不可解


 授業の間のほんの10分の休みに、たまに承太郎がやって来る。
 3階の3年生の教室から、2階の2年生の教室まで、往復するだけで休憩時間が終わってしまうと思うのに、何をしたいのか、承太郎はわざわざ花京院のところへやって来る。
 騒がしい廊下が、ぴたりと静かになって、さざなみのように、ささやきが向こうから走って来る。承太郎が歩くのに合わせて、振り返る生徒たちが、教室の中にいても、花京院にはちゃんと見える。
 開いたままの後ろの扉から入って、教壇から見れば右寄りの、一番後ろの花京院の席へ、承太郎は何も言わずにやって来る。
 初めての時は驚いて、思わず椅子から立ち上がってしまった。
 教室の中は静まり返り、承太郎の周りに、きっちり2mほどの空間を空けて、花京院のクラスメートたちは、遠巻きにふたりを見ていた。承太郎が出て行くまで、誰も一言も発しなかった。休み時間が終わって、教室へ入ろうとした教師が、承太郎の姿を見つけてきびすを返したのを、クラス全員が目撃したけれど、誰もその教師を笑ったりはしなかった。
 そんな風に、承太郎が一体学校でどういう扱いをされているのかを目の当たりにして、その承太郎の親友という、あまり有難くもない呼び方をされる花京院も、生徒からも教師からも一目置かれる羽目になったけれど、承太郎が卒業した後ではどうなるのかと、花京院は時々不思議な気分になる。
 今日も承太郎は、いつもの仏頂面でやって来て、花京院の前の席の椅子に、後ろ向きに腰掛ける。椅子がとても小さく見えて、背もたれに向かって背中を丸めた承太郎は、何だか可愛く見える。そもそも学校という場所が、承太郎にはとても似合わない代物だ。
 仕方がないな。僕らは、学校で出会ったわけじゃないからな。
 裾の長い学生服で渡った砂漠の、血のように赤かった夕焼けを思い出しながら、そんな感想を口にはしない花京院だ。
 授業の間の休みの、たった10分でも、持って来た---あるいは図書館で借りた---本を読み進めたい花京院には、正直なところこの承太郎のクラス訪問は、邪魔と言えば邪魔だったけれど、毎日というわけでもなく、毎時間というわけでもなかったから、それならいいかと受け流して、別に承太郎が来てくれたからうれしいというわけではない、という態度は隠さないことにしておいた。
 「昼メシは何だ。」
 「肉じゃがと卵焼きだ。」
 「・・・焼きそばパンひと口と交換はどうだ。」
 「3口で手を打とう。」
 「・・・足元見やがって。」
 仏頂面突き合わせてする会話は、いつもそんなものだ。皆のいるところでは、ことさら素っ気ない態度を取るのはふたりともよく似ていて、ふたりきりならあれこれと、益体もない話をべらべらと続けるのに、わざわざ花京院の教室にやって来て、口にするのは昼の弁当の中身のことだとか、辞書を忘れたから貸せとか、今読んでるのは何の本だだとか、ほんとうに承太郎は、一体何しにここへ来ているんだろうかと、花京院はいつも思う。
 椅子の背を抱え込むようにすると、承太郎の体が、いっそう大きく見える。開いた長い足は、どうしたって机の下には収まらないだろう。体が大きいというのも考えものだ。
 いつものように、ただ向き合って、花京院は次の授業の教科書を、ただ何となく開いて読んでいたし、承太郎もそんな花京院を、黙って見つめているだけだ。教室にいる生徒たちは、相変わらず遠巻きに、ふたりを見守っている。承太郎のこの不定期の訪れは、2階の生徒たち---と運の悪い教師たち---に恐怖しか呼び起こさないというのに、承太郎はそれに頓着するはずもなく、花京院も、これと言った手段を講じるつもりもない。
 まるで別れの合図のように、のんびりとチャイムが鳴る。承太郎はまだ立ち上がらず、花京院の方へ軽く身を乗り出して、飽きずに花京院を眺めている。
 「承太郎、授業が始まるぞ。」
 一応、外聞をはばかって、そう警告してみる。
 実のところ、このまま承太郎と一緒に、授業をさぼって屋上へ行くのもいいなと、心の中で思っているなんてことは、おくびにも出さない。成績の心配はないけれど、まだ優等生の顔は保っておきたい。さぼり癖をつけてしまっては、来年困ったことになる。
 承太郎は、一向に席を立つ気配を見せない。花京院も、それ以上は何も言わない。
 承太郎の訪問の知らせが、わずかの間に職員室にも届いたのか、教師の足音も、一向にこちらにはやって来ない。生徒たちは、しずしずと席に着いて、黒板を凝視している。
 承太郎と花京院の席だけが、ここでは異空間だ。
 そうして、チャイムが鳴り終わって数分、ふたりの傍に、意を決したというような、けれど弱々しい足音が、爪先を滑らせてやって来た。
 「あ、あの・・・じょ・・・JoJo先輩、あの、おれじゃなくて、ボクの席・・・あの、ボクの席・・・」
 そうだった、被害者は、気の毒な教師だけではなくて、花京院の前の席の、正当な権利者であるクラスメートもだ。
 花京院よりも少し背が低い、極めて真っ当な高校生の彼は、可哀想に顔を真っ赤にして、一体いつ承太郎にぶん殴られるだろうかと、肩を縮めて、上目遣いにふたりを見ている。
 じろりと、別ににらんだわけではない、ごく普通の承太郎の視線だったけれど、彼を震え上がらせるには充分だった。承太郎はただ、声がした方に、きちんを顔を向けただけだったのに、慌てて後ろに一歩下がった彼に、ちょっと腹を立てたのか、今度は本気でにらみつける目つきをする。花京院は、素早くそれをたしなめた。
 「承太郎、自分の教室に戻れよ。」
 承太郎にこんな物言いをするのは、校内で花京院だけだ。花京院を、影の番長呼ばわりする連中もいるという噂があって、花京院は、それをひどく迷惑だと思っている。けれど唯一承太郎に遠慮のない口を利ける存在として、その権利を遂行しないわけには行かない。例えば、自分の困っているクラスメートのために。
 きちんと黙った承太郎が、椅子の上で肩を揺すった次の瞬間、もうその大きな姿は教室から消えていた。
 一体どこへ行ったのかと、承太郎の姿を探して、かわいそうなクラスメートが右左後ろときょろきょろうろたえている。
 時を止めたそのすきに出て行ったのだと、わかるのはもちろん花京院だけだ。
 承太郎が去るのを廊下で待ってでもいたように、教師が教室に入って来た。
 かわいそうなクラスメートは、それを見て慌てて席に着き、花京院を顔半分で振り返って、やや怯えた表情で、問いかけるような仕草をする。花京院は、わざと肩をすくめて、苦笑を浮かべて見せる。ごめんの代わりだ。
 彼はまだ混乱した表情のまま、それでも前へ向き直り、急いで机の上に取り出した教科書を広げ始める。
 その彼の背に隠れるようにやや体を丸めて、花京院は、ハイエロファントグリーンをそっと呼び出した。
 承太郎。
 呼びながら、廊下を這う。階段を上がる手前にいたのに追いついて、その肩に乗りかかるように、ハイエロファントは承太郎の耳元で訊いた。
 どうして、僕のところに、わざわざ来るんだ?
 「てめーが来ねえからだ。」
 承太郎の声が答える。
 3年生の教室になんか行けるもんか。
 下級生の教室へは入れるけれど、上級生の教室へは、相当の理由がない限りは足を踏み入れない、ということになっている。そういう、暗黙のルールとやらには素直に従うというのが、花京院の、転校生としての処世術だ。
 承太郎は、ハイエロファントを肩に乗せたまま、階段を上がりきった。教室の方へ曲がらずに、そのまま屋上へ向かう。
 教室に来なくったって、一緒に屋上に行けるじゃないか。
 承太郎は黙ったまま、重い鉄のドアを開けて、屋上へ出た。不意のまぶしさに、ハイエロファントが承太郎の背中に隠れて、陽射しを避けようとする。花京院は、教室で、ひとり陽射しに目を細めていた。
 屋上だけではない。承太郎の家でも、どこでも、わざわざ教室に来なくても、ふたりになれる場所は他にちゃんとある。
 僕は別にかまわないが、僕のクラスメートが、君に席を取られてかわいそうだ。
 クラスで悶着を起こさないために、ひとまず言っておこうと、花京院は思ったままを口に出す。
 承太郎はまだ何も言わず、胸ポケットから煙草を取り出して、火をつけずに口にくわえた。
 「知りてえか。」
 そうやって喋ると、煙草が揺れて、声が奇妙に響く。教師の言うことなど聞き流して、花京院は、承太郎の声にだけ耳を傾けている。
 ああ、ぜひ知りたいな。
 承太郎は、まだ黙った。煙草に火をつけて、ゆっくりと吸って吐く。まるで花京院を焦らすように、空へ向かって高々と煙を吐き出す。それを、ハイエロファントが、承太郎の背中から見ている。
 青い空に、薄い雲が散っているその上に、承太郎の吐いた煙が昇っていくのを、花京院はうっかり目で追っていた。気持ち良さそうな屋上の風景に、思わず授業を投げ出したくなる。承太郎と一緒に、行けばよかったと、こっそり思った。
 「椅子に坐りゃ、目が合うからな。」
 突然、承太郎が答えた。
 質問と答えが少しの間一致せずに、頭の中が空白になる。戸惑いがハイエロファントに伝わって、承太郎が、振り返って苦笑をこぼす。
 多分、花京院だけが知っている、承太郎の笑い顔だ。
 夢見るような表情で、花京院は、立てた教科書の陰で、承太郎に向かって目を細めた。
 確かに、正面に向き合って目線が合うのは、ふたりきりで抱き合っている時だけだ。そういう時は、別のことに夢中になっているから、互いをじっと眺めたりはしない。
 それなら、ふたりの時に、正面から見つめ合えばいいじゃないかと思ったけれど、ふたりの時には、触れ合うことに熱中して、それどころではないのだ。
 煙草の燃えるかすかな音が聞こえる。承太郎は、まだかすかに笑っている。
 花京院だけが知っている、こんな承太郎だ。
 ほんとうに、授業なんかさぼって、一緒に屋上へ行けばよかった。
 教師の声を、右から左に聞き流しながら、花京院は、陽射しをまぶしがるハイエロファントを、承太郎の正面へ動かして、承太郎を見下ろす位置に据えた。
 目の前の、かわいそうなクラスメートの丸まった背中に、さっきまでそこにいた承太郎の姿を重ねて、花京院は、それに向かってまた目を細め、知らずに微笑みを浮かべていた。
 吸い終わった煙草を踏み消し、承太郎はハイエロファントを見上げる。自分の首に翠に光る腕を巻きつけてくるスタンドに、素直に抱き寄せられて、その肩口に頭を乗せる。
 花京院を全部手に入れたくて、自分の知らない花京院がいることが癪で、だから、ああやって教室へ顔を出すのだと、もうひとつの承太郎の本音は、花京院にはまだ知らせない。
 見つめ合う暇も惜しいほど、触れ合いたくて、そんなにも互いに夢中なのだと、認めてしまうには少しばかり誇り高すぎるふたりだったから、今は教室と屋上に分かれて、それを平気だというポーズが、互いに通じていると思っている程度に、まだ稚ないふたりだ。
 ハイエロファントに、承太郎を抱きしめさせたまま、花京院は、前の席のかわいそうなクラスメートに、いつかちゃんと詫びを入れようと思う。きっと卒業まで、承太郎はここへ来続けるだろうから。
 昼の焼きそばパンは、ふた口だけにしておこうと、教科書の陰で、花京院はひとり笑った。


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