葬送


 死肉の匂いを消すためか、それとも血の匂いを消すためか、嗅ぎ慣れない香が、傍に焚かれているのが見えた。
 重々しいドアを開けてくれたのは、その遺体と先に会ったジョセフで、承太郎の肩を叩いて、入れ替わりに出て行った。
 ドアが背後で閉まり、遺体の乗ったベッドに近づきながら、誰に言われたでもなく、承太郎はゆっくりと帽子を脱いだ。
 頬や唇の近く、わずかに見える生え際の辺りに、すった傷や切った傷が見える。どれも生々しいけれど、乾いて、血の色は見えない。肌の色も唇の色も、境のない土気色をしていて、日焼けさえ今は色褪せて見える。
 見つかってからどういう処置をされたのかは、詳しくは知らない。体を覆うシーツは、胸元までは引き下げられているけれど、大穴が開いた---それが、致命傷だったという---腹は、何事もないように隠されていた。
 ドアの外で聞いたポルナレフの叫び声と、大きな泣き声と、それから、こなごなに砕け散った吸血鬼への罵りの言葉と、どれもフランス語らしかったから、承太郎にはその内容はわからず、ただ、ポルナレフの嘆き悲しみが一通りでないことだけは、ジョセフにも承太郎にもはっきりとわかった。
 年の近い兄弟のように、じゃれ合う時には無邪気なふたりだったから、わずか2ヶ月足らずの付き合いだったとは言え、あんな風に悲しむのは当然だと思えた。
 ポルナレフの嘆きようは、不思議と承太郎には何の作用も及ばさずに、承太郎はただ、逝った友と生き残った友の、笑い合っていた顔がもう一緒には見れないのだということを、何の感慨もなく考えていた。
 ようやく出て来たポルナレフと入れ替わりに、ジョセフが静かに入って行った。押し殺した嗚咽が、かすかに聞こえて、何か小さくつぶやく声が、ドアから漏れるばかりだった。
 ポルナレフは、まだ乾かない頬を隠しもせずに、ジョセフの消えたドアを振り返り、そして、無言で承太郎を抱きしめた。そこでまた、わずかの間泣いたポルナレフを、承太郎はただ抱き返し、わざわざ慰めの言葉を吐くことを避けた。
 そうして今は、承太郎の番だ。
 血まみれだったはずの髪は、誰かの手で洗われたのか、今はきれいになっている。肌の色は悪いけれど、それでも、今にも目を開けて起き上がりそうで、それが死体だという実感はまだ湧かず、承太郎はそこで止めていた足を、ようやくベッドのすぐ傍へ運ぶ。
 「花京院。」
 意味があったわけではなく、ただついいつものように、呼んでしまっただけだ。答えがないことに、わずかに驚いている自分に驚いて、承太郎は、ちょっとだけあごを引いた。
 「花京院。」
 体をやや折り曲げて、まるで声が小さすぎたとか遠すぎたとか、それが返事のない理由だとでもいうように、承太郎は少しだけ花京院の耳元に近づいて、また呼んだ。
 返事はない。あるはずがない。
 身内の死にさえ、まだ出会ったことのない承太郎にとって、これが間近に見る、初めての遺体だ。初めての、大事な誰かの、死んだ姿だ。
 「おい。」
 何も考えずに、そう呼びかけた。返事を期待しない呼びかけは、灰色の四角い小さな部屋の中に、ひどく空ろに響く。
 「おい。」
 もう少しだけ太い声で、呼んだ。
 返事がないと、確認したくてそうしたように、そして、確かめたくなどなかったのだという自分の心の声を聞いて、承太郎は、それきり唇を固く引き締める。
 涙を流すには、まだ現実味が足らないのだ。そして、そんな現実味など、欲しくはなかった。
 花京院。唇だけでつぶやいて、そうして、部屋を出て行く気にもならず、かと言って、すでに死んだ人間を目の前にできることなどなく、時をさえ止められるようになった自分のスタンドの無力さを、心の底から呪った。
 世界は救われたけれど、その救われた世界には、花京院はいないのだ。最期の言葉さえろくに交わさずに、自分の知らないところで勝手に逝ってしまったのだと、恨み言をどこへ向ければいいのか、承太郎にはわからない。
 それが、自分にできる最高の手向けだとでも言うように、承太郎は、脱いで手にしていた帽子を、花京院の胸に乗せる。ちょうど、致命傷だったという腹の穴の、すぐそばのように思える位置だ。そうすれば、穴が塞げると、そんなことを思ったのかどうか、承太郎自身にもわからない仕草だった。
 小さくはない体だ。けれど血の色を失くして、かさが減ってしまったように見える。
 もう、何もできることはないのだと、そう思って、承太郎は、ふと花京院の頬に触れた。冷たく硬張った皮膚はひたすらに冷たく、血も鼓動もない体には、もしかして帽子すらも重いかと、少しだけ慌てて、そっとそれを取り上げる。
 その時、気配がした。
 いつもの俊敏さで背中を回し、そうと自覚もないまま、スタープラチナを身内から呼び出す。振り返ったそこに、花京院がいた。
 思わず眉を寄せて、何か言うために開いた唇が、けれどうまくは動かない。承太郎の驚きをよそに、その花京院は、承太郎に向かってうっすらと微笑んで見せた。
 やあ、承太郎。
 そのまま手でも振りそうに、何かわけでもあるのか、承太郎の腕の長さよりも近くへは寄らない。肩先や足元、腹の辺りが、なぜか他の部分よりも透けて見える。そういうことかと、冷静に受け止めて、けれど口をついて出たのは、いつもの口調だ。
 「てめー・・・」
 困ったように首をかしげて、少しばかり近づいた承太郎から、同じようにわずかに足を引く。
 間違いなく花京院だった。
 「驚かせるつもりはなかったんだ。君には、最期に挨拶もできなかったからな。」
 「最期の挨拶なんざいらねえ。姿を現せるなら、とっととこっちに戻って来い。」
 これはいわゆる幽霊だろうと何だろうと、そんなことは承太郎の知ったことではない。こうやって見える姿になれるなら、戻って来れるはずだという、いつもの承太郎の、言いがかりに近い願い事だ。
 「相変わらず、こんな時でも君は無茶を言う。そちらに戻るために、姿を見せたわけじゃないんだ承太郎。」
 口元に薄い笑みを浮かべたまま、花京院があしらうように言う。相変わらず、こんなことになっても、こちらの神経を逆撫でするのがうまいヤツだと、妙なことに感心しながら、承太郎は花京院に手を伸ばそうと、そのタイミングだけをこっそり計っている。
 「戻って来い、花京院。」
 花京院が、また困ったように首をかしげた。笑みが少し薄れて、目元に、悲しそうな表情が浮かぶ。
 「君に、きちんと挨拶をして、きちんと送ってもらおうと思って、現れたんだが。」
 「戻って来い。」
 花京院の語尾をかすめ取るように、承太郎は低い声で、それだけを繰り返した。わがままを言う子どもを見る保護者のような目で、花京院が承太郎を見ている。しばらくそうして承太郎を見つめた後で、耐え切れなくなったとでも言いたげに、口元を歪める。
 「・・・君にそんなことを言われたら、逝けない。頼むから、僕を見送ってくれないか。」
 ドアを背にしている花京院を見つめて、もし今誰かが入って来たら、花京院の姿はちゃんと見えるのだろうかと、承太郎は、何も言わないために奥歯を噛む。何か言えば、そのまま花京院がまたどこかへ連れ去られてしまいそうで、承太郎は花京院に向かって、ただ首を振って見せた。
 この部屋にひどく似合いな、重々しい沈黙が下りてきて、ふたりともしばらくの間、それについて何かしようという素振りを見せないまま、ただ互いに見つめ合っているだけだった。
 決意の固い承太郎の沈黙の方が、少しばかり重かった。
 承太郎、と花京院が呼ぶ。
 「僕は、死んだんだ。承太郎、僕は死んだんだよ。」
 掌で、腹の辺りを示しながら、花京院が押し殺した声を出す。
 「僕は死んだ。でも君には明日が来て、日本に戻って、学校を卒業して、多分大学に行くんだろう。何か仕事を見つけて、そうしたらきっと、次は結婚だ。子どもが生まれて、その子どもが大きくなって、その子が幸せになることが、何よりきっと大事になる。君は生きてるんだ、承太郎。」
 叫ぶような、諭すような、花京院の声だった。
 「僕がいなくても、別に何も変わらない。明日は来るし、人はちゃんと生きてゆく。承太郎、これは、今君が感じているほど、重大なことではないんだ。」
 花京院に応えて、言いたいことは山ほどあった。承太郎たちが明日生きられるのは、花京院のおかげだ。花京院の死が、確実に誰かを生かしたのだ。その関わりなしには、もう世界は1分たりとも前には進まない。それを忘れて、これからやって来る明日を大事にすることが、できるはずもない。その生死に関わらず、花京院のない世界は、これまでも存在しなかったし、これからも存在しないのだ。承太郎にとっては、今この世界よりも、花京院自身の存在の方が、よほど大事なのだと、どう言えば伝わるのかと、手の中の帽子を握りしめて、考える。
 だから、戻って来い。どんな力を使ってもいい、必死で戻って来やがれ。
 言葉を選んでいる間に、承太郎の心を読んだのか、花京院がいっそう口元を歪める。今ではもう、泣きそうに、頬の線を固くしているのが見えた。
 「戻って来い、花京院。」
 まるで、それが可能であるかのように、承太郎はただ同じ台詞を繰り返す。心のどこかで、それを花京院が望むなら、決して不可能ではないのだと、知っているのだとでも言うように。
 ついに、花京院の目から、涙がこぼれた。
 淡く赤く盛り上がった目の傷と平行に、涙が口元へ落ちてゆく。そうやって泣けば、年相応の少年の顔になる花京院に、珍しいものでも見るように、承太郎はじっと目を凝らした。
 僕だって、と唇が動く。背後の、血の色のない花京院とは違って、こちらはきちんと頬も赤い。その唇が動くと、また涙がひと粒こぼれた。
 「ずっとあのまま、君と友達でいたかった。僕も、君と一緒に日本に帰りたかった。僕だって、戻れるものなら戻りたいんだ承太郎。」
 戻れないからこそ、こうやって、会いに来たのだ。最期に一目だけ、一言だけ、それだけが望みだった。見送ってくれるなら、何も言わずに逝けたのだ。それでも、承太郎が自分を失いたくないと、そう思っているのだと、ほんとうは知りたかったのだ。
 余計なことをして、傷つくだけが、傷つけるだけが結果になると、そうわかっていたはずだったけれど、それでも、承太郎に言わずにはいられなかったのだ。
 「僕のために、君は無事に日本に帰ってくれ。僕のために。頼む。承太郎。」
 その名を、もう呼べることはない。だから花京院は今、その名を呼び続けている。
 気がつけば、花京院の姿が、足元から消え始めていた。
 「花京院ッ!」
 思わず足を前に出して、腕を差し出す。承太郎が届くよりも早く、花京院は壁の中へ消え始めていた。
 「・・・僕のことを、時々でいい、思い出してくれないか。他には何もいらない。君が、僕のことを、もう1度くらい、また会いたいと思ってくれたら、それでいい。」
 横顔だけを見せて、最後に振った腕が、壁の中へ消えて行った。
 握った拳を見下ろすうちに、花京院の気配が消え、そうして、さっきまではなかった消毒薬の匂いが、かすかに漂っているのに気づく。
 戻って来いと、言おうとした唇が、そこで固まった。
 振り返り、何事もなかったように、ただ静かに横たわっている花京院に、もう声を掛けることもできず、あれが幻だったのだとはもちろん思わずに、承太郎は、ゆっくりと帽子をかぶり直した。
 つばに指先を掛けたまま、うつむいて閉じた目の奥にあふれて来る涙を、必死で飲み込む。
 震える声で、やっと言った。
 「・・・やれやれだぜ。」
 大きく肩を回して、制服のすそが空気を乱す。また消毒薬の匂いが、かすかに鼻先に立った。
 もう、振り向かなかった。


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