげイコール承太郎への借りと思っている節のある花京院は、その子猫たちを引き取れないだろうかとは、さすがに考えてもないようだ。
 「そろそろ、母さん猫が避妊手術なんだ。」
 コーヒーを運んで来た承太郎に向かって、手助けのように床近くから手を伸ばして、ぼそりと花京院が言う。
 膝を抱えるように床に坐っている花京院の隣りへ、承太郎は腰を下ろしてあぐらをかいた。
 猫たちのことで上の空のことが増えていて、花京院らしくもなく、鍵を置いた場所を思い出せなかったり、承太郎とどこかで落ち合う約束をうっかり忘れていたり、この間はレポートの締め切りを破って、ひどい減点を食らっていた。
 いつもなら、むしろ承太郎の個人秘書──あるいは、見習い執事──のように、承太郎の授業のスケジュールもきっちり把握して、あれこれと細かいこともすべて憶えていてくれるのは花京院の方なのに、ここ数日は特にここに心あらずで、承太郎の方があれこれ花京院のために、やたらとメモを冷蔵庫のドアに貼っている。
 母猫の避妊手術の話も、これで確か聞くのは4度目だと思ったけれど、承太郎は何も言わなかった。
 「母さん猫にしてみたら、こちら側の身勝手もいいところなんだろうが、また子猫が生まれて猫が増え続けて、誰かが保健所に連絡したりしないとも限らないし、僕らが面倒を見るのだって限界がある。でも、病気でもないのに腹を切り裂かれて手術されるなんて、可哀想で仕方がない。」
 腹、と言いながら、花京院は自分の腹に掌を当てる。子宮がどの辺りにあるものか、男には感覚がわからないからなのか、花京院の手は、大きく皮膚の引き攣れた傷跡のある、みぞおちの辺りに自然に触れていた。
 望んだわけでもないのに、勝手に捕まえられて勝手に手術される母猫が、腹に大穴を開けられて死に掛けた自分と重なるのかどうか、猫のことを気遣う花京院の口調は、奇妙に親身だった。
 「もう子どもも生めない、交尾もない、他の病気のリスクが減るとかそういう説明をされても、どっちがいいかなんて僕らには絶対にわからないじゃないか。」
 これはようするに花京院の愚痴だ。面倒を見ている学生たちと一緒の時には、言いたくても言えないことだろうし、構内でこんなことを誰かにこぼしたらどこでどう回って学部の連中の耳に入るかわからない。
 じゃあ、毎年何匹も子猫が生まれて、その面倒が全部見れるのか? 出産だって毎回命がけなんだぞ。
 そう反論されるのは火を見るより明らかだし、その反論を花京院自身もきちんと最初に受け入れている。だから、大学ではきっちりと口を閉じて、これ以上は猫の数を増やさないと言う教授と学生たちの結論に従っているのだ。
 痩せ細って、身ごもった腹だけまん丸な薄汚れた野良猫を、見捨てておくことはできなかった誰かが、自分の許容範囲を超えて面倒を見ることはできないと、最初にそう線を引いたから、そしてそれは、必要で、恐らくいちばん真っ当な選択だったろうから、母猫は寝床と餌を与えられ、安心して子育てのできる巣を与えられ、代わりに、もう子猫は生まないでくれとこちらが出した条件を飲ませる。餌と住みかを得た後で、母猫にはもう選択はなかった。世話をする人間の側にも、もうそれ以外の選択はなかった。双方が、少しずつ犠牲を出し合って妥協した結果と言う話だ。
 理性が理解しても、結局のところ完全に納得は行かないと言うのが、人の気持ちの難しいところだ。
 承太郎の淹れたコーヒーにやっと口をつけて、床を見つめたまま、花京院がいっそう声を低めた。
 「・・・君だって、一生できないって言われたら納得できないだろう。」
 「できねえって何がだ。」
 真顔で、そちらを向いて訊き返したら、一瞬で花京院が顔を真っ赤にして、さっきまでの深刻な表情はどこへやったのか、うろたえて何度も小さく頭を振る。
 「なんだ?」
 「だから、その・・・君が、僕と、その・・・できないって・・・。」
 体にメスを入れられる話の流れかと思ったら、交尾の方だったかと、特に照れもせずに合点が行った承太郎は、恥ずかしがって狼狽する花京院を間近に眺めるという恩恵に、思いがけず服する羽目になって、こういう愚痴をこぼす花京院も悪くないと、無表情のまま思う。
 「まあ、そいつはちっと困るが。」
 コーヒーを飲む振りをして早口に答える。ひと口喉へ送り込んだ後で、また素早く、その後を継いだ。
 「でもやれねえってのは、てめーと別れる理由にはならねえな。」
 なるべくさり気なく言う。この場だけ口先だけのことではないけれど、そう思っていることを恩に着せるつもりもない、そう声音にきちんと含めて、花京院相手には、あれこれ言葉をむやみに連ねる必要がないことを、承太郎はありがたく思った。
 何か言葉を返したいけれど何をどう言っていいかわからないと言いたげに、唇を軽く開いたまま、花京院が承太郎を見ている。顔はまだ赤いままだ。
 いい眺めだなと、花京院から目を離さずに、承太郎はまたコーヒーを飲んだ。
 でも、とまた花京院が何か言う。
 「手術の麻酔はいやだな。醒めかかると記憶が混乱するんだ。どこにいて何が起こってるのかわからなくて、ものすごく焦るんだ。」
 猫のことを言っているのか、それとも、腹の大穴を塞いだ時のことを言っているのか、承太郎は10秒ほど考えて、そのまま黙っていた。
 正確には、花京院の記憶の混乱は麻酔のせいだけではなくて、怪我それ自体のショックのせいだ。花京院の治療をしたSPWの人間が、承太郎たちにそう説明したし、心配する必要はない、回復すれば記憶も元に戻ると、そう花京院に言った。
 そして残念ながら、花京院の記憶の一部は混乱したまま結局元には戻らず、旅の間の細かなこともわずかだけれど一部、すっかり抜け落ちてしまっている。憶えていないという自覚はあるのか、失ってしまった記憶──ごくごく些細なことだと言うのに──を惜しんで、退院直後はひどく気に病んだこともあったけれど、体力の回復と共に気持ちも明るくなったのか、今ではそのささやかな記憶喪失のことは、花京院は滅多と口にもしない。
 憶えていないのは、さして重要でないディテールばかりだ。白い服を着た大男とすれ違ったのがどの街でだったとか、ジョセフがあるホテルで支配人を煙に巻いた時に使ったのが見事な手品だったとか、アブドゥルがこう言ったとか、ポルナレフがああ言ったとか、イギーが何をしたとか、けれど失ってしまえば、失ったものと、そして失ったこと自体の悲しみと淋しさが二重になって、手にしていた時の喜びを思い返せば思い返すだけ、その喜びすら記憶にないから、よけいに未練を引きずるのだ。
 そこはもううまく通り抜けてしまったのだと思っていたから、花京院が、母猫の手術のことでそのことを思い出して、また動揺しているのだとやっと気づいて、承太郎はかすかに眉を寄せた。
 失ってしまった記憶はある。忘れてしまったこともある。それでも、大事なことは全部きちんと憶えていたじゃねえかと、承太郎は思った。
 「心配ねえ、少々麻酔が効き過ぎても、世話してくれた人間のことはきっとちゃんと憶えてる。猫もそれほどバカじゃねえ。」
 目覚めてすぐの花京院に会った時の、まだ半分はぼやけた意識のまま、それでも目の前にいるのが承太郎だと見分けて、弱々しく微笑んだあの時を、承太郎は絶対に忘れないだろう。麻酔を打たれようと、頭を吹っ飛ばされようと、あの微笑みは、絶対に忘れない。気持ちの通い合ったふたりの間にだけ通じる、あの花京院の、喜びの表情だった。
 やっと花京院の、固いままだった頬の線がゆるみ、ゆっくりと味わうようにコーヒーに唇を近づける。ぬるくなり始めていることにも構わないように、
 「君の淹れるコーヒーが、やっぱりいちばんうまいな。」
 猫たちへの愚痴はそこで終わった。コーヒーを飲み終わる頃には、週末に見に行く映画選びの話になり、次のレポートの締め切りをお互いに再確認し合って、それから、人間の交尾はあまり他人に干渉されなくて喜ばしい、と言う話題になり、それを実践確認するために、ふたりでマグを片付けて寝室へ行った。
 少し夜更かしをして、花京院が目覚ましをセットし忘れたおかげで、次の日、ふたりは一緒に授業に遅刻する羽目になったけれど、揃いの中身の弁当はきっちりと持参した。

☆ 丘さん/たんたんからお題、「軽い記憶喪失」 → 上の空、と言う解釈にて。穴だらけなのは気にしないが吉。
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