煙草を喫いに行くという承太郎と連れ立って、花京院はホテルの外へ出た。
 朝食を一緒にと、夕べそれぞれの部屋へ引き上げる前にジョセフに言われたのだけれど、おそらくいつも朝は寝坊を決め込むポルナレフを起こすのに、アドゥブルが手間取っているのだろう、集合予定のホテルのロビーには、承太郎と花京院以外は、まだ誰も現われていなかった。
 エジプトに近づくにつれて、敵スタンドの攻撃の頻度が増していたので、ジョセフとアドゥブルから、くれぐれもひとりでは行動しないようにと言われていた。だから、煙草を喫うために外へ出ると行った承太郎に、花京院はついて行くことにした。
 町の中心からは少し離れているけれど、ホテルの周囲も、すでに案外と騒がしい。
 知らない言葉のおしゃべりというのは、耳を通り抜けても意味をなさないので、少しばかり意識を閉じてしまうと、すでに雑音とすら感じられなくなる。音楽のように、辺りの喧騒を聞き流しながら、ふたりは、ホテルの入り口で、人の出入りの邪魔にはならないように、左の方へよけた。
 取り出した煙草に、すったマッチで承太郎が火をつける。
 煙を吸い込んでふくらむ承太郎の胸を見て、花京院は、他に見るものもなく、立ちのぼる煙の行方を視線の先に追った。
 日本では、周囲に煙草を喫う人間がいなかったので、こんなに身近に煙草の匂いがあることは初めてだ。今ではすっかり、煙草の匂いといえば、即座に承太郎を思い出す。そばにいる花京院の制服からも、たまに承太郎の煙草の匂いがする。髪は膚にも、もう染みついてしまっているかもしれないと、聞こえないようにちょっと鼻を鳴らして、花京院は思った。
 承太郎は、花京院をよけるためか、道の方を見ながら、そちらへ煙を吐く。白い煙の大きさが、承太郎の肺活量を表しているようで、顔立ちよりも何よりも、承太郎が純粋に東洋人ではないことを示す、胸の広さや厚さに視線を当ててから、それを肩や首筋の方へずらした。
 花京院は、相変わらず見事な承太郎の体格に、心の中で感嘆して、それでも、日本でこのサイズの服を探すのは大変だろうなと、よけいな心配をしてみる。
 じっと見つめられているのに気がついたのか、承太郎がちょっと眉を上げて、煙草を花京院から遠ざけた。
 「なんだ。」
 「煙が気になるわけじゃない。」
 承太郎の仕草に気がついて、ちょっと微笑んで見せても、承太郎はにこりともせず、相変わらず花京院に横顔を見せて、ゆったりと煙草を喫い続けている。
 制服姿で、背中を丸めてこそこそと煙草を喫う連中を、見かけたことがないわけではない。正直なところ花京院は、明らかに未成年が煙草を喫っている姿を、彼ら自身がそう思っているほど、格好の良いものだと思ったことはなかった。明らかに慣れない手つきや、強がっている表情が、喫煙ということそのものにそぐわず、みっともないなあと、声に出せば殴られそうな感想しか抱いたことがない。
 けれど承太郎に限っては、わずかにまだ幼さの残る顔立ちが煙に巻かれている様も、眉をしかめるほどではなく、それはおそらく、見上げなければならない位置に、承太郎の唇があるせいなのだろう。
 背が高いというのは、それだけで歳よりも大人びて見えるものだ。おまけに承太郎は、肩も胸も脚も、見事に厚い。制服姿で煙草を喫う承太郎に、注意をしようとした大人や、補導しようとした警官や、そんな命知らずな連中がいたんだろうかと、訊いてみようと思って、花京院は代わりにまたうっすらと笑った。
 「なに笑ってやがる。」
 唇に近づけかけた煙草をそこで止めて、承太郎が、ちょっと目を細めて訊いた。
 花京院はまた、今度はわずかに声を立てて笑うと、別にと軽くあごを反らす。
 「ほんとうに背が高いなあと思ってただけだよ。」
 「好きで育ったわけじゃねえ。」
 「はは、そうだろうな。」
 そう言ってから、何気なく下へ向かってうつむいた時に、承太郎の革靴の爪先が視界の中に入った。
 旅が始まってから急に増えたのだろう、革靴の表面の、こすれた傷に目を凝らす。花京院の靴も、似たような羽目になっている。それでも、埃まみれには我慢がならないのはふたり一緒だから、目立つ汚れは今はどちらの爪先にも見えない。
 さり気なく自分の爪先を承太郎の方へ近づけて、花京院は、深くは考えずに、靴の大きさを比べようとした。
 30cmは越えているだろう承太郎の靴も、一体どこで調達しているのかと、28cmに少し足らない自分の靴でさえ、見つけるのに苦労することのある花京院は、子どもめいた仕草で、承太郎の爪先を軽く蹴ってみたい気分になる。
 それからふと、承太郎の喫煙は、まさか伸びすぎた身長を気にして、それ以上成長しないためではないかと、そんなことまで考えた。
 「承太郎、靴紐がほどけてる。」
 折り目のきちんと入ったズボンの裾に覆われて、そこから、だらりとだらしなく黒の靴紐が地面に伸びているのが、ちらりと見えた。
 右の方だけだと確かめた時には、言葉と一緒に、それを指差していた。
 「ああ?」
 くわえ煙草で、面倒くさそうに、承太郎が軽く上体を折る。膝を曲げて、わざわざ爪先と顔の位置を近づけると、もっと面倒くさそうに眉をしかめた。
 花京院の指先の行方を確かめて、足を地面に戻して、それを見下ろして、まだ手にしている煙草と、交互に見る。
 なるほど、しゃがんで靴紐を結び直すために、まだもう少し喫えそうな煙草を、今すぐ捨てるべきかどうか迷っている表情だ。
 口数の多くない---お互い様だ---承太郎の胸の内を、そこまで読めるようになっている自分に驚きもせず、花京院は苦笑を刷いた。
 「いい、そのまま喫っててくれ。僕が結ぶ。」
 顔の前で手を振って、何か言おうと唇を開けた承太郎にかまわず、花京院は地面に向かって身を沈める。すっとしゃがみ込んで、目の前の承太郎の靴の上に、両手をかぶせるように置いて、靴紐を指先につまみ上げる。
 結ばれていなければ、靴紐は、くたりと地面に転がっている、死にかけた小さな動物のようだ。
 目の前に迫る承太郎の足は、上から見るよりさらに大きくて、そう言えば、日本と違って滅多と靴を脱ぐことのないこの旅で、承太郎の素足を近々と見たことがないことに、不意に気づく。
 花京院の素足も、承太郎の目に触れたことは、おそらくまだない。
 尋常ではない事態のせいで、急に芽生えた深い仲間意識が、承太郎との短い時間を、もうずっと長いものだと花京院に錯覚させていたのだと、承太郎について知っていることなど、数えられるほどもないことに気がついて、花京院はとても不思議な気がした。
 友達というのは、こういうものなのだろうか。
 丁寧な仕草で、靴紐を結んで、ついでのように、ほどけてはいない左の方にも目をやる。
 きちんと履き込まれていて、承太郎の足にやわらかく添っている靴は、けれど靴紐は少しばかり乱暴に結ばれていて、自分がたった今結び直したばかりのそれと比べた出来映えの釣り合いが取れていないことが我慢できなくて、花京院は、左側にも指を伸ばした。
 「何してやがる。」
 「こっちも結び直してるんだ。」
 よけいなことをと、口にするかと思ったけれど、承太郎は無言のまま、ただ少しだけ左の爪先を、花京院に向かって滑らせただけだった。
 左側の靴紐は、固く結ばれてはいるけれど、ふたつの楕円は大きさがちぐはぐだったし、名前の通り、蝶々の細い羽の部分のように見える紐の残りの長さもばらばらだ。おまけに、きれいに横に並ぶはずのふたつの楕円は、むしろ縦に近くなっている。
 手早くそれをほどいて、手元で2本に分かれた紐の長さが同じくらいであることを確かめてから、注意深く結び始める。
 「君、靴紐結ぶの、下手だな、承太郎。」
 うつむいたまま、からかうように言うと、けっと承太郎が肩を揺すった気配が伝わってきた。
 「自分の手元なんざ、遠くてちゃんと見えねえからな。爪先なんぞまじまじ見たこともねえ。」
 「ああ、そうか。」
 なるほど、と思ったのが声ににじむ。言われてみれば、地面までも、自分の指先までも、承太郎の身長では人より遠い。それにその身長では、しゃがむのすら大変なのかもしれない。
 こんなふうに向き合って、同じ世界に生きているのだと思っても、身長が違えば目線も違う。承太郎の見ている世界は、花京院の見ている世界とは違うのだと、最後にきゅっと、きれいにできた輪の形を整えて、花京院は真ん中の結び目を、まるでそれがふたりの違う世界を繋いでいる証拠だとでも言うように、そっと撫でた。
 花京院が、自分の足元にしゃがみ込んでうつむいて、靴紐を結び直してくれている間に、軽く丸まった背中や、少し前に折れた首筋を、承太郎は飽かずに眺めていた。滅多と見ることのない、花京院の無防備な背中の表情が珍しくて、ふと視線を奪われる。触れれば固そうに盛り上がった肩甲骨や、その間を真っ直ぐに渡る背骨や、制服に鎧われている間には思わないけれど、脱いでしまえば、歳相応の少年の体なのだろうと、まだそう思わせる花京院の背中が、指先から肩へ伝わるなめらかな動きに、わずかに揺れているのを、眼下に見つめている。
 自分の視線が、熱っぽくなっていることに承太郎は気づいておらず、靴紐を結び直すことに熱中している花京院は、顔を上げないから、そんなふうに見つめられていることに、なおさら気づくはずもない。
 急速に親しくなってしまったふたりは、互いについて、知っていたつもりで知らなかったことを知るたびに、戸惑いを隠せずに目を見張る。
 見かけに似合わない、ふたりの歳相応の幼さは、親友と互いを呼ぶことへの憧れとためらいを同時に含んでいて、そして、それをわざわざ口にしないことが相手への敬意だと思える程度に大人びているふたりは、また向かい合って、ただうっすらと微笑み合うだけだった。
 花京院が結んでくれた靴紐を検分するように、わざわざまた爪先を持ち上げ、承太郎はにやっと笑う。
 「行こう、僕らが遅れたと思われる。」
 意地の悪い承太郎の仕草をさらりと流して、花京院がホテルの入り口を指差しながら、穏やかに微笑む。
 位置は揃わない肩を並べて歩き出すふたりは、短い距離を歩調を揃えて、同時に、同じ足を前に出した。


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