Fragile



 傷を見せろと、承太郎が言った。それが始まりだった。
 あの、腹に開いた大穴を塞ぐのに、けれど医者たちが心配したほどの時間は掛からず、それでも、死に至るほどの傷だったという事実は変わらなかったから、承太郎は、花京院がちゃんと生きて戻ったのだと、確かめたかったのだ。
 心配性だなあ、君は。
 苦笑いを刷いて、妙に恥ずかしがりながら、花京院があの一分の隙もない緑の学生服を、ゆっくりと襟元のホックから外してゆく。
 承太郎のそれに比べれば、大きさも少し小さく、ただ厳しく上品に裾が長いというだけの花京院の上着は、衣ずれの音だけ立てて、床に落ちる。
 そう言えば、こんなふうに制服を脱いだ姿は、あの旅の間だって滅多と見ることはなかったと、坐ったままの床から花京院をちょっと仰いで、承太郎は目を細めた。
 傷跡は、承太郎が想像していたよりも大きく、むごかった。
 花京院の、男にしては細い薄い腰よりも少し上の、ちょうどみぞおちの辺り、少しえぐれたようになったそこに、奇形のヒトデが張りついたように、承太郎の掌よりも大きく、薄赤い引きつれが広がっている。そして、引きつれが覆う範囲にある、きちんと上から並んだ肋骨は、そちら側の数が足りず、承太郎は思わず、右と左を数え比べて、そこだけはっきりと歪んでしまっている花京院の体に、ちょっとだけ目を見張る。どれだけ驚いたか、悟られないように、承太郎はようやく、ゆっくりとその場から立ち上がった。
 触ると、痛いのか。
 はは、と花京院が笑う。痛くなんかないよ。でも、ひどく体を曲げたりすると、痛むような気がする。
 そうかと言って、花京院が思わず足を後ろに引いたほど近くに寄ると、承太郎は、軽く手を上げながら、触ってもいいかと訊いた。
 承太郎を上目に見て、まるでかばうように右手で自分の左肩を抱くと、花京院はああとかすかにうなずいた。
 大きな引きつれは、妙につやつやとしていて、肌の湿り方が違うのか、やけに承太郎の指先に引っ掛かる。今にも破れそうな薄皮が少し怖ろしくて、承太郎は、それ以上指先を押しつけるのをやめた。
 代わりに、スタープラチナを出して、その薄青い大きな掌を伸ばしながら、体の中に入れてもいいかと、静かに訊いた。
 ほんの少し怯えたように、けれどあの時、そうやって自分の心臓を直に動かして、蘇生を助けてくれたのだと知っていたから、花京院は両腕を体の横にだらりと垂らして、ちょっと胸を張るようにすると、声は出さずに、数回小さくうなずいた。
 ずぶりと、薄青い指先が、薄く張りつめた弱々しい皮膚の内側へ沈んでゆく。ふたりとも、それをじっと見つめている。
 内臓はもう、きちんと元に戻っているのだろう。もしかしたら、少し小さくなっているのかもしれないし、見えないだけで、傷跡もあるのかもしれない。花京院の、思ったよりもちゃんと温かな体の中をゆっくりと進んで、承太郎は、スタープラチナの手から伝わる、血管を流れる血の感触に、ほんとうに花京院は生きているのだと、今までのどの時よりも、感動めいた気分を抱いた。
 粉々に砕けてしまって、修復できないまま、一生失われてしまった花京院のその肋骨は、確かに目に見える通り、そこには跡形もなく、承太郎はそっと、その残骸にスタープラチナの指先を伸ばす。折れたと思しきところは、それはそういうものなのか、それとも医者がきちんと処置を施したのか、ざらざらでもぎざぎざでもなく、やや丸みを帯びて、指先には何の尖りも感じられない。
 痛いか。いいや、別に。けれど体の中を触れられる感触に、やや眉を寄せて、花京院が言った。
 ほんとうに、きちんと治っていると、そう思いながら、承太郎はついに、スタープラチナの手を、背中まで進めた。
 あの時、DIOのスタンドの容赦ない拳が、そう貫いたのだろうと同じに、今はスタープラチナの手が、限りない優しさを込めて、花京院の体を貫いている。
 花京院の背中からぽっかりと現われたスタープラチナの手は、手探りのように、手首を少し無理に曲げて、花京院の背中側の傷跡にも触れた。
 スタープラチナが、ようやく満足して消えると、今度は花京院が、君の傷を見せろと言う番だった。
 承太郎もその場で上だけ裸になると、花京院の冷たい指先が、肩や腕や腹に残る、花京院のそれに比べれば切り傷程度にしか見えない、けれど無数にある跡を、ひとつびとつ探って行った。
 承太郎の手が、花京院の頬に触れ、砂漠で切り裂かれた両目の傷跡をなぞる。それもまだ、うっすらと赤く残っている。そのために、ゆるく花京院が目を閉じた時に、傷の長さを測るついでのように、承太郎は、花京院の唇に触れた。指先に、一瞬硬張ったように感じられたその唇は、けれど承太郎の唇を、拒みはしなかった。
 まるで、ずっとそうしたかったのだとでも言うように、ふたりは無言で互いの体に両腕を巻いて、唇を押しつけ合うだけの稚ない接吻を、何度も何度も繰り返した。
 廊下をやって来るホリィの足音とともに、お茶がはいったわよと声がして、ようやく唇をほどいても見つめ合う視線は解けずに、そこに、後悔や罪悪感や困惑という類いの感情は、浮かんではいなかったから、ふたりは奇妙に安堵して、背中を向け合って服を着た。
 口づけの深さが変わることはなかったけれど、それから、まるで一緒に笑い合う程度の気軽さで、それはしばしば起こるようになった。
 ふたりは、人気のない校舎の端の方や、誰も覗かない階段の奥や、廊下の終わりの柱の陰や、あるいは、承太郎が煙草を喫う屋上や、そんなところで、指先を絡め合って唇を重ねる。
 数の増える接吻は、ふたりの間の奇妙な情熱をあらわにして、その後には、唇だけではなくて、剥き出しにした素肌をこすり合わせるというところへ進んだ。
 ふたりは、まだ正確な意味では大人ではなかったけれど、もう子どもではなかったので、真似事をできる程度には物事を深く識っていて、それでも、躯を繋げるということがどういうことか、まだわかってはいなかった。
 そうしなければならない、そうすることが本物なのだと、心のどこかで一緒に焦りながら、互いを気遣うゆえに、そこから先へ進むことはせず、唇と剥き出しの肌と、それからもう少し奥深い部分を触れ合わせて、次第に高まる熱狂を、大事に育てている。
 わかりやすく、互いへの好奇心を表す躯は、触れ合えば触れ合うほど、互いに向かってひたすらに開いてゆく。
 心よりも、躯が先に素直に、恋というものを語っていた。
 花京院の腹の傷跡を見るたびに、承太郎はその想像を絶する苦痛を自分の身に写して、だからこそ、花京院に無理を強いることができなかった。気持ちにまかせて、力いっぱい抱きしめることさえためらわれて、無茶をすれば壊してしまいそうだと、人よりも大きな自分の体と、その腕にこもる力の強さを、こんな時には少しばかり呪う気持ちが湧く。
 破壊することはたやすい。それが、承太郎の能力の一部でもあった。けれど、そうではなく包み込みたいと思う時、力の加減のわからない自分の稚なさに初めて気がついて、承太郎は、言葉を失くして困惑した。
 一度壊れてしまった花京院は、砕けた破片を拾い上げて、並べ直して、繋ぎ直して、こうして、完全ではなくても、元通り承太郎の目の前にいる。見た目ではわからない。けれど触れれば、壊れやすさが指先にわかる。
 壊れやすい花京院を、壊してしまいそうな自分が怖ろしくて、承太郎は、まだ稚純なこの恋を、稚純なままにしておきたいと心のどこかで願いながら、けれど一方で、いっそ壊してしまいたいと思ってもいる。
 むごく花京院を破壊したDIOに、彼がこの世から塵となって消え去った後も、激しい怒りは消えず、その怒りの中には、そんなふうに迷いもなく、花京院を壊してしまえた彼に対する、わずかな嫉妬もあった。文字通り、花京院の体を貫いて、その肉と骨を切り裂いて砕いて、その血にじかに触れて行ったのだということに、承太郎は、全身の血が沸騰するほど妬みを感じている。
 花京院の、砕けて消えてしまった肋は、朝日の中で塵になったあれが、一緒に連れて行ったに違いないのだ。
 完全だった花京院の一部を奪って、あれは永遠に消え去ってしまった。承太郎の腕が抱いているのは、今はもう、不完全でしかない花京院だ。
 すべてを奪われなかったことに感謝しろと言うわけかと、あの吸血鬼の狡猾さに、承太郎は今もひとり唇を噛む。
 星のアザを持つ体を奪って、そうして、承太郎が花京院に魅かれるだろうことを、もしかしてあれは最初から知っていたのだろうか。ねじれた血の繋がり具合ゆえに、それを感じ取って、だから、あれは花京院を壊したのだろうか。
 それでも、壊れた花京院を継ぎ直して、承太郎はまた、花京院を手に入れた。もう、誰にも触れさせないと、その唇を覆いながら思う。
 人目を避けて、抱き合う。重ねる唇は、まだそれ以上深くなることは滅多となく、肌をさらすことにもうためらいはなくても、大人の領域に踏み込むことには、まだ躊躇している。
 逡巡の手つきで互いに触れ合う時には、ふたりの稚なさがあらわになって、ふたりはそれを、やけに熱っぽい接吻で補い合う。
 他の誰ともこんなことはしたくなかったし、他の誰ともさせたくなかった。ふたりは、口にはせずに、そう思っていた。
 完璧なものなど、この世のどこにもない。肋と肉と血を削り取られて失った花京院と、たとえ一瞬であっても、その花京院を奪われた承太郎と、すでに傷ついてしまっているふたりは、その傷をかばい合いながら、稚なく、拙く、互いに触れる。
 別の意味で完璧な組み合わせなのだと、けれど自分たちでは気づけず、互いの傷つきやすさを敏感に悟って、その、年頃に似合わない大人びた聡明さゆえに、稚なさの剥き出しになるふたりだった。
 壊れもののような花京院を、いっそ壊してしまいたいと、その能力を持つ承太郎は、時折思う。そうすることで、花京院の何もかもを自分だけのものにしてしまえると感じるのが、愚かな錯覚だと、一瞬忘れてしまえる瞬間がある。
 そうしてしまえばいい。あれが、ためらいもなくそうしたように。
 そうすればもう、誰かに奪われることを、恐れることはなくなるのだから。
 花京院を壊さずに、すべてを自分のものにできる時のことを、承太郎は夢見ている。そうして、同時に、花京院を壊してしまうことも、心のどこかで望んでいる。そんな自分を引き止めるために、承太郎は、花京院を抱く腕から力を抜く。傷だらけの肌をこすり合わせて、弾む息を、唇に重ねる。そうして感じるのは、もう二度と花京院を失いたくないとそう思う、自分の執着だ。
 腕を引いて、教室の隅で抱き合う。自分を見上げる花京院の薄い微笑みに向かって、唇を落としてゆく。その唇の冷たさを消すために、自分の体温を分け与えながら、承太郎は、制服の上から、花京院の背中の傷跡を探る。
 そこから滴り流れて行った花京院のあの赤い血を、あの時すすっておけばよかったと、あの傷の中に自分の腕を差し込んで、砕けてしまった骨や肉を食べてしまえばよかったのだと、永遠に失われた花京院の一部ごと、承太郎は花京院をいとしいと思った。
 つのるいとしさに気も狂いそうになりながら、承太郎は、花京院を壊さないようにそっと抱く。抱いた腕の輪を思い切り締め上げたい衝動を消して、できる精一杯の優しさと穏やかさで、ぬくもる唇を重ねた。その接吻の間で、花京院が、確かに生きている人間の吐息を、そっとこぼした。


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